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花に春泥、しき緑  作者: 畑中炭比古
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名伏密 探偵と巨乳とチンピラと

「お、シチューか」バイトから帰ってきた祖父は、部屋着に着替えながら嬉しそうに夕飯が並ぶ食卓を眺めている。


「時間なかったから、ほんとは昨日のおでんにしようと思ったんだけど」今日は色々なことがあった。フィギアの葛藤から始まり万千百の前で大号泣、それから彦名さんという女性に会って最後はクジラだ。正直疲れたが、それ以上に気分がよかった。


「じいちゃん、こっちのがいいでしょ」


 祖父は二日続けて同じものを食べることを嫌う。あからさまに態度に出すわけではないけど、そういうときは少し寂しそうな目で食卓を見るからすぐにわかる。でも、俺や祖母はカレーやおでん、煮物なんてものは、二日目からが本番という考えだった。人数分以上の量をいっぺんに作って、味の変化を楽しみながら三日は引っ張る。時間も一つの調味料なのだ。でも、今日は祖父に歩み寄ってみた。


「ということは、おでんシチューじゃな」着替え終わった祖父は、配膳の手伝いをしてくれながらますます頬を綻ばせた。


 二人で食卓につき、手を合わせた。祖父は早速スプーンでシチューに浮かぶちくわやはんぺんを突っついている。昨日の残ったおでんに小麦粉と牛乳を加えて作ったお手軽料理なのだけど、シチューに和風の食材が混ざっている違和感が楽しいらしく、祖父のお気に入りのレシピだ。


「密が作る飯はやっぱり美味いの。わしは足元にも及ばんわ」


 名伏家では、祖母が他界してから食事は週替わりでの当番制になっている。料理はできるが食欲を満たすのに困らない程度という祖父と、小学校から家庭料理のいろはを叩き込まれてきた俺とでは、当然ながら料理のスキルに雲泥の差がある。


「じいちゃん、無理して料理作らなくていいよ」当番制を言い出したのは祖父だった。

「んん、そういうわけにはいかんよ」祖父はずずっとシチューをすすりながら片手を伸ばして封筒を手元に置く。

「料理は生活の根本、生きることに直結するってな。だからわしも作るんじゃ」


 料理は命と他人を思いやる優しさを教えてくれる。料理の手伝いにぶうたれる俺に、祖母はよくそう説いた。


真知子(まちこ)さん、密は料理が達者だから心配ないってさ。そんなこと言ってたな」


 懐かしそうに祖母の名前を口にしながら、祖父はプリントを取り出す。


「あ、そのばぁちゃんに怒られるよ。ながら読みなんかしちゃ」


 祖父の数少ない悪癖だ。はまっている本なんかを食事をしながらちらちら読んでは、よく祖母に怒られていた。


「はは、まぁそう言うな。今日のプリントは特別なんじゃ」


 祖父は老眼鏡をかけ、神妙な顔をしてプリントに目を落とした。器用なことに、右手は休むことなくシチューを口に運んでいる。こうなるとしばらくこちらの世界に戻って来ない。それこそ、祖母からぴしゃりと叱られでもしないと。


 俺はトロトロした牛スジと白飯を一緒にスプーンにのせ、口に放った。和風のホワイトソースに白飯がほどけて美味い。次はちくわ。俺はおでんのちくわが大好きで、それも一日目のちくわより二日目のものが断然いい。煮詰められてくたくたになったちくわの食感がなんとも言えない。


 そんな調子で祖父を放っておいてシチューを食べていると、「密、ちょっと話があるんじゃが」いつの間にかシチューを平らげた祖父が、改まってこっちを見ている。

「何? 食べながらでもいい?」

「構わんよ。……実はな、インターンの件で話がある」

「……インターン。それがどうしたの?」突然の話題で身構えてしまう。それこそ今日、俺はインターンのハードルの高さをまざまざと感じたばかりだ。


「うむ。まぁ、あまり楽しい話じゃないことはわかっておる。少しだけ聞いてくれ」

「……」

「三富先生が色々調べてくれての。学校で授業を受ける代わりに、インターンに行けば出席扱いにできるそうじゃ」


 封筒がやけに厚かったのは、先生が調べてくれた資料を同封していたからなのだろう。


「……それで?」

「わしのバイト先がの、実はマクベスの提携先で。密の異能を知った上で、インターンに来てみないかって、言っておる」

「……目のこと知ってて来ないかって、なんか怪しいじゃん。じいちゃんのバイト先ってなにしてるの?」

「探偵事務所じゃ。一応言っておくが、お前に危険なことはさせん。やるなら事務仕事じゃ」

「……色眼つかって調査、みたいなこと絶対無理だから」

「密が異能を使わんことも理解してくれておるよ」

「……高校生にもなって保護者同伴とか。……なんかな」


 でも、俺だって今のこの状況をどうにか変えたい。新しい環境に身を置くなんてどんな災難が待っているかわからないけれど、この泥沼から這い出るきっかけがあるのなら、是が非でもそれにしがみつくべきなんだ。


