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花に春泥、しき緑  作者: 畑中炭比古
6/28

名伏密 ゆで卵の気持ち

「キミは馬鹿だね」


 百雲さんは足を組んで穏やかに笑んでいるんだけど、目にはありありと険が宿っている。シャツの首元から除く百雲さんの胸元には無数の青痣ができていた。部屋は相変わらず蜘蛛の巣が張られているけれど、応接テーブルの周りだけ固まった網を砕き折って、とりあえず落ち着いて話をするだけのスペースを確保した。


 テーブルを挟んだソファにはむっつり顔のチンピラ、もとい青柳さんが座っていて、その周りには白い靄が幽鬼のように漂っている。幽鬼は百雲さんが天狗の妖術さながらに作り出したものだった。粒子を自由自在に操る、それが彼の異能らしい。いつでも粉塵爆発を起こせるよう小麦粉で作られた幽鬼は、つまり変な素振りを少しでも見せたら爆発させるから大人しく座っていろ、という青柳さんに対する脅しの道具なのだった。


 そして青柳さんもまた、体から特殊な体液を分泌させることができるマレビトだった。その分泌液は、先程の騒動の通りひっついたり固めたり、はたまたゴムのように伸び縮みするという。


「俺だってこんなこたぁしたくねぇんだ。だから頼むよ、そのガキ、あーと密か。少しだけでいいんで俺に預けてくれって」

「キミは馬鹿じゃのぉ」


 俺と百雲さんの隣に並んで座る祖父が、百雲さんの台詞を呆れ顔で繰り返した。


「るっせぇ、馬鹿馬鹿言いやがって。今説明したじゃねぇか。このままじゃ俺のチンポがだな」


 青柳さんには借金があるらしい。真っ当な金ではなくて、いわゆる闇金で借りた金だ。借りたものは返す、子供にさえ通じる社会常識をこの人は持ち合わせていないようで、借りたら借りっ放しでいた。あちらもプロだから、もちろん返さない客へは容赦ない。脅してすかして、どうにかこのチンピラから金を取り立てようと頑張ったらしいけれど、青柳さんはゴキブリのごときしぶとさでそれらを掻い潜っては身を隠し、やり過ごした。借金取りを煙に巻く、それは青柳さんにとって腹が減ったら飯を食うというような、至極当たり前の生活の一部分となっていた。


「それで昌鹿君の股間がどう関係してくるのよ」

「ちょ、麗子さん。ちゃんと話聞いてたのかよ」

「ごめんごめん、四光が手元にさ」

「花札なんかしてんなよ! だからアリカが俺のチンポにだな」


 危険と隣り合わせのはずの生活を、彼特有の図太さでだらしなく過ごしていたんだけど、それもアリカさんという女性と出会って一変した。アリカさんは一言で言えば自由奔放な不思議ちゃんで、でも容姿が青柳さんのドンピシャ好みだったらしく猛アタックの末に恋人になった。


「え? このまえ話してたハーフのシンリーちゃんはどうしたのよ?」

「麗子さん、俺の愛は一人に収まるようなちゃちなもんじゃねぇ。もちろんシンリーも愛してる」


 青柳さんの想像以上のクソ味噌っぷりは脇に置いておこう。


 アリカさんと付き合う中で、青柳さんは彼女から両親に会ってほしいとお願いされた。彼が自身をどう評価しているのか甚だ疑問だけど、それでは会ってやろうと快諾したらしい。奇跡的な気遣いで両親へ渡すお酒を準備し、それなりに身なりを整えて臨んだ両親への挨拶は、しかし顔を合わせた瞬間に修羅場と化した。なんとアリカさんの父親は、踏み倒しまくっている闇金のボスだったんだ。


「いやぁ、まじで固まったぜ。アリカがあんなクソ狸のDNAを引き継いでるなんて信じらんねぇ。一ミクロンも似てねぇっての」

「引きが強いわねぇ。その場で見たかったわ、昌鹿君の狼狽ぶり」

「ひでぇな、俺をなんだと思ってんだ。まぁいいや。とにかくそっからだよ。俺のチンポがだな」


 青柳さんを一瞥するや激昂するアリカさんの父親。でも、溺愛する愛娘がどうやらこの男に本気らしい。


「こめかみピクピクさせながらよ、交際を認めてやるから今すぐ全額返しやがれってさ。ふざけやがって! んな金あるわけねぇっつーの。だいたいあの酒、いくらしたと思ってんだ。その分の返済はまけてやるってのが筋ってもんだろ」

