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ニュートンの忘れ物  作者: 高城 蓉理
3/7

アルキメデスと嘘の当事者



 学校の先生は、尊い存在だと思っていた。

 常に真面目で、曲がったことなど言語道断。まさに大人の理想みたいな人生を送っていて、清廉潔白な生活をしているのだと信じていた。


 だから私は高校生になったとき、担任には少しばかり幻滅した。

 院卒一年目とは聞いていたけど、教育に対して情熱的な部分はまるでない。授業はともかく、その他のクラスにまつわることは学級委員に丸投げで、私は一学期の間、担任には翻弄させられてばかりだった。


 そう……

 私は担任のことが得意でない。

 むしろ少し距離を置きたいくらいだった。

 それなのに……

 気付いたときには、林檎が地面に吸い込まれるように、私は大人が魅せる気まぐれな優しさに、あっさりと陥落していたのだ。

 





◆◆◆◆◆




 うわっ、何でこんなところに先生がいるのっッ。

 ……っていうか、寝てるよね?

 

 お盆を過ぎ、夏休みの残りを数えては悲壮感が漂う、昼下がりのことだった。

 私は登校日の雑用で、学校の屋上に来ていた。

 だがしかし、何故かその入り口のドアの前には担任がいて、階段に座って昼寝をしている。


 いくら苦手だといっても、さすがに起こしてしまうのは忍びないし、どちらかと言えば、必要以上に関わりたくはない。

 私は致し方なく、恐る恐る先生の様子を覗いてみた。

 大人の男性の寝顔なんて、父親以外に見たことなどない。端正な顔立ちは、少しだけゴツゴツとしていて、肩幅も同級生の男子たちよりも一回りは がっちりとしている。鬱蒼とした前髪から、ちらりと覗いた睫毛は、思いの外 長く感じられた。


 不覚にも私は……

 普段、絶対的に見ることなどない、大人の無防備な姿に、少しだけドキドキしていた。



「…… 」


「あっ…… 」


 先生が動いたような気配がして、私は慌てて右手を引っ込める。でも両腕に抱えていた荷物は空気を読んではくれなくて、私の慌てた動作につられて、ガラガラと大きな音を立てていた。


「……んっ? 荒巻? 」


「えっと、その…… 」


「あのさ、近いんだけど? 」


「すっ、すみませんっ 」


 私は咄嗟に謝りながら、先生から距離を取ると、本来の目的である屋上の入り口へと身体を向けていた。

 自分でも、何故手を伸ばしてしまったのかは わからない。よりによって、大人の寝顔に興味を抱いてしまうなんて、どうかしているさえ思えた。



「あの…… 何で先生が、こんな場所にいるんですか? 」


「昼寝だよ 」


「昼寝? 」


「ああ。夏休みで生徒もいないのに、毎日律儀に学校に来たって、やることがないんだよ。職員室じゃ、堂々とサボれないし、物理科は準備室もないからな。つーか、誰にもチクるなよ? 」


「……もし、私が誰かに告げ口をしたらどうしますか? 」


「大人を からかうんじゃない 」


「本気だって、言ったら? 」


「お前さんは、俺なんかよりもよっぽど大人だろ? 」


「…… 」


 大人ならば、寝ている人間に対して手を伸ばしたりなどしない。だから先生は、まるで私のことなど分かっていないと思った。

 でも先生は、私が触ろうとしていたことには、どうやら気が付いていないようだから、こうなったらもう否定も肯定もしたくはなかった。


「……先生こそ、こんな風通しの悪いところにいたら、熱中症になりますよ? 」


「それは、こっちの台詞だよ。つーか、お前さんは、こんな暑い日に、両手いっぱいに何を抱えてるんだ? 」


「……流木です 」


「流木? 」


「ええ。文化祭のときに校門に配置するアーチを、廃材で作るんです。毎年この学校はエコをテーマに文化祭をしているそうなので、この前 都内の祖父母の家に里帰りしたときに、浜辺で拾ってきました 」


