ニュートンの忘れ物
ニュートンは、
【全ての物体はその静止状態を、外力によって状態を変えられない限り、そのまま続けること】を発見した。
そう……
だから、私が自分の気持ちに沈黙すれば、この状態は維持できる。
この抱いてはならない気持ちは、ずっと心に秘め続ける。私はそう、強く心に誓っていた。
◆◆◆
やっと梅雨明けした下呂の街は、ここのところ猛暑日が続いていた。
一日中、湿気を浴び続けた髪は、容赦なく広がりを見せていたが、この学校で唯一冷房があるこの場所に来てからは、少しだけ落ち着きを取り戻している。
読書は好きではないけれど、苦手ではない。
図書室に来られるならば、理由なんて何でもいい。
大義名分なんて後付けで、ただ一瞬でも独占できれば、それで満足。
私は、多くは望まない。
週に一度だけの、私の秘め事。
この一方的な平穏が続くなら、私はそれだけで十分だった。
「……ん? 荒巻は、今週も図書室で勉強か? 」
私が図書室に籠り始めて一時間くらいすると、担任は何かのついでにフラりと寄って、いつも私に声を掛ける。
嬉しい…… だけど、顔に出しては駄目。
私は自分にそう言い聞かせると、小さく息を吐いた。
「あっ、いえ。今日は読みたい本があったので、それに目を通してました。先生こそ、いつも金曜日は図書館に来るんですね 」
「ああ。一応、これでも教員だからな。野暮用があるんだよ。つーか、この学校の図書館って、いっつもガラガラだよな。どいつもこいつも、少しは勉強しろっつーの 」
「今日は金曜日ですからね。家業の手伝いで、早く帰宅する人が多いんですよ 」
「ああ、なるほどな。さすが日本三大名泉を抱えてるだけのことはあるな 」
この辺りは、全国的にも有名な温泉街だ。だから高校に通う子女の中には、放課後は家業の手伝いをしている者も少なくない。特に週末のこの時間帯ともなれば、人は疎らにしかいなかった。
「ところで、荒巻。今は、何の本を読んでるんだ? 」
「えっ? 」
「おい、まさか…… 言えないような本を読んでるのか? そういう描写のある本を、学校に持ってくるな。どうしてもってなら、家のなかで布団を被って嗜めよ 」
「ちっ、違いますよっ。普通の……でもないけど、ただの文学小説ですから 」
読んでいる本の内容を他人に見せるなんて、そんなことはしたくはないのだけれど、この場合は致し方ない。私は仕方なくブックカバーを剥がすと、先生に小説のタイトルを見せた。子供が背伸びしたものを読んでるな、と嫌味を言われるかと思ったけど、それは杞憂に終わった。
「……痴人の愛? 」
「はい。父の本棚にあったので、谷崎の本を順番に読んでるんです。私としては河合にもナオミにも、あんまり共感は出来ないですけどね。有名な本だから、読んでおきたいと思いまして 」
「ふーん。まあ、荒巻が年上のオジサンをカモにしながら、自由に男友達と遊びまくって、奔放に生きてるナオミに共感してるって言ったら、俺も普通にリアクションに困るな 」
先生は呆れたようにそう言うと、パラパラと小説を捲っていた。
……嘘だった。
本当は、十五歳のナオミが如何にして、二十三歳の大人を落としたのかを紐解きたかった。そこには、子供が大人を落とすヒントがあると思ったからだ。
何度も何度も不倫と浮気を繰り返しても、それを甘受させてしていまう魅力が、ナオミにはあるらしい。でも小説に描かれている、その肉体的な魅力というのは、具体性には欠けるし、そもそも自分には色気はない。だから全然参考にはならなかったというのが、事の顛末だった。
「お前さんはさ、真面目だよな 」
「えっ? 」
「放課後は、部活か勉強か家業の手伝い。しかも受けた交際の申し込みは、全て断っているという鉄壁の優等生。容姿も端麗で、友達も沢山いるんだから、少しはガードを緩めて彼氏の一人でも作ってさ、もう少し青春を謳歌したらどうだ? 」
「彼氏? 青春? 」
「お前さんが本気になれば、クラス全員があっさり落ちるのは間違いないだろ? そんなマゾヒズムに満ちた小説に傾倒してないで、高校生のうちに、普通の恋愛をしておくのも悪くはないと思うけどな 」
「先生。もしかして、私に喧嘩を売ってます? 」
「俺は、そんなつもりはないけどな。ただ大人として、一般的なアドバイスを送っただけだよ。若者は若者らしく、今しか出来ない経験を重ねた方がいいからな 」
「……先生は、ご自身のことを棚に上げて、まるで自分は中年みたいな立場かのようにいってますけど、新卒二年目ですよね? まだまだ十分に、若いじゃないですか 」
「もう、お前さんたちの若さには、十分に完敗の年齢だよ。社会に出たら、若者って括りからは卒業なんだよ。それに俺は一応教員だからな 」
「何それ…… 」
先生はそう言うと、徐に席を立ち上がる。
毎週、ほんの数分の些細な会話が楽しみだった。
それ以上は、何も求めてなんかいないし、発展だってしなくていい。
でも今日の先生の物言いは妙に冷たくて、この細やかな時間の終わりを示しているような気がしていた。
「……私は、恋はしてます 」
「えっ? 」