「そう言うな。人は少ないが、なかなか楽しい職場じゃぞ」


 おでんシチューから出汁の沁みた茶色い卵がのぞいている。この卵は、自分がシチューの具材になるなんて想像しただろうか。キミは今どんな気持ち? 答えの返ってくる前に、俺は周りの善意に流されてみる決意をした。




 月代の隣に、(くら)(なし)という町がある。闇無はその昔、湧出量と泉質で全国的に有名な温泉観光地で、勢いと活気に満ちた町だったらしい。


 でもある日突然、地殻変動の影響により闇無の誇りである温泉の湧出量は減り、泉質も変化してしまった。よせばよいのにそれを観光客や旅行会社に隠そうと、旅館協会主導のもと地元業者総出で温泉に水道水と入浴剤を混ぜてごまかすという稚拙な工作を行ったのだ。案の定お天道様は見逃さず、その愚行がおおやけとなって温泉観光地としての地位は崩壊した。


「あれはひどかったのぉ。おかげで今じゃこの有様じゃよ」


 通勤ラッシュを幾分か過ぎた時間に、俺と祖父は電車に揺られ、インターン先の闇無に降り立った。探偵事務所があるというアーケード商店街を歩いている。商店街の入口には「闇無銀天街(くらなしぎんてんがい)」と大きなアーチが掲げられていたけど、日焼けしてもとは何色だったかわからない。快晴だというのに、所々穴の空いたアーケードが陽の光を遮り、商店街は薄ら暗い。人通りは俺たち以外になく、それでも構わないというように道の舗装は虫食い状にはげている。営業している店もあることにはあるけど、もはやこれは商店街とは呼べない。典型的なシャッター街、いや、シャッターをキャンパスにしたストリートアートの展示会場だ。そんな中、伽藍どうの土産屋が目に入った。シャッターは下りていないけど、店内に明かりはない。妙な引力に引っ張られて、店の奥、暗がりの中で何かを捉えた。人間大の干からびた木彫りの土産物が鎮座している。でも、どうにも認識と実物の有様に違和感を感じて、その正体を探るためにまじまじ見つめ続けた。そうしていると突然実像に認識が追いつき、急いで目を逸らす。木彫りの置物と思っていたものは、椅子に腰掛けた古木のような老婆であり、その目がなんの感情も宿さず俺に向けられていた。単純に怖かった。俺を小突いてやろうとか、貶めてやろうという悪意ある視線にはある程度慣れていたけど、それとは別種の恐怖だった。無関心の視線がこんなにも不気味なものだと初めて知った。


 祖父にびびっていると悟られるのが癪なので、平気なふりをして歩き続ける。


 黒茶けたコンクリのビルが、割れたスナックの看板が、その傍らにうずくまる痩せこけた野良猫が、つまりは町全体が、光を遠ざけるように薄暗い気配を漂わせている。まるで町の亡霊だ。


 俺は決心を間違えたんだろうか。


 不安と緊張に絡め取られ、つい顔が下を向いた。落とした視線のその先に、小さな花が寄せ植えられたプランターが置かれている。今朝、誰かが水やりをしたんだろう。花も葉もたっぷり雫で化粧をし、凛とした清涼感をまとっている。そのささやかな清らかさが、廃退の毒気の中で、俺を応援してくれているようだった。


 やっぱり頑張ろう。自然とそう思えたけど、「ここじゃここ。密、着いたぞぃ」祖父の正面に構える建物が放つ陰々とした空気に、瞬時に気持ちが沈んでいく。


 商店街のアーケードから小道を一本曲がった通りの角地にそのビルはあった。赤レンガ造りのこじんまりした三階建て。字面をなぞると品のよいレトロな建物を想像するかもしれない。でも、俺の目の前にあるものはそんな小気味いいものじゃない。赤レンガは風化のせいなのかあちこちえぐれ、くすんだ緑や灰色に変色して、それらが下地の赤色と気色の悪いモザイク模様を織りなしている。俺は、祖父がうっかり腐らせてしまった牛肉のブロックを連想してしまい、心底嫌な気分になった。

さらにはその腐った肉塊に、排水口の中で絡みつく髪の毛よろしく、黒褐色のツタが幾重にもへばりついている。とてつもなく縁起の悪い何かを祀っている、闇の社なんじゃないか。


「なかなか趣があるじゃろ」


 俺は初めて祖父の感性を疑った。


「じいちゃんさ、楽しい職場って言ってたけど……」

「楽しいぞぉ。エレベーターがないのがちと不便じゃがな。ほれ、上じゃ」


 暗くて狭いエントランスの正面には小さなドアと上り階段が並び、左手には幾分大きなドアがあった。そのドアの前には「珈琲ほろにが」と書かれた立て看板、取手には「Close」の木札が素っ気なくぶら下がっていた。


