前編
リハビリ。
放置作品を仕上げる前の練習です。
宜しくお願いします。
「紗央莉、結婚しよう」
亮二は熱い瞳で言った。
高一で出会い、交際を始めて今年で10年になる。
お互い25歳だから、そんな話になるのは不思議じゃない。
今日のプロポーズだって以前からそんな予感がしていた。
指のサイズをそれとなく確認していたし。
「…え、それは…」
幸せなはずなのに。
心の底から嬉しいのに。
亮二の胸ポケットが不自然に膨らんでいるのって、ひょっとしたら婚約指輪?
『はいお願いします』
その言葉が出てこない。
言ってはならないと、心の声が叫んでいた。
「紗央莉、幸せになろう」
亮二は自分の言葉に責任を持つ人。
長い付き合いで分かっているのだが…
「…ごめんなさい、少し考えさせて」
「どうして…俺が頼りないからか?」
決死のプロポーズに対し、辛い思いをさせる自分は最低な女。
結婚という新たな未来に向けてのスタートラインに立つ事を躊躇うなんて。
「母親の事か…」
「うん…」
「それは大丈夫。
おばさんの事はちゃんと考えてるから」
亮二が私の心に渦巻く闇を突く。
母は7年前に身体を壊し、以来ずっと入院している。
彼は母と私を気遣っているのだ。
「亮二のご両親だって、こんな状態の女を嫁にするなんて歓迎出来ないでしょ?」
「親父達も紗央莉のおばさんの事情を知っている。
ちゃんと分かってくれてるから」
亮二の言葉は本当だろう。
おじさんとおばさんは私だけじゃなく、家族の事まで良く知っている。
母がああなる前は、お互いの家族ぐるみで交流だってあった。
「…ちょっと考えさせて」
だからこそなのだ。
母が壊れてしまった本当の理由は家族以外誰も知らない。
知られたら私は亮二から切り捨てられてしまうだろう。
もし立場が逆なら、私の家族は複雑な感情を抱き、結婚を反対するに違いない。
そんな私が、普通の幸せを掴もうなんて…傲慢だ。
「分かったよ、納得するまで考えてくれ。
まあ断っても、諦めないからな」
「…亮二」
はっきりしない態度なのに、どうして亮二は優しく出来るの?
こんな女なんか切り捨てて、新しい出会いを求めた方が良いに決まってるのに。
「ありがとう。
ちょっと気持ちの整理をしたいから、お母さんの病院に行ってくるね」
デートを昼で切り上げ、駅で亮二に見送って貰う。
ホームから病院に面会の予約を入れた。
電車を乗り継ぐこと1時間、目的地のある駅に着いた。
駅前で止まっていた客待ちのタクシーに乗り約20分。
ようやく病院が見えて来た。
閉ざされた大きな鉄の門。
扉横の警備室で氏名を伝え、迎えに来てくれた施設の職員に続く。
何回来ても慣れない、慣れたくもない。
エレベーターで四階に上がり、長い廊下を歩く。
ズラッと並んでいる部屋の扉。
ある部屋の前で職員さんは立ち止まり、胸に下げていた認証カードを扉のセンサーに当てるとロック解除の電子音がした。
「お入り下さい」
「ありがとうございます」
職員に頭を下げ、部屋に入る。
半年前に来た時と違う部屋だ。
今回は六畳程の広さで、トイレが備えられている。
部屋中央に置かれた一人用のベッドが一床。
テレビも置かれ、開いたカーテン越しの窓から差し込む赤い夕焼け。
一見すれば、どこにでもある病院の個室のよう。
病院には違いない。
窓の外に鉄格子と、室内に何台も設置された監視カメラさえなければ。
「…精神科病院か」
室内の様子は病院のスタッフが24時間監視している。
患者の抱える症状はそれぞれだが、ここにはプライバシーという概念は無い。
「母さん」
ベッドに眠っている一人の老婆に呟く。
あまり手入れされてないだろう髪は白髪が目立つ。
深く刻まれたシワも相まって、80代の老婆に見える、本当は53歳なのに。
「母さん、おはよう」
眠る母に呼びかけると薄く目が開く。
天井の一点を見つめる虚ろな目。
気配に気づいた母の視線が私を向いた。
「あら紗央莉、おかえりなさい」
「うん…ただいま」
ベッドから身体を起こそうとする母。
私はそっと背中に手を回す。
すっかりやせ細ってしまった身体に昔の面影はない。
唾棄すべき秘密を隠しながら、家族と幸せな生活を甘受していた母の面影。
「ごめんね紗央莉、お母さん寝てたみたい」
「…うん」
笑う母はずっと正気を失っている、だから今の私を見ても違和感を抱かない。
母が見ているのは昔の記憶。
家族と過ごした18年の記憶…
「買い物に行かなくっちゃ」
「買い物?」
どうやら母の脳内では今から買い物に行くつもりらしい。
実際はベッドから動かず、視線を漂わせ、口をモゴモゴさせながら頻りに手を動かしている。
着替えをしているのだろう。
「美愛が陸上部から帰って来る前に済ませないと。
今日はお父さんが帰ってくるからご馳走よ」
「…へぇ、ご馳走か」
美愛は私の4歳下の妹。
今は21歳で、陸上を始めたのが中学に入ってから。
これは8年前の記憶。
母と家族の絆が壊れる直前の……
「お父さんの大好きな唐揚げも作ろうかしら。
紗央莉も手伝うでしょ?」
「…分かった」
お父さんが出張から戻る日はいつも御馳走を作って待っていた。
料理を用意する幸せそうなお母さんの姿を見るのが好きで、私は買い物と料理をいつも手伝っていた。
お母さんはお父さんと結婚する前、一度結婚していた。
最初の相手は他の女と浮気をした挙げ句、母を棄てた。
『もう結婚は懲り懲りと思ったんだけどね、でもお父さんと出会って分かったの。
この人となら幸せになれるって』
母は昔そう言っていた。
「それなのに…お母さんはどうして?」
「えーと、先ずはカレーでしょ…」
私の言葉を聞き流し、母は首を前後に振り出した。
こうなったら私の言葉が届かなくなる。
結局母も浮気をした。
相手は離婚した前の男。
どんな経緯で再会し、そんな関係になったか分からない。
ただ事実として母はお父さんと再婚した2年後に、その男と一年間の不倫関係になった。
不倫を始めて一年後、男は行方を眩ませてしまい、関係は自然消滅になった。
不倫がお父さんにバレる事無く、母は元の生活に戻った。
だが18年後、不倫は暴かれたのだ。
男が母を脅迫した事で、私達家族が知り。
そして母は壊れた。
私がお父さんの娘ではなく、その男の子供だった事実を知られて…
後編に続く。