「あはは。それで? お金のない昌鹿君は尻尾巻いて逃げ帰ったの?」

「ほんと人の話聞いてねぇのな。なんで俺が逃げなきゃならねぇ? 俺とアリカの仲にあのクソ狸は関係ねぇ。てかよ、アリカがさ、今すぐ返すなんて無理に決まってるじゃんっつって庇ってくれたわけ」

「なんだよかったじゃん」

「いやいや、それで終わってたらこんなことしてねぇって。そっからよ、でもパパの困ってる姿も見たくない、なんて言い出してさ。十日間で全額返すとか勝手に約束しちまって」

「あら、パパ想いね。でもまたばっくれたらいいんじゃない?」


「それがよぉ、俺のチンポが人質に取られちまって。十日経って金持ってかねぇとチンポが爆発しちまうんだ」

「は?」

「アリカ、マレビトだったんだわ。俺もそのとき知ったんだけど。なんかチンポを爆弾に変えられちまって」

「股間を爆弾に? え、何それ意味わかんない」

「だろう? まぁ爆弾っつっても、タトゥーみてぇな模様がグルグルついてるだけなんだけど。あ、見る?」

「やめなさい」百雲さんが冷ややかに言った。

「いや、所長。これが意外とクールなのよ、ほんと」

「十日待つ前に僕がキミの股間を爆散させようか?」

「所長冗談きっついわ。てか今日がその十日目なんだって。そう! まじでやばいの! 所長、頼むから密君をだな」


 なぜ青柳さんは俺にこだわるのか。彼は色眼を持つ俺がちょうど十日経つ今日、事務所にやって来ることを聞きつけて、それは暁光と現れた。確実に会えるよう偽のアポまで入れて。


「このタイミングでビッグギフト来たーだよな。要はこいつの目を使ってだな、金持ってそうな女に貢がせりゃ速攻いけんじゃねぇのってわけ。天の神様がよぉ、俺があんまり可哀想なもんで、こいつを遣わせたんだな」

「頭わいてんじゃない?」「よし、爆散しよう」「救いようがないの」


 三者三様に彼を蔑む。


「いやいや、待てって。こいつは入れ食い、俺のチンポは助かり借金もなくなる。もしかすっと小遣い稼ぎまで出来ちゃうっつう一石四鳥プランじゃねぇか。これをやらねぇ手はねぇぜブラザー!」


 急にブラザー呼ばわりだ。中学時代の不良の先輩らを思い出す。仲間だなんだと勝手にのたまいすり寄ってきた挙句、異能を使うことを固辞した途端、金玉ついてんのかとボコられた。


「なにも無理やり金を奪おうってんじゃねぇ。俺も犯罪者になりてぇわけじゃねぇしな。あくまで合法的に、だ」

「キミの言う法と僕らの法とでは、随分ものが違うみたいだ」


 百雲さんはため息を吐いた。


「理由を言わずに襲って来たあたり、キミだってとうにわかっているはずだ。大事なインターン生、ましてやトモさんの孫にそんな犯罪まがいなことさせるわけないだろう。それに彼は異能を使わない」

「赤の他人には手を貸さないってか。ケチくせぇ、ちょっとくらいお裾分けしてくれてもいいじゃんよ。散々楽しんでんだろうし」

「昌鹿君、わしゃすこぶる不快じゃ」

「す、すまんな、じーさん。でもよぉ、こっちだって命掛かってんだ。てか俺はこいつと話がしてぇの。ヘイ、ブラザー。さっきはいきなり襲って悪かったな。つーことで俺と一緒にゴートゥーヘヴンだ」


 俺は目の前のチンピラを無視することにした。こんな異能を持った俺の苦労も知らず、さっきから好き放題言いやがって。少しでも言葉を発した途端、溜まりに溜まった醜い感情が溢れ出てしまう気がする。こんな男に感情を振り回されるなんて、果てしなく不毛だ。


「なぁ、聞いてる? ほんと頼むぜ。俺の男としての尊厳がかかってんのよ。たまにはいいんじゃない? 人のためにそれ使っても。自分ばっかいい思いしちゃってさー。このイケズ」