「それが何で、屋上になるんだ? 」


「乾かすんですよ。湿気があると、加工がしづらいので。暫くは雨の予報も無さそうなので、導線の邪魔にならない場所で干しておこうと思って 」


 私は端的にそう答えると、流木を左手に集約する。すると先生はその様子を汲んでくれたのか、スクリとその場を立つと、私の代わりに扉を開けてくれた。


「あっ、ありがとうございます 」


「どういたしまして 」


 私は段差に気を付けつつ、流木を抱えたまま、屋外へと繰り出した。年季の入ったコンクリートを擁する屋上は、日差しを照り返していて、異様な暑さを放っている。そして何故か、先生は私の後ろをくっついて歩いていて、私の様子を観察しているような視線を感じた。


「……荒巻ってさ、いつも真っ直ぐだよな 」


「えっ? 」


「そんなに常に頑張ってて、疲れたりはしないのか?

 少しは緩急をつけて、手を抜くことを覚えたらどうだ 」


「……嫌ですよ 」


「へっ? 」


「一生懸命に何かをして報われるのって、学生時代の特権ですから。私は全力でやらせてもらいます。だから先生は、私の努力は認めてくださいね 」


「あはは。そうだな。学生って、自分の意思で何でも決められるから いいよな 」


「はあ……? 先生は、何か悩みでもあるんですか? 」


「まあな。大人は色々あるんだよ。毎晩、アルキメデス並みに、風呂のなかでは考え事でいっぱいだな 」


「……大人って、大変ですね 」


「まあな。ただ俺の悩みは、現時点では解決できる手立てもないんだけどさ 」


「あの、私には事情はわかりませんけど、報われるといいですね 」


「そりゃ、ご親切に。労いをどうも 」



 私は片手間に先生と喋りながら、携えてきた流木を屋上へと並べていた。


 汗が地面に滴るくらいには、屋上は残暑が厳しい。

 そもそも、この流木たちは、一体どこからやってきたのだろうか。大海原を旅することが出来るのは、空気をたくさん含む種類の木だけの特権だ。でもまさか、最終到着地が岐阜の温泉街になろうとは、思ってもなかっただろう。



 何だか、急に身体が軽くなった気がする。

 浮力のことなど、考えていたからだろうか……

 

 そもそも、アルキメデスが浮力の原理を発見した経緯は、嘘を見抜くためだった。

 王様から王冠が純金でできているのか、それともほかの金属が混じっているのかを調べるよう命じられて、アルキメデスは相当に困っていた。そして解決方法を悩みながら入浴していたとき、浴槽につかった自分の身体と同じ体積の水が溢れて、体が軽く感じられるのに気づいた。そこにヒントを得たアルキメデスは、王冠と同じ重さの金を沈めて、その容器に残った水の量を計測した。二つの重量は同じはずなのに、残った水の量は異なった。

 その結果、王冠には銀の混ぜ物がされていたことが判明し、職人が無断で金をすくねていたいたことが分かったのだそうだ。


 浮力が論理的に説明されるようになった過程は、嘘を見抜くための歴史であり、物事を偽ることは出来ないという正義の発見でもある。だけど嘘を見抜くなんて、実際にはそう容易なことではない。