「だから、男子からの交際の申し込みは断りました。私には好きな人がいるので、お試しで付き合うのは正義に反しますから 」
「じゃあ、その好きな奴に告ればいいじゃないか。お前さんなら、男子全員が一発オーケーだろ? 」
「そうしていいのなら、私だって苦労はしません 」
「ハア? 」
「……立場も地位もある大人なんです 」
「大人? 」
「私は子供だから。立場的にその人のことは好きになってはいけないし、思いを打ち明けることも出来ません。何も発展しませんし、何も始まってはいけません 」
「それは…… 悪いことを聞いてしまったな 」
「別に、先生が気にする必要なんてありません。物の分別がつかないで、理性を抑えられなかった、私の問題ですから 」
「お前さんが好きになる相手なら、さぞかし凄い、スーパーマンみたいに何でも出来る男なんだろうな 」
「そうですね…… 人の気持ちを無下にする才能は、天下一品にセンスがあるかもしれません 」
「何だそれ…… 」
「そのままの意味ですよ。その人が何を考えているのかは、全くわかりません。本気で私のことが嫌いなのかも、実は私の本心に気づいていて突き放そうとしているのかも、意図が読めませんので。でも、それでもやっぱり好きなんです。何でなんですかね、自分でも良くわからなくて、困ってます 」
「……そんなクズみたいな男のことなんて、さっさと忘れろよ 」
「今さら、無理ですよ。私はこれでも、一年近く拗らせているんですから 」
「時間の無駄だったって、後で後悔することになるぞ 」
「そうなんですかね。でも、やっぱり気になるんです 」
「……何で? 」
先生の声は…… まるで、震えているようだった。
何で、と聞きたいのはこちらの方だ。
先生は何故、理由を聞こうとするのか。
その真意が……
私には、わからなかった。
「その人は、優しいんです 」
「はあ? もしかしたら、皆に良い顔をしてるだけとか、そういう風には思わないのか? 」
「私はそれでも構いません。もちろんその人は、私だけに優しくしているつもりなんてないでしょう。どうせ私が自分に都合良く、解釈してるだけですから。その人が、私にだけ優しくしたら依怙贔屓なんですよ。それに、もしそれが私だけに向けられているとなれば、少しだけ犯罪の臭いがします 」
「…… 」
「先生こそ、お年頃ですよね? 」
「はあ? 」
「初っぱなから赴任先が山奥なのは同情しますけど、人の心配ばかりしていたら、彼女とも縁が切れますよ? 」
「お前さんは、余裕だな。もし俺に交際相手がいたら、どうするつもりなんだよ 」
「別に、どうもしませんけど 」
「そうか…… そう言われたら、それはそれで、寂しいもんだな 」
「また、冗談を 」
「……人の気も知らないで 」
「へっ? 」
「何で、お前が俺と同級生じゃないんだろうな 」
「…… 」
一瞬、頭のなかが真っ白になった。
先生が何を言っているのか、理解が出来なかった。
それでは、まるで……
先生が私のことを、気にしているみたいに聞こえるではないか。
「面倒臭いな。教員なんかに、ならなきゃ良かった。俺もさ、そんなに暇じゃないんだよ。毎週毎週、図書室に用事なんてあるわけないだろ 」
「えっ? 先生、さっきから何を言って…… 」
「ああー 俺はもう知らないからなっッ 」
先生はそう言いながら自分の頭をグシャグシャとすると、私の側で腰を下ろす。そして私の方に手を伸ばすと、人差し指でツンと額を突いた。
肌と肌は、ほんの一点しか接触をしていない。
それなのに、何だか急に恥ずかしさが込み上げて、全身の体温が急上昇するような感覚に陥った。
「ちょっ、触らないで下さいっ 」
「……いいか、俺は一回しか言わないからな 」
「えっ? 」
「……取り敢えず、あと一年半。誰のモノにもなるなよ 」
「あの、それって…… 」
どういうことですか、と言葉を続けたかった。
だけど、それは出来なかった。
先生の、この遠回しな単語の継ぎ接ぎが理解できないほど、私はもう子供ではないからだ。
「深追いはするなよ。いま、俺もギリギリのラインで喋ってるから 」
「…… 」
気付いたときには、視界がボヤけていた。勝手に涙が溢れていて、私はうんうんと頷くので精一杯だった。
「で、返事は? 」
「……はい 」
秘め事が、秘め事ではなくなってしまった。
いや、むしろ……
もっと大きな爆弾にしてしまった感も否めない。
いまは、この涙を拭って貰うことは叶わない。
でもいつか、合法的にそうして貰える日が来るのなら……
私は素敵な大人になって、その胸に飛び込みたいと思った。
翌週から、図書室は私たちが二人きりになれる、秘密の場所になった。
今は、触れられなくてもいい。
核心的な言葉もいらない。
それでも、待っていてくれるの一言が、とても嬉しかった……
先生を当事者にしてしまった罪の意識と、恋が報われた複雑な感情は、これから私の中でずっと同居し続けるだろう。
でも、私は覚悟を決めたのだ。
外から押された力に、物体は抗えない。
それは、私も例外ではなかった。
私はあの日を境に、心の底から、早く大人になりたいと強く思えるようになっていた。