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アラクネーに捧ぐ

作者: 宇垣みどり

一匹の巨大な蜘蛛が居た。

ベージュ色の壁に八つの足を突き立てて、悠然とした表情でこちらを眺めていた。

気が付いたのは、もう夜も更けようかという明朝の頃だった。

不意の肌寒さに目が覚めて、うつらうつら船を漕ぎながらもう少しばかり眠ろうかと布団を掛け直した時、

私の正面に黒々とした塊が壁を這っているのを目撃したのだった。

原因は明白だった。

網戸に大きく空いた穴。

そこは数ヶ月前の私が養生テープをおざなりに貼り付けて形ばかりの補修をしようとした形跡が残っている。

私の性癖のひとつに欠陥を欠陥のまま放置しようとする悪癖がある。

それが如実に現れてしまっていた。

その穴から、この蜘蛛は侵入せしめたのだろう。


私は缶スプレーを素早く手に取ると、威嚇するように音を立てて蜘蛛に近付いていく。

すると、蜘蛛は怯えたように足をばたつかせて本棚の後ろに隠れてしまった。

私は舌打ちをする。

本棚には私がここ数年収集した本が並んでいる。

そこには古今東西の本が乱雑に並び、プラトンの横には坂口安吾が、その横にはボードレールが、ワイルドが、谷崎潤一郎が、ポーが、ラディゲが、ツルゲーネフが、国や出版社を問わず並べられていた。

まるでそれは雑多な知識が散らかって存在する私の脳内をそのまま抜き出したようだった。

それらは私の数年間で唯一成し得た軌跡を表したもので、それらを汚してまで退治してやろうという気持ちは起こらなかった。

私は仕方なしに蜘蛛が出てくるのを待った。

しかし、どれだけ待とうとも蜘蛛は本棚の裏から姿を見せず、いつの間にか私は眠りに落ちていた。


どれだけ眠っていたのだろう。

私が気が付いた時にはもう、太陽は天上へと上り、ぎらぎらとした熱視線を地上に注いでいる。

地上3階にある自室も例外ではない。

眩さに思わず目を細めながら、私は立ち上がる。

凝り固まった腰を回しながら部屋を見渡すが、部屋には蜘蛛の姿は無い。

私はもう諦めてもよいような心持ちになった。

私は蜘蛛と同居することを決めた。


私は同居することに決まった以上、その蜘蛛に決まった名前が無いのがなんだかむず痒く思えてアラクネという名前をつけた。

蜘蛛に付ける名前としては随分ひねりのない安直なネーミングであるが、これが却って堂々として決まりが良いような気がした。

それに、アラクネと名付けることで幾分か蜘蛛に対して情が生まれてくれるのではないかとも考えた。

故に蜘蛛はアラクネとなった。


私はあまり部屋を開けることが無かった。

日中の用事らしい用事といえば、講義に出席するか、買い物に行くかのどちらかであったし、それも長くて4時間ほどで、あとの時間は大体部屋に居て、日がな一日過ごしていた。

私が好むのはテレビゲームと読書であった。

随分内向的で寂しい趣味だという自覚はあるのだが、何せ友人らしい友人が居ないのだから、余暇を楽しむ為にそういった自分一人の身体と心さえあれば楽しめるものを選ぶのは致し方ないと言えた。

一時期ビデオゲームは寝食を忘れて没頭したものだが、最近はまるで楽しめなくなってきていた。

十数時間通してやるのはそれほど珍しい事でもなかったが、ここ数ヶ月は15分もやればすぐに飽きてしまう。

代わりに読書の時間が増えていた。

読書は私の心の鎮痛剤のようなものだった。

没入している時だけ、私の心はこことは違うどこかにあって、何もかもを忘れ、ただ熱中していられた。

だが、読書に夢中になればなるほど、部屋に本が増えていけばいくほど、私は自分の人生を生きている実感を失っていた。

時折部屋から外に出た瞬間、地に足が着いていないような錯覚を覚えて、その場にしゃがみこんでしまうことがある。そして、その場で地面に手のひらをつけて実感を得ないと立ち上がることさえままならないのだった。

最近では食べ物の味さえ曖昧だった。

加齢による味蕾の鈍化では説明がつかないほど、私の味覚は鈍ってしまっていた。

何を食べても薄味に感じた。好物であった甘味さえその味を上手く感じ取れない。

毎日の食事は苦痛だった。

食べても味がしないのでは食事としての面白みがない。私が食事に対して求めるのは食感だけだった。

それでも口から栄養を摂取しなければいけないと体が切実に訴えかけてくる。

食への頓着がどれだけ薄れても飢えは無くなってはくれなかった。

食感ばかりが面白い、無味乾燥としたものを口に運んで咀嚼するたび、こんなつまらないものを最上の幸福だとする人間が存在しているのが信じられないような心持ちになった。

私にとって、食事はただの作業だった。


その癖、全く別の欲求は一向に消えてはくれなかった。

一説によれば、人の三大欲求の最大値は決まっていて、ひとつの欲求が人よりも弱ければ、他の欲求が人よりも強くなるらしかった。

私は己の中に渦巻く醜い獣欲が消え去ってくれるのを願った。

ただ耐えて消費していくだけの毎日を送る私にとってそれは不要なものでしか無い。

けれども、私の願いが聞き入れられることは終ぞ無かった。


私の一日は日に一度の食事と、鎮痛剤としての読書、それから浅い眠りで出来ていた。


アラクネはあれから一向に姿を見せてはくれなかった。

私は幾ばくかの寂寥感を覚えていたものの、本棚の後ろを覗き込む勇気は出ず、ただじっとその姿が現れるのを待った。

私はあの時即座に殺そうとしたアラクネに親しみを覚えている自分に気が付き、自嘲じみた笑みを浮かべてしまう。

つまるところ、私は寂しかったのだろう。

誰にも見てもらえず、誰とも関わらない生活は気楽である一方、どうしようもなく孤独である。

心が弱っていくのも無理は無い。

そんな生活の中でアラクネは私の拠り所となっていったのだろう。

だから、私はこれだけの親しみを感じているのだ。

私はアラクネが現れるその時を待つことを決めた。


それから私の日々には少しばかりの彩りが加わった。

今までの状況が変わることは無かったが、浅い眠りから揺り起こされる朝の苦痛は楽しみへと変わった。

いつかアラクネが私の前にもう一度現れた時、私は孤独から解放されるのでは無いかという予言めいた確信さえ覚えていた。

私を孤独から救済する糸はもう眼前まで垂れている。


筈であった。

恐らく一週間が経った。

けれども、待てど暮らせどアラクネは姿を現すことは無かった。

私は浮き足立っていた自分の心がいやに落ち着いていくのを感じた。

私は、本棚の裏を覗き込んだ。

そこには足を折りたたんで死んでいる蜘蛛の遺骸がひとつ転がっていた。

それは、ずいぶん小さかった。


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