「昌鹿君! そういう言い方はやめてくれんかの。だいたい自分が招いた事態じゃろ。百雲君も言ったが、密は異能を使わんよ」

「わっかんないよー。じーさんに隠れてガンガン使ってたりするんじゃね? そういうの、家族ほどわかんねぇだろ」

「家族だからわかるんじゃよ」

「はっ、なんだそりゃ。つーかよ、使ってるからこそわかったんだろ、色眼なんて異能」

「……」

「黙っちゃって。ほら、そうじゃん。やっぱそうなんだよ。んな異能一回使っちまったらもうアウトだって。我慢なんてできるわけねぇ」


「……いいや、最初の一度きりじゃ。密はわしらと約束したんじゃ」

「……ん? いや待てよ。なんだろな? 普通身内に言うかよこんな異能……。おいおい、お前もしかしてさ、初っ端じーさんに使っちまった? それとも死んだばーさんか?」

「昌鹿君!」

「ハハハハハ! まじかよウケるぜ。枯れ専の近親相姦なんてとんだ性癖だーなぁ? いやー参った。さすがブラザー」


 へし折った蜘蛛の糸が、刺々しい切っ先をずらりと俺に向けている。

「で、どっちにぶち込んだんだよ? いや、ぶち込まれた方か? ま、まさか3Pとか? ひぃー怖いよー」


 こいつに俺の家族の何がわかると言うのだろう。俺自身のことならいくらでもこけ下ろせばいい。でも、じいちゃんとばあちゃんの尊厳を踏みにじることは許せない。


「ハハハハ! いやーすげぇトラウマ。覚醒したばっかの異能が暴発、なんてよくある話だけどよぉ。まじ悲劇ー」


 俺に色眼を向けられてからのばあちゃんは、よく俺の目を見るようになった。そんな目、なんでもないとでも言うように。でも、ふとした瞬間に目が合うと、反射的にばあちゃんは視線をそらした。その後は決まって俺の目をしっかり見据え直し、次に頭をわしゃわしゃと乱暴になでた。お前は私の大事な子だよ、と態度で示していたんだろう。俺は突然頭をなでられて驚く子供を演じ、そんなばあちゃんの変化に無理矢理でも気付かないふりをした。ばあちゃんは、意識しないと俺の目を見ることができなくなったんだ。そして俺は、傷つくたびに演技が上手くなった。


「でもでも? 愛する孫と合体できて実はハッピーだったり?」


 怒りとは頭で感じるものではなく、瞬間的な心の作用らしい。俺は自分が激怒していることを認める前に、それを熾烈に物理現象として表出させた。コールタールのように俺の底に堆積した重く黒い感情が、心無い言葉で灼熱のマグマに変わる。自分では抑えようもない赤い奔流が体を駆け巡り、眼底が燃え立った。


