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ニュートンの忘れ物  作者: 高城 蓉理
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倫理、エントロピーに溶け出す




 手離したくないのに、それが正義なのかが分からない。でも背中を押されないと 自分を否定された気分になるし、逆に止められないのは 捨てられた錯覚さえ抱いてしまう。

 ほんの些細なボタンの掛け違い。それでも時間が経てば経つほど、折り合いを付けるきっかけが分からなくなる。そんな自分の子ども染みた言動が心底腹立たしかった。



「鞠子」


「…… 」


「コーヒーでも飲むか? 」


「うん 」


 予定外だった。

 目指していたのは親の背中を追いかけた薬剤師だったはずなのに、気付いたときには製薬に興味を抱いていた。薬剤師免許を取ってから院に進んだら、一体どれだけの歳月が掛かるのだろう。

 そもそも 自分たちの出会いは、人様に威張れるものではない。自分と先生との間には十歳近くの年の差があるし、先生は今だって現役の高校教師だ。法的な結び付きがあれば、外聞や体裁は 幾らかは緩和されるかもしれない。それなのに、これから更に数年以上の年月において先生を待たせてしまうという選択肢は、果たして赦されることなのだろうか……


 先生は初見とは思えない手付きでコーヒーサーバーを弄りながら、カートリッジの裏側を凝視していた。私にはコーヒー豆の産地なんて分からないのに、大人は何でも違いが分かってしまう。


 今度こそ、潮時かもしれない。

 思えば在学中から、不自由が前提の交際だった。

 十歳違えば、精神の成熟度が違う。

 寿命だって異なるし、細やかな幸せさえもが後回しになるかもしれない。

 私には先生の人生を束縛する権利などない。

 だけど別れを肯定されるのが怖くて、そんな不安を口にすることも出来ないのだ。


「鞠子。お前さん、今 すげー暗い顔をしてない? 」


「えっ? 」


「せっかくの二十歳の誕生日祝いなんだ。ほら、そろそろ水平線に夕日が沈む頃合いだぞ? 」


「あっ 」


 先生は私を半ば強引にベランダに連れ出すと、無理やりベンチに着席させる。そして淹れたてのコーヒーをチェストに置くと、改めるように こちらを振り返った。


「お前さ、本当は俺に何を求めてるんだ? 」


「えっ? 」


「俺はさ、ぶっちゃけ どっちでも良いと思ってるよ。お前さんのなりたいものになればいい。最初から年の差だって分かってたことだし、生徒に手を出した時点で 体裁を取り繕うのも今更だからな 」


「…… 」

      

 先生は私が結論を保留にしていることに 気付いているようだった。

 どちでも構わないって、先生は本心で言っているのだろうか? 十年先の未来を後押ししてくれるのは、やっぱり先生が先生だからなのだろうか。


 悔しいくらいに、先生の本心が分からなくない。今すぐ全て吐き出して楽になりたい。でも口にする勇気もない。


 立ち込めるコーヒーの湯気が、空気に静かに消えていく。何気ない化学式すら、今は意識するのが拒まれる気がした。


「…… 」


 私は無意識のうちにコーヒーに手を伸ばしていた。

 熱っッ……

 カップの中の液体は 想像よりも温度が高いようだった。味の違いなんて分からない。けれど深い苦味とコクのある香りは、まるで全身を巡り合う痛みにも感じられた。


「大人って、たまに狡い 」


「はあ? 」


「先生の答えは いつも模範解答過ぎるんです 」


「まあ、一応は教師だからな 」


 先生は少し息を付いてから席を立つと、何かを片手に直ぐに こちらへと戻ってくるのだった。


「鞠子、カップを貸せ 」


「えっ、あっ 」 


「この品種はミルクを入れた方が旨いのを忘れてた 」


 ブラックコーヒーを飲み慣れない姿を見兼ねたのだろう。冷蔵庫にでもあったのだろうか、先生の手には 小ぶりのサイズ牛乳パックが握られていた。


「…… 」


 熱いコーヒーが駄目なことも、ブラックコーヒーが駄目なことも見透かされてる。いつまで経っても、先生と生徒から脱却しきれないのが悔しい。でも 年の差があることも 元教え子な事実も、一生覆らない事実であることは、自分が一番よく分かっていることだった。


「お前さんが手にしているブラックコーヒーは、熱を帯びている。コーヒーもさ、何でこんなに高温になってしまったのか、自分でも自覚してないんだろうな 」


「……? 」


「でもある時 ブラックコーヒーは、ミルクを見つけるんだ。ミルクはしっかりしてて人気者なのに、頑張り屋だから放っておけなくて。

ついつい目で追いかけたくなってた。バカだよな、そいつは自分の教え子なのに 」


「あっ 」


 先生は私のコーヒーを少し飲むと、そのかさを埋めるようにミルクを注ぎ込んでいた。


「ミルクを入れた直後の一瞬は、コーヒーとミルクはくっきりと分かれてるんだけど、混ざり合ってくると そのうち区別がつかなくなる。 

ミルクがコーヒーとまだ混ざっていない状態は

エントロピーは小さい。だけどお互いが完全に混ざり合って安定してしまった状態は、エントロピーが大きくなるんだ。鞠子、つまり俺が何を言いたいかが分かるか? 」


「……あの、この場合は私がミルクってことでいいんですか? 」


「他に誰がいるんだよ 」


「あっ 」


 私は咄嗟に黙秘した。

 顔は赤くなっていたかもしれない。でも私はその答えを私は先生の口から聴きたくなっていた。


「つまりエントロピー増大の法則ってやつだよ。何事も、最終的に安定する【一方向】に物事が変化し続けるけど、逆はない。

つまりだな、この法則があるかぎり、俺の気持ちは多分何年経っても変わらない。多分 俺が死ぬまで続く。

お前さんは、どちらにせよ俺の熱からは逃げられないんだから、もう諦めて、細かいことに悩むのは諦めるんだな 」


「……なっ 」


 咄嗟に言葉が声にならなかった。それは細かいことで、全てが片付けられてしまったからだ。そんな先生の覚悟に 私はいつか追い付かなくてはならない。

 手にしたカップは じんわりと熱を失い、私の体温に溶けていく。混ざってしまったコーヒーからミルクは取り出せないなら、私は突き進んでもいいのかもしれない。

 私は静かに頷くと、そっと先生の肩に身体を寄せたのだった。







 





お読みいただき、ありがとうございました。

姉妹作品 マーガレット・アン・バルクレーの涙も合わせてご贔屓の程を宜しくお願いします。

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