プロローグ(3)
「……どけ」
「お前がここからいなくなったらな」
もはや彼の風貌は、元とはかけ離れてしまっていた。
目は充血して真っ赤、口元はおかしな方向に曲がり、涎を垂らしている。身体は脱力してフラフラとよろめき、今にも倒れそうだというのにかろうじて堪えているといった体だ。その様子は、ゾンビを連想させた。
更紗は恐怖のあまり硬直していた。目を背けたいのに彼から目が離せない。
「更紗……」
声も、すでに彼のものではなかった。変声器を通したような気味の悪い声で、雑音が入ったような濁った音。更紗はたまらず耳を押さえた。
「お前、こいつの知り合いか?」
微かに耳に入ってきたその声に、更紗は振り仰ぐ。すると、背中を向けていた男が、目線だけを更紗に寄越していた。
男の質問に答えなければと思うのに、喉に何かが詰まったような感じで声が出ない。仕方がないので、更紗はコクリと首を縦に振る。
「よほどお前に執着があるみたいだな。変なもんに憑かれやがって」
男の言葉に、更紗は目を見開いた。
憑かれやがって──男は、この世ならざるものが見えるというのだろうか。
「ツキ、彼女を守れ」
「ウォン」
男の言葉を理解したのか、側にいた子犬が一鳴きし、更紗の膝に飛び乗ってきた。ちょこんと膝の上に収まった子犬は、更紗を安心させるかのように手の甲をペロリと舐める。そしてこちらを見上げ、クゥンと可愛らしく鳴いた。
さっきまでの鋭い視線はどこへやら、甘えるようなその仕草に更紗の表情は和らぐ。
「どけえぇぇーーーっ!」
大型獣の雄叫びのような声が聞こえ、更紗の表情がサッと強張った。
彼の腕が真っ直ぐに更紗の方に伸びてくる。だが、その腕が届くことはなかった。男がすぐさま彼の懐に入り込み何か攻撃を加えたようで、彼はバタリと地面に倒れ込む。
しかし、それで終わらなかった。彼の身体を覆っていた黒い煙が彼から離れ、少しずつ形を成していく。
「人の……形?」
更紗の声に男が反応する。チラリと更紗を一瞥したかと思うと、座り込んでいた更紗を自分の隣に立たせた。
男の背の陰から見えていた時よりも、はっきりと識別できる。これは明らかに人の形をしている。しかも、かなり大きい。
「……っ」
叫び声さえあげられなかった。恐怖で腰が抜けそうになる。そんな更紗を片腕で支え、男は僅かに口角を上げた。
その時、更紗は初めて男の顔を目の当たりにしたことに気付く。
目を見張るほどに美しい男だった。夜の闇に浮かび上がるほどの白い肌、切れ長の瞳は涼やかで凛々しい。形の整った輪郭に高く通った鼻梁、薄い唇、どこを取っても美しいとしかいえなかった。
一陣の風が吹き抜け、男の長い髪がサラリと揺れる。街灯に照らされたその髪の色は、闇に溶け込んでしまうほどの見事な漆黒だった。
「グァウッ!」
「わかっている、ツキ」
子犬の唸り声に応え、男は再び前を向く。そこには、完全に人の形を成した何かがいた。