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ニュートンの忘れ物  作者: 高城 蓉理
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時間の矢のパラドックス



 熱力学の第二法則によると、熱は必ず高温側から低温側へと向かう。

 だから……

 決して抱いてはならなかった私の禁断な感情は、あまりの熱の帯び具合で、先生にも届いてしまうことになったのだと、私はずっと勘違いをしていたのだ。 



◆◆◆◆◆



 

 私と先生の関係が【生徒と先生】ではなくて【元教え子と元担任】という肩書きに変わってから、少しの時間が経過していた。


 先生が、私の隣を普通に歩いている……

 何だかとても、不思議な光景だ。


 ずっと早く#十八歳__大人__#になりたいと思っていた。だけど、いざその状況になってみると、心の準備が全く追い付いてはいなかった。


 私が熱中症で倒れて介抱されたのをきっかけに、先生に思いを寄せるようになってからは三年、そして図書室で秘密の約束をしてからは二年の月日が流れている。

 拗らせ期間が、長すぎた……

 だから、先生がただ側にいるだけで、私のドキドキは止まらない。だけど先生が私と同じベクトルで、この高揚した気持ちを感じているのかどうかは、やっぱり良くわからないというのが本音だった。




◆◆◆◆◆




 それは日増しに、太陽の滞在時間が長くなっている、ある初夏の出来事だった。


 私は先生と一緒に、海沿いのマリンパークを歩いていた。といっても、海水浴をするわけではなく、車が渋滞していたから、駆け足に近い滞在時間だ。

 今日は潮風が穏やかだから、帽子が飛ばされる心配がないのは助かった。まだまだ二人きりというシチュエーションに慣れてはいないから、帽子を被っておかないと、顔が真っ赤なのがバレてしまうような気がするのだ。

 見上げた横顔は、手を伸ばせばすぐに届く位置にある。急に近くなった距離感に、私は未だに慣れないでいた。


「んっ、鞠子? どうかした? 」


「えっ? 」


「俺の顔に、何か付いてる? 」


「あっ、いや、そんなことは、ないっ……ですけど…… 」


「そう? それならいいけど 」


 私は慌てて先生の疑念を全力で否定すると、どっと身体が火照るような感覚がした。

 まさか「先生に見惚れてました」とは あまりに恥ずかしくて、口にするのは憚られる。それに卒業してからは当たり前のように下の名前で呼ばれるようになって、私はまだ混乱の渦中から抜け出せないでいた。




 私はこの春に、無事に大学生になった。

 実家を離れて進学をしたから、先生とは顔を合わせる機会は少なくなり、いわゆる遠距離恋愛の真っ只中だ。だけどその対価も一応はあって、二人で過ごす僅かな時間は、人目を気にせずに堂々と街を歩けるようになった。

 でも先生の肩書きは、高校教師からは何も変わらない。だから平日はもちろん、土日も部活の顧問の業務があって、月に一度くらいしか会うことは叶わない。

 会話の有無はさておき、この三年間は毎日のように学校で顔を会わせていたから、正直なところ寂しい部分は沢山ある。でも二人きりでデートをして、恋人のように過ごすことが出来るのは、緊張するけど嬉しくてたまらなかった。



「鞠子、飲み物は何にする? 」


「…… 」


「オイ、鞠子? ちょっと聞いてるか? 」


「えっ? あっ…… 」


「飲み物、何がいいの? 」


「えっと、私は冷たいカフェラテをお願いします 」


「んっ? カフェラテを#お願いします__・__#じゃないよな? 」


「あっ、いや、その…… 私は…… カフェラテ#がいい__・__# 」


「わかった。じゃあ、注文してくるから。空いているベンチにでも、腰かけておいて 」


「……はい 」


 私は今、現在進行形で難問に直面していた。

 高校卒業と同時に、先生から敬語禁止を突き付けられたのだ。

 先生は少しづつ慣れればいい、と口では言うけど、たまに私の発言に訂正を要求する。恋人同士なのだから、フランクに喋るのは普通だとは思うけど、今までのペースからは簡単に抜け出せない。でも、そういう少しづつの積み重ねが、先生との関係性の変化を感じさせてくれるピースとなっているのも、また事実だった。




「鞠子、お待たせ。目一杯 中身が入っているみたいだから、気を付けろよ 」


「あの…… ありがとう 」


 私は既に汗をかいているアイスカフェラテを受けとると、先生にお礼を伝える。すると先生は少しだけ咳払いをして、ピタリと私の隣に腰を下ろした。先生は手にブラックコーヒーを握りしめていて、カップからは水が滴っている。


「あの…… 」


「んっ?」


「先生って、アイスコーヒーが好きですよね? 」


「ああ、まあ、そうかもな。禁煙してからは、口寂しくて 」


「えっ? ……先生は、昔は煙草を吸ってたんですか? 」


「ああ。学生の頃に一時だけな。就職するときに禁煙したけど 」


「えっ? 何で? 」


「多感な時期の生徒の前で、学校で煙草は吸いづらいし、そうなると面倒臭いだろ。それに何より、自分の健康のためだよ 」


「先生って、意外と真っ当な人ですよね 」


「そうか? それなら、今こんな場所で鞠子と二人きりでコーヒーを飲んでる事実に、説明が付かないんだけどなあ 」


「いや、今のはそういう意味じゃなくて…… 」


 不良教師は見せかけだけて、意外と真面目な一面があるのは、本当はずっと前から知っていた。

 私はまだお酒も煙草も縁がない、ただの未成年だ。

 でも先生は一通りのことを経験して、既に卒業までしてしまった大人なことは、私もきちんと理解はしている。

 だからこそ、私のこの一方通行な思いに先生を巻き込んでしまったことに、心のどこかでまだ晴れやかにならない部分がある。

 室温の空気中に熱いコーヒーを放置しておくと冷めてしまうけど、その逆、つまり冷えたコーヒーが勝手に温まることは起きやしない。つまり、先生の感情を刺激してしまったのは、やっぱり私の方なのだ。