 俺は、

 ありったけの憎悪で、

 青柳さんの目を凝視した。

 思い知れ。

 そう思った。

 俺たちの苦しみを思い知れ。


 青柳さんは俺と目を合わせたまま凍りついた。


「……いや、まてまてまて。それはない、絶対ない。……いやいやいや。まじでだめだろ」


 あともう一押し、この男の理性を粉々にしてやる。俺はより一層強く青柳さんの目を睨んだ。


「……もう、いいや」


 ついに青柳さんがとろんと口を開いた。顔は完全に上気して、夢見心地に俺を見つめる。瞬間、青柳さんの顔があの時の祖母と重なった。俺は我に返って慌てて目をそらした。


「チンポ、なくなってもいいや」


 甘ったるい声と、性欲でぎとぎとになった視線が容赦なく刺さる。みんなはわけがわからず固まっている。


「だってさ、尻穴あるし。なぁ?」


 青柳さんは俺に同意を求めるように、醜く顔を歪ませた。


「密ちゃんさーあ? 俺にこんなことしちゃって、ただですむと思ってねぇだろな?」


 興奮で充血した目が俺の全身を舐め回す。精神を蹂躙されるような、尊厳を叩き折られるような、暴力的な視線に射すくめられる。


 誰かに感情をぶつけるときは、それ相応の覚悟が必要だ。俺は怒りに我を忘れ、その覚悟を怠った。


「我慢できねぇ。今すぐだ」


 青柳さんの指先から白濁した粘液が飛んできた。まるで醜い情欲を凝縮させた精液そのもので、俺はあまりのおぞまさに「ひゃっ」と悲鳴を上げてソファに仰け反ってしまった。


「百雲君!」

「は、はい。火力を抑えて、っと!」


 百雲さんの擦ったマッチが小麦粉の靄に放られる。

 盛りのついた青柳さんは、爆発に飲まれて床に突っ伏した。


 その後の記憶は正直あまりない。茫然自失のうちに祖父に連れられ、気づいたら家に戻っていた。自己嫌悪と罪悪感の果てしない波状攻撃に胃が痛み、ベッドの上で丸まって耐え続ける孤独な夜。自分で異能を使ったくせに被害者面するなって? その通りだ。俺に苦しむ資格なんてない。


 青柳さんのあの表情を見た瞬間、俺はあの時の祖母の前に立っていた。あんなにやり直したいと願っていたはずなのに、もしも戻れたなら、次こそは失敗しないようにと何度もシミュレーションをしたのに、俺は結局昌鹿さんに色眼を向けていた。あまつさえおぞましさに鳥肌を立ててしまった。俺が彼を、祖母を、そうしたというのに。


「……ごめん、ばあちゃん。ごめん」


 枕に顔を埋めて謝ったところで誰も救われない。気持ち悪いと思った自分を非難している今この瞬間すら、祖母への裏切りだ。いっそ、敷布団と掛け布団が怪物の上顎と下顎で、貧弱な精神ごと俺を噛み砕いてくれたら楽なのに。そんな妄想で自分を慰めていると、部屋のドアをノックする音がした。


 祖父だ。俺は体を硬くする。


「密、起きてるか?」


 俺は布団を頭まで被って息を潜め、寝たふりをした。


「……わしゃ初めて見たよ、お前の異能。真知子さんから聞いてはいたがの」


 祖父はドア越しに語り出した。


「聞きしに勝るとはまさにこのことじゃな。わしはてんでダメじゃ。想像力が全く追いついておらんかったわ」


 祖父の声色は淡々としていて表情が読めない。


「……真知子さんも、ああなったんかの?」


 突然のその一言に心臓を鷲掴みされ、呼吸が止まった。今日、俺が祖母にしてしまったことを目の当たりにして、数年越しに祖父は怒っているのだろうか。


「真知子さんな、わしには詳しいこと、教えてくれんかったんじゃ。そりゃそうじゃわな。あんな様になったなんぞ、わしには言えんわ」


 自分の鼓動の音が頭の中で反響し、何も考えられない。脈拍にあわせて胃がずんずんと背中側へ沈み込んでいくように重くなる。


「あの日はほんとに参ったわい。布団に包まったまま塞ぎ込んでしまってな。わしが何を言っても、うんともすんとも返ってこん」そう言いながらドアが開く気配がした。「今のお前みたいにの」


 やっぱり怒っている。普段なら俺の了解なしに部屋に入ってくることなんてない。俺は腹部の痛みを守るように一層縮こまった。


「……しばらく経ってからの、真知子さんが言ったんじゃ、『私でよかった』と。『私ゃ何をされても密が大好きだから』とな」


 強くつむった瞼の裏に、俺から目を逸らす祖母の姿が映った。


「……お前が誰かにそれを使ってしまって、その誰かと、お前自身を傷つけるのが嫌じゃったんじゃろうな」


 それから、俺を見据える真っ直ぐな目も。


「わしは、そんな真知子さんを誇りに思うよ」


 祖父の声音が、ベッドを包み込むように優しく膨らんだ気がした。


「もちろん密もな。……わしはお前の戦いを知らんかった。知ったつもりで、何もわかっとらんかった。異能を授かってからずっと、周りの無理解や心ない言葉と戦ってきたんじゃな。……自分自身と戦ってきたんじゃな。わしは知らんまま、やれガーデンじゃ、やれインターンじゃとお前に勧めてしまった」


 思えば、俺以外に色眼の厄介さを理解していたのは祖母だけだった。むしろ被害者という点で俺以上にその深刻さをわかっていると言ってもいい祖母を亡くしてしまい、俺は心のどこかで孤独になっていた。もちろん祖父が俺のよき理解者でいてくれたことは間違いない。いつも俺を尊重してくれ、寄り添おうとしてくれた。