 私は、何も暴かれたくない。

 それならば、最初から嘘や偽りなどしなければいい。だから私は、いつも真っ直ぐでいたかったのだ。



 遠くの方で、聞き慣じみのある声が、私の名前を呼んでいた。

 でも、何故だろう……

 身体が、思うように動かない。

 プツリと真っ暗に途切れた記憶は、上下左右に揺れていて、まるで雲の上を歩きながら、海に浮かんでいるような心地よさだった。


 火照った身体が、ひんやりとする。

 そして何か柔らかいものが私を捉え、乾きを潤すように喉元に水が注がれると、その冷たさが妙に気持ちが良かった。


 そっか……

 私はいま、夢を見ている……

 でも、それにしては、妙に生々しい温もりがあった。

 何だか、ずっとこうしていたい。

 私を包むその腕は、何故かとても逞しくて、つい安心してしまうような優しさが含まれている気がしていた。



「……んっ 」


「……鞠子? 」


「えっ、先生? 」


「目ぇ、覚めた? 」 


「……あの、ここは? 」


「保健室だよ。お前さんさ、屋上でぶっ倒れたの、覚えてないの? 」


「えっ? 」


「養護教諭は、軽い熱中症だって言ってたけどさぁ。俺は生きた心地がしなかったぞ? 」


「……ご迷惑とご心配をかけて、すみません 」


 こちらを見下ろす先生の視線が痛くて、私は思わず布団を被った。何だか胸元はびしょびしょしていて、余程汗をかいたらしい。そう言えば、今日は一日中、風通しが悪い教室やら、炎天下の屋外にいたから、脱水症状になっていたのかもしれない。


「あの…… 」


「なに? 」


「私、#ここ__保健室__#までどうやって来たんですか? 」


「……お姫様だっこ 」


「へっ? 」


「冗談だよ。俺が肩を貸してやったら、自力で歩行してたけどな。覚えてないのか? 」


「あの、すみません…… 」


 どうやら私は、盛大に先生に迷惑をかけてしまったようだった。先生がたまたま屋上で休息中でなかったら、私は危なかったかもしれない。そう思うと、先生の素行の悪さに、今だけは感謝だった。


「……じゃあ、俺は三十分後に また迎えに来るから 」


「えっ? 」


「悪いけど、まだ残務があるんだよ。だからちょっと待ってて 」


「いや、そういうことではなくて…… 迎えって? 」


「今日はお前さんの家まで、俺が車で送ってく 」


「えっ? いや、私はもう大丈夫です。もう動けますし、一人で帰れますから。それにこれ以上、先生に迷惑を掛けるわけにもいかないので…… 」


「別に迷惑なんかじゃない。親御さんも仕事があるから抜け出せないだろうし、それに家に帰りつくまで俺が心配なんだよ 」


「…… 」


 不良教師で、適当教師だと思っていた。

 それなのに今は踵を返したように先生が優しくて、私は呆気に取られていた。


「あの…… 」


「何だよ 」


「さっき、もしかして私のことを名前で呼びましたか? 」


「…… 」


「否定はしないんですね…… 」


「アホ。そんなことを言っている余裕があったら、ちゃんと水分補給しとけよ。そこに水があるから 」


「ちょっと、はぐらかさないで下さいよっッ。ねえってば! 」


「……俺の行く末も大概だな 」


「はあ? それ、どういう意味ですか? 」


「お前さんはさ、いつも真っ直ぐで、危なっかしいんだよ。少しは自分の胸に手を添えて、心当たりを考えろ 」


「……? 」


 私には、先生の言っていることの見当が、まるで付かなかった。

 私は先生の挙動に納得は出来なかったけれど、仕方なくテーブルに置かれたペットボトルを確認する。

 水の中身は、定量よりも少し減っているようだった。記憶にはないけど、水を自力で飲めたのなら、やっぱり重症ではないのかもしれない。

 

 先生は義務で、私を助けてくれたのだろう。

 でも、あんな言葉を掛けられたら……

 気にしない方が、私には無理だったのだ。







 そう。

 あの夏の、あの日……

 私は、恋をしてはいけない相手に恋をした。

 

 屋上になど、行かなければよかった……

 それなら、こんな思いはしなくて済んだのだ。

 

 私の純金の冠には、銀が混ざってしまった。

 決してバレてはいけないし、水に浮かんでしまうことも許されない。

 私の絶対的な秘め事は、子供が大人に抱いてはいけない、口外は出来ない感情で、あの日の先生が優しかったのがいけないのだ。




 あの頃の私は……

 先生が仕組んだ狡い嘘に、気付く余地などまるでなかった。

 私がこの日の真実を知るのは、私と先生の間に、元教え子という肩書きがついた頃の、夏の昼下がりのことになる。









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