「あのさ、鞠子 」


「はい? 」


「そろそろ俺のことを先生って呼ぶのは、止めないか? 」


「えっ? 」


「いつまでも先生って呼ばれてるとさ、悪いことしている気分なんだよなー。つーか、教え子に手を出してる時点で、事実 悪いことなんだけどさあ 」


「それは…… 」


「別に俺のことを、名前で呼んでくれとまでは言わないし、車の中とか二人きりの場所なら先生でもいい。俺の一方的なリクエストで、敬語は禁止とか言っちゃってるし、鞠子ばっかり急に色々変えなくちゃならなくて、負担なのはわかってる。だから俺を呼ぶときは、ねえねえ、とかでもいいからさ…… 」


「…… 」


 何だか先生の言い分が珍しく弱気で、私は少しだけ驚いていた。先生が何故そんなに#下手__したて__#な物言いをするのかが、私にはよくわからなかった。


「あの 」


「何だ? 」

 

「……先生は、私のことは好きですか? 」


「へっ? 」


「いや、その…… ごめんなさい。今のはやっぱり忘れて下さいっ 」


「鞠子はどうなの? 」


「私は…… もちろん、今も昔も気持ちに変わりはありません 」


「そう 」


「えっ? ちょっ 」


 それは、白昼堂々の出来事だった。

 先生は私の被っていた麦わら帽子を手に取ると、ぱっとそれを私の頬に寄せる。

 一瞬だけ、お日様の光を吸った麦の乾いた香りと、自分の汗が混じったような匂いが、鼻に付いた気がした……

 そして次に気がついたときには、先生の指先は私の頤を捉えていて、唇では今までに体験したことがない心地よい柔らかさと、自分ではないものの体温を感じていた。

 自分でも聞いたことがないような、吐息が漏れる声がした。 

 私はもう、動けなかった……

 まるで新たなシナプスを手にするように、身体中の細胞が甘い記憶に酔いしれる。

 時が止まるような突然の出来事は、少しだけブラックコーヒーの苦い味がするようだった。



 ……凄く長い間、そうしていたような気がしていた。

 私は驚きのあまり、完全に硬直していた。

 やっと唇が離れると、私は酸素を大きく吸い込む。そして何とかゆっくりと瞳を開くと、先生の顔が目の前にあって、私は思わずその腕のなかに顔を埋めていた。


 状況の理解は遅れてやってくるもので、私はやっと先生とキスをしてしまった事実を消化していた。唐突過ぎた先生のトラップは、心の準備をする余裕はまるでゼロだったから、恥ずかしいという気持ちだけが先行していた。


「あのっッ、今のって……? 」


「そう言えば、ちゃんと伝えてなかったから 」


「はい? 」


「だからっッ…… 俺にムードを求めるな。ほら、車に戻るぞ 」


「ちょっ…… 」


 先生はそう言うと、私の手を引いて立ち上がる。

 初めて触れた唇も、その逞しい掌も、大人の男性を感じる妙な色香で溢れていた。


「ちょっ、待っ、人のファーストキスを、何だと思ってるんですかっ…… 」


「へっ? もしかして、初めてなのっッ? 」


「……そうですけど? 何か、問題でもありますか? 」


「マジで……? 」


 先生は私の手を握りしめたまま、そのまま直立で立ち尽くす。そして慌てるように私に麦わら帽子を被せると、グッとそれを目深に押し込んだ。


「それは、悪いことをしてしまったな。でもまあ、結果的には同じか…… 」


「はあ? 」


「一応、時効だから白状しちゃうけど、俺が鞠子とキスをするのは二回目だよ 」


「ハアっッ!? 」


 私には、心当たりが全く思い浮かばなかった。

 ちょっと、待て。

 いつ、私が先生とキスをしたというのだ。

 私が知らない状況で、そんなことになったなら、まだ私が片想いすらしていなかった、夏の日に熱中症で倒れたあの日しか、思い当たる節はありはしなかった。


「……まあ、あの頃は、こっちはお前さんのことは、絶対俺のモノにするって決めてたんだよ。まあ、ブラウスをビシャビシャにしたのは謝るけど 」


「へっ? 」


「だから鞠子がいま何を考えてるのかは、よくわからないけど、俺の方がお前さんのことが好きって自覚はあるよ 」


「なっ 」


 海風が生温く感じるくらい、辺りに熱波が吹きすさんだような気がしていた。


 私は【その根拠のない自信は、どこから沸いてくるんですか】と尋ねようかと思った。

 だけど不覚にも、私が恋をしたのは不良で適当な元担任だから、それを確認するのは愚問なことも、同時に分かってはいるのだ。






 時は、一方通行にしか進まない。

 だけど、もし先生が私に興味を示してくれたときまでタイムスリップが出来るなら……

 私はその瞬間を見届けて、その気持ちをもっともっと煽るような時間の改編をしてやりたいと、堂々と思えるようになった。











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