 でも、俺が祖母の視線に傷ついていたことなんて知らないし、俺の上手くなっていく演技に気づくことも当然なかった。


 今、祖父は初めて俺と同じ場所に立っているのかもしれない。強ばる心に祖父の言葉が沁み、感情が押し出されるように不意に目頭が熱くなった。


「今日、昌鹿君に異能を使ったこと、絶対に悔いてはならんぞ」


 ガーゼを思わせる優しさが一転、冬の灰色がかった闇無湾のように凛然とした言葉が降ってくる。


「お前は真知子さんを守ったんじゃ。わしを、お前自身を守ったんじゃ。だから、絶対に悔いてはならん」


 祖父は、俺に向かって「絶対」なんて強い言葉を使う人じゃない。


「……お前のその目はな、若い頃の真知子さんにそっくりじゃ。……どうか、その目を嫌いにならないでおくれ」


 祖父は少し寂しげにそう溢し、おやすみと俺の部屋を出て行った。一人になった暗がりで、俺はすすり泣いた。溢れる涙は俺の心にこびりついた色んな余計なものをすすいでいく。異能を使ってしまったこと、みんなの前で感情的に振る舞ったこと、青柳さんに襲われて無様な悲鳴をあげたこと。罪悪感と自己嫌悪と羞恥心の三竦みで身動きできなくなっていた俺を、その湧き流れる力で攫い出した。


 思いがけず三角形の呪縛から抜け出た精神は震えるほど自由で、どんな未来でも選び取り、自分のものにできる気がした。泣きながら俺は、暗い宇宙を目一杯飛んだんだ。でも布団の怪物よ、どうか嗚咽だけは綺麗に飲み込んでくれないか。




 まだ薄暗い台所に立ち、ボールの中に卵を四つ割り入れる。我が家の朝はだし巻きと決まっているのだけど、迂闊にも出汁のストックを切らしていた。おまけに顆粒も。今からでも出汁をひこうかと考えたけど、やめた。甘いのにしよう。


 ボールに砂糖を大さじ一。いや、もう一声。どうせならうんと甘くしよう。醤油をツツーッと滴らしたら、白身を裂くように菜箸で混ぜていく。


 卵焼き用の四角いフライパンに油をひき、温まったらまずはオタマひとすくい分を流し入れる。砂糖の溶けた卵が焼ける優しく甘い匂いが立つ。今朝は気分を上げるために厚めのやつをバクっと頬張りたいから、最初に流した卵液を巻く時は幅狭く。巻いてできたスペースにまた油をひき、今度はふたすくい分、流し入れる。巻いた卵を持ち上げて、その下にもちゃんと。二回目の卵液が熱されてぷくぷく気泡が出てきたら、不安をそうするように菜箸の先でそれをつついて潰す。半熟から少し固いくらいで巻いていく。油をひいて卵を流す。その積み重ね。


 甘い卵の匂いと近づいてくる朝の気配が、俺のこれからを否定も肯定もせずただ台所を満たしていく。さあ、味噌を溶いて、ししゃもを焼こう。


 朝食を作り終えた頃、祖父が寝巻きで起きてきた。


「今日はわしの当番じゃったのに」申し訳ないと頭をかく。

「早く目が覚めたから」


 祖父は少し心配そうにありがとうと言うと、配膳を手伝ってくれた。


 コップに牛乳を注ぎ、テーブルを挟んで向かい合う。普段と様子の変わらない祖父、だけど少しだけ、ほんの少しだけ肩が丸まって見えた。


「ん、今日はだし巻きじゃないんじゃな」祖父が卵焼きをひとかじりした。

「うん。甘いの食べたくなって」厚く固めに焼いた黄色い塊を口に放り、歯で噛み締める。甘さで頬が痺れ、唾が誘われる。俺の体はこんなにも素直だ。二切れ、三切れ、自然と箸が進み、腹の中でじわっと熱が広がった。


