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花に春泥、しき緑  作者: 畑中炭比古
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神嶽組・恒川 いつかの夏①

 照りつける太陽も熱したフライパンみたいな道路も無縁の、冷房がギンギンに効いた事務所の中。俺はその激しい暑気に飛び込みたい気持ちでいっぱいだった。


「……っち」


 壁に飾られた日本刀を背中に、()(ぐろ)さんが舌打ちをした。たったそれだけのことで、帯電した雲が今まさに雷を落とさんとするように空気が張り詰める。続いて煙草の火をガラス製の灰皿で揉み消した。


 麻黒さんの無駄に重厚感ある机の前、横一列に整列した俺たちは一斉に固唾を飲む。もしかして、それで俺たちを殴るつもりですか? そのガラスの灰皿、物凄く重くて痛そうなんですけど。きゅ、救急車呼んでくださいね。


 ここ最近、麻黒さんの機嫌はすこぶる悪い。煙草を切らせてキレる。急ブレーキを踏んだ運転手にキレる。ついこの前なんて、部下が自分より上等そうなスーツを着ていることにブチ切れて、その場でひん剥いてスーツを燃やしてしまった。正気の沙汰じゃない。


「で、どうなってんだ? ドラッグの生産はよぉ」


 灰皿の縁を掴んでこっちを睨みつける。ああ、やっぱりそうですか。俺はいつ灰皿が飛んで来てもいいように奥歯を噛み締める。


「も、もう少しで、その、生産者は確保できそうです。だ、だから……あぎゃっ!」


 麻黒さんの圧に耐えられず口を開いたやつの顔面にガラスの塊がめり込んだ。サイコロみたいに折れた歯が床に転がって、血や涎が一緒に床を汚す。


「あがが……っがひ」


 うわ、唇も裂けてしまっている。飯を食うときは地獄だな。でもこいつが避雷針になってくれたおかげで麻黒さんの怒りも少しは和らいだはずで、言うなれば尊い犠牲というやつだ。


「今、殴られねえでホッとしたやつ。手ぇ挙げろ」


 まさに胸を撫で下ろさんとしたとき、さらに苛立ちを増した声が跳ねて来る。俺は自分の浅慮を恥じるべきなんだろう。


「聞こえなかったか? 殴られねえで安心したやつ、手ぇ挙げろっつってんだ」


 一人がおずおずと手を挙げた。俺はどうする? このままやり過ごせるのか、それとも。


「こいつは不甲斐ないてめーらを代表してこんなになってんだ。え? それなのによぉ、恥ずかしくねえのか? プルプル震えて手なんざ挙げてんじゃねぇ!」


 麻黒さんは血に濡れた灰皿を拾い上げると、挙手したやつの顎を横殴りにした。「ごぶっ!」びちゃびちゃ血が滴り落ちる。あの出血量、顎が割れたかもしれない。


「残りのやつらは一緒に殴られる覚悟があったっつーことだよな? その覚悟に免じて、これで済ませてやる」


 麻黒さんは手首に着けている腕時計を外し、メリケンサックの要領で拳に巻いた。ああ、絶対この人、最初から全員ぶん殴るつもりだったに違いない。きっと俺と同じくみんなもサンドバッグになる決意をしただろう。


「うらぁ!」並んだ端から順に顔面を殴られていく。もうすぐ俺の番だ。きっと左頬の皮は擦りむけて血が滲むだろう。口の中も切れて鉄の味でいっぱいになるはずだ。骨もギンギン痛むだろうけど、多分骨折なんてことにはなるまい。必死で痛みを予習して、大丈夫だと自分に言い聞かせる。さあ来た、俺だ。


 がぎっ! 左頬をしこたま殴られ、衝撃で目の前がチカチカした。踏ん張れ、倒れるな。倒れたら気合いだなんだとさらに殴られるぞ。どうにか踏ん張るが、今度は遅れて痛みが襲って来る。ああ! これは痛い! ちくしょう! ちょっと予習以上だ。転げ回って痛みを紛らわせたかったが、直立不動で耐えるしかない。口の中で歯が転がる。くそっ、オカンから「歯は一生モノだから大事にしろ」って言われて育ったのに。


 全員を殴り終えた麻黒さんの薄い肩は上下している。


「いいか役立たずども。十日間やる。その間に生産に着手しろ。……もしできなかったらよ」


 緩いパーマの黒髪を掻き上げながら、邪悪な蛇面が嫌らしく笑む。


「燃やしてやる。生きたまんま、火だるまだ」


 この人は本当にやるだろう。だって過去にやっているから。もちろん服を燃やす、なんて生優しいものじゃない。この人にかかればひと一人を灰にするなんて造作もないことだ。もう死に物狂いでどうにかするしかない。できなかった時は、その時に考えよう。


「おい、恒川(つねかわ)

「はっ、はい」急に名前を呼ばれたせいで、焦って口を大きく動かしてしまった。口の中を激痛が駆け抜ける。


「お前、いい時計してんじゃねえか」麻黒さんは舐めるように俺の腕時計を見る。卑しい視線はそのまま不快感となって俺の左手を毒していく。この時計はガキの出産祝いにハルさんからもらったものだ。麻黒さんが組長になってからは着けるのを控えていたが、麻黒さんの不機嫌の嵐を少しでも遠ざけてくれるよう、最近になってまた着け始めた。


「俺の時計、お前らに教育してやったおかげでこんなになっちまってよ」俺たちの赤黒い血がこびりついた麻黒さんの腕時計は、風防にヒビが入り中の針も曲がっていた。


 ああ、やめてくれ。サンドバッグになる決意とこの腕時計は別物なんだ。


「……言ってる意味、わかんねえか?」麻黒さんの目が徐々に据わっていく。

「よ、よかったらもらってやって下さい」情けないほどの早口で、俺は腕時計を差し出した。

「わかってりゃいいんだよ。ほれ、お前にゃ似合うだろうぜ」俺のシャツの胸ポケットに血まみれの腕時計が滑り込んで来た。

「あり、ありがとうございます」なんのお礼なんだ。


 無意識に媚びる口が虚しく痛む。

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