「わしが子供の頃は卵も砂糖も貴重でなぁ。こんな甘い卵焼き、食べたくても食べれんじゃった」祖父は何かを言い淀み、卵焼きを頬張ることでそれをごまかしているようだ。


 ししゃもを頭からかじる。口に居残った甘みと苦みが混ざり合う。それを味噌汁でまとめて流し込んだ。


「俺、今日も行こうと思う」


 祖父は食卓から顔を上げ、やっと俺を見た。俺の表情を探るように注意深く。


「大丈夫、自分で決めたことだから」


 祖父は優しいから、きっと俺を励ますために言った自分の言葉すら疑ってしまうんだろう。俺を追い詰めやしないか、インターンを強要してしまうのではないか、という具合に。


「ガーデンもインターンも、俺がちゃんと選んで決めたことだから」


 決して楽しいわけではないし、むしろ辛いことの方が多いけど、それでも選択権は俺にある。そう思うと少し呼吸が楽になる。そのことに昨夜気がついたんだ。


「うむ。そうじゃな」祖父は俺の言葉を咀嚼するように目を伏せ、何度も頷いた。「一緒に行こうな。今日はきっと、昨日より静かじゃ」


 朝食をすませ、俺は祖父と並んで駅へと向かった。




 事務所に入ると、部屋にはいまだに蜘蛛の巣が張られたままで、昨日の狂乱に気持ちが引き戻されそうになる。青柳さんは結局、俺たちが帰宅するまで目覚めなかった。事務所にそのまま泊まったようで、焦げたスカジャンを着てソファにだらしなく座っている。


「昨日は悪かったな」


 俺と祖父を確認するなり、青柳さんはソファから立ち上がり、ぶっきらぼうに謝った。意外すぎて、俺に向けられた言葉だと認めるのに時間がかかった。もし顔を合わせたら異能のことを口汚く罵られると思っていた。


 謝らなければならないのは俺の方なのに。


「俺こそすみませんでした」

「は?」

「え?」

「なんでお前が謝ってんだよ。気持ち悪ぃな」


 この人の言うことがよくわからない。それになんで謝罪して気持ち悪いなんて言われなければいけないんだ。


「お前は売られた喧嘩、買っただけだろが」

「え?」

「多分、気にするなってことよ」


 麗子さんが俺の言葉に訳してくれた。


「お前、ほんとに今まで異能使ってねぇのかよ?」

「……使ってませんよ。昨日はほんと、どうかしてました」

「そうかよ」

「……でも、後悔はしてません」

「はぁ?」


 昌鹿さんは素っ頓狂な声を上げた。しまった、祖父を前にしてつい口を滑らせた。


「おま、まさか俺のことまじで……。ぜってえやめろよ!︎ いかに俺の愛が海より深えからって!」


 どうやら盛大に勘違いをさせてしまったらしい。


「この事務所で働くんならな、超えちゃならねえ一線ってのがあるんだよ! わかったか? だいたいお前くらいの歳の男なんて、みんなチンポが脳みそなんだ。ああ怖い。煩悩のおばけがあんな異能持ってるなんて。いいか? 昨日は異能のせいであんなんなったけどな、俺はノンケなの! 勘違いすんなよ。つか絶対俺に使うなよ!」


 一方的すぎやしないか。それに高校生の男子がエッチのことしか頭にないなんて乱暴にもほどがある。


「仮にもし俺の恋愛対象が男でも、あんたはぜったい選ばない」


 お互いに謝ったはずなのに、なんでこんなやりとりをしているんだろう。でも、今むかついている事実はどうしようもない。


「なんだてめえ? 先輩に向かって生意気言ってんじゃねえぞ」

「早く生まれただけで、先に働いてるってだけで先輩面ですか? 今のところ先輩として敬える要素が見当たらないんで、それらしいとこ見せてほしいですね」

「はあ? まずはてめえが後輩として役に立ってみせるのが先だろが! まだろくに働きもしてねえくせに、先輩の力にあやかろうなんて都合よすぎなんだよ」

「あやかれるだけのなにかがあんたにあるかって話なんだよ」

「ま、まあまあ。二人ともその辺で」


 百雲さんが遠慮気味に仲裁に入ってくれたおかげで俺は正気に戻った。異能を使ったことを申し訳なく思っていたはずなのに気づけば罵り合いだ。どうやら青柳さんには俺の神経を逆撫でする素質があるようだ。


「所長! こいつ、まずは社会を舐め切ったこの態度から改めてさせた方がいいぜ!」


 青柳さんはそう言い放つと、これだから最近のクソガキは、なんてぶつぶつ言いながら事務所を出て行った。


「多分、彼なりのよろしくってことかしらね」


 麗子さんは苦笑いだ。


「でも意外ね。密君、あんまり気持ちを前に出すタイプじゃないと思ってたわ」


 そう言われ、急に恥ずかしくなった。


「ふ、普段はこんなんじゃないです。すみません」

「いいのよ。我慢なんて百害あって一利なしなんだからー」

「それにしても昌鹿君はどうしたんじゃろな。朝一で謝罪なんて信じられん」


 祖父は麗子さんに向かって首を傾げる。


「自分可愛さに暴言吐くのなんて日常茶飯事なんだけどね。亡くなったおばあちゃんまで悪く言って、さすがに悪いと思ったのかしら?」


 麗子さんは百雲さんを見遣り、解釈を委ねた。念のため、と彼は怪我を負った青柳さんと一晩ともに過ごしていた。


「怖かったってさ」

「こ、怖かった? 昌鹿君がそう言ったの?」

「彼って、良くも悪くも思うままに振る舞うだろう? なんていうか、主体がものすごく確立されてるよね」

「そう言うと聞こえはいいけど。要は極まった自己中でしょ」

「まぁね。自己中心的、その中心にいなきゃいけない自己が、密君の異能で無茶苦茶に歪められたんだ。それも突然、なす術もなくね」

「だから怖い、ねぇ」

「あんな力を持っちまって真っ当な人間してるんなら大したやつだよ、とも言ってたね」


 真っ当。俺の異能を知ってなお、俺のことをそんな風に言う人間はまずいない。俺にとって憧れであり、ある意味呪いでもある「真っ当」という評価をこんな不意打ちでもらうとは思わなかった。うっかり瞳に涙を溜めてしまう。


「いよいよどうしたのかしら。昌鹿君が他人をほめるなんて」

「昨日の昌鹿君の言動は目に余るものがあったけどね。まぁ、しっかりお灸も据えられたってことで、許してやっておくれよ」


 俺の青柳さんに対するごたごたした感情はすでに凪いでしまっていた。初対面でも理解できてしまうほど、彼は身勝手極まりない人間だ。自分の言動すべてに正当性を見出して、臆面なく実行する。それが昨日の襲撃であり、俺たち家族への暴言だった。そんな人が謝ってくれたんだ。


「……俺のことはもういいんです」

「……そうだよな。自分のことより、家族を馬鹿にされる方がつらい。そりゃ許せないよね」

「あ、いや、そうじゃなくて」

「そうじゃなくて?」

「俺も、その、怖かったんです」


 感情に任せて異能を使ってしまった自分も、青柳さんを傷つけてしまったことも、みんなにその一部始終を見られていたことも。


「それなのに、まさか青柳さんが謝ってくれるなんて。俺が加害者だっていうのに」


 その上、彼の流儀で受け入れさえしてくれたんだ。これ以上、何を望めばいいのだろう。


「加害者だなんて言わないの」


 そう言いながら麗子さんが優しくハグをしてくれた。きっと麗子さんにとっては特別なことではないんだろうけど、受け手にとっては大事件だ。彼女の柔らかさと匂いに包まれて、俺の愚息が急にあらぬ望みを抱きかける。やめろ、彼女の善意の行動を汚してはならない。それにこれじゃ青柳さんの言った通りじゃないか。


「密君はね、この職場に吹く新しい風なんだから。まんねり空気を吹っ飛ばしてくれなきゃね」

「まんねりとは聞き捨てならないね。でもそうだよ。何も怖がる必要はない。……今日もよく来てくれたね」


 百雲さんもそっと俺の肩に手を置いた。


「……ありがとうございます」

「こちらこそだ。改めて、これからよろしくね」

「そうよぉ。昨日みたく私を楽しませてね」

「き、昨日みたくはもういいです」

「えぇー。所長と昌鹿君の乳繰り合いとか傑作だったのに」

「乳繰り合い? 僕の勇姿が乳繰り合い?」

「まぁまぁ。ほれ、目下の仕事は部屋の片付けかの? みんなでちゃちゃっとやってしまおう」

「絶対ちゃちゃっと終わんないわよぉ。昌鹿君、これわかってて帰ったんじゃない?」

「昌鹿君は怪我人じゃからな。大目に見てあげよう」

「あ、僕もまだ身体中痛いや」

「ほれ、みんな。早くやろう」

「無視ですか」


 俺たちは各々掃除道具を手に、部屋の片付けに取り掛かった。青柳さんの張った蜘蛛の巣は、一晩経ったからなのか、触るとほろほろ砕けていった。俺が思っていたよりもすんなりと、部屋は元の様相を取り戻した。

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