 こんな建物に喫茶店、と物珍しく思ったが、先へ進む祖父を追いかけて急ぎ階段を上った。紙くずやタバコの吸い殻が踊り場の隅っこに吹き溜まっている。


「事務所は三階じゃ」


 二階は丸々空いているようで、なぜかドアには養生テープで大きくバッテンが描かれている。インターンに行くと決めたときに抱いた希望はとうに萎みきった。


 三階、木製の焦茶色のドアのわきに、上手いのか下手なのか判然としない字で「葛原探偵事務所」と書かれた看板がこじんまりと掲げられている。


 さあ行こうとでも言うように、祖父は俺の肩を軽く叩いてドアを開ける。


「おはよう」きっと祖父はいつもそう挨拶をしながら出勤しているのだろう。そう思わせるくらいに馴染んだ「おはよう」だった。


 俺も体を固くしながらも遅れまいと事務所へ入っていく。外観が外観だけに、どんな劣悪な環境でどんな怖い人たちが働いているのか、負の連想しかできなかった。でも、祖父越しに見る事務所内は、襟を正したくなるほど節度と品位に溢れた空間だった。ドアと同系色の板張りの床は静かな艶を放ち、その上には、やはり同色の本棚やキャビネット、机が思慮深く並んでいる。部屋の窓際にはおそらく応接用だろう、厚い天板に飾り彫りが施されたテーブルと紅のソファが、なんだか高級そうな絨毯の上で重厚感を漂わせている。床とは対照的に明るい木質の天井からは小綺麗なシェードランプがいくつもぶら下がり、優しい橙色で部屋を柔らかく照らしていた。多分どれも相応に年季が入っていて、たかが物のはずだけど敬意を払いたくなる佇まいだ。この部屋の様子を見たならば、なるほど、このビルの外観は祖父が言う趣のあるものなのかもしれないし、外にかかっている看板の字も、きっと凡庸な俺には理解できない妙味があるに違いないと思えてくる。


「おはようございます。トモさん」


 事務所の奥からもじゃもじゃ頭の男が、名伏(なぶせ)(とも)(すけ)、つまり俺の祖父の名を呼んだ。


「この前仕上げてくれたペン型噴霧器、バッチグーですよ」


 天パー男は窓を背に、にんまり笑ってこちらへ歩いてくる。


「でも、もう少し粒子が粗いと嬉しいかも」


 俺の前で立ち止まり、右手が差し出される。


「密君かな? 僕は葛原(くずはら)()(ぐも)。今日は来てくれてありがとう」

「な、名伏密です。こちらこそ、その、ありがとうございます」


 恐る恐る手を握った。着崩したブラウンのブレザーに灰色のスラックス、一見ひょろりとして柔和な紳士の装いだけど、手は節くれだっていて力強かった。


「……背ぇ、高いねぇ」


 切れ長の目をますます細めて俺の両肩を叩く。


「あの……葛原さんと、そんなに変わらないです」


 並ぶと俺の方が若干高いけど、ほとんど大差ない。


「あはは、そうだね。だからかな」


 葛原さんは愉快そうに俺の肩やら腕を叩く。軽やかな口調のせいか、祖父からは四十代と聞いていたがもっと若く見える。


「そうそう、僕のことは百雲さんて呼んでおくれ」

「百雲さん……」

「うん、そう。いいね。すごくいい感じだ」


 百雲さんは結構独特な人なのかもしれない。一通り俺のあちこちを叩き終えて、何かを確認するように何度も頷いている。


「百雲君、麗子さんはどうした?」

「麗子君ね、珈琲豆切らしちゃって。買いに行ってくれてますよ。いつもなら自分で行きなさいって怒られちゃうとこですけどね。今日はどうしたんだろ」

「ほほ、珍しいこともあるもんじゃな」

「すぐ戻るんじゃないかな。あ、ほら」


 そう言うと同時にドアが開いた。


「ただいまー。あら」


 俺の背後に、胸元まで伸びたゆるやかなウェーブのかかったブロンドヘアを揺らしながら、目鼻立ちがはっきりとした麗しい美女が現れた。


「もう来てたのね。いらっしゃい」


 突然の美女に、俺はどう反応していいかわからず視線を下げそうになる。


「はじめまして。大海(だいかい)麗子(れいこ)です。よろしくね」


 胸元がざっくり開いた黒のニットに、チェック柄のタイトめのスカート。そこから伸びるしなやかなロングブーツは、俺の思考を強制的に桃色世界へ誘った。大人の女、しかもそこにいるだけで「私、いい女でしょ?」と肉欲に直接訴えかけてくるような、危ない迫力がある。だめだ、長時間この人のそばにいると俺はきっとおかしくなってしまう。いや、もしかすると天上の誰かが寄越した試練なのかもしれない。その試練に耐え切った時、俺の精神はちょっとやそっとの色香じゃびくともしない大樹のように逞しくなっているはずだ。とにかくここで口ごもって、美女に初対面で変な印象を与えてしまうことは避けなければならない。


「……名伏密です。今日からよろしくお願いします」


 赤面していないだろうか。彼女が放つオンナオーラに飲まれかけたけど、どうにか挨拶はできた。


 俺の動揺を知ってか知らずか、美女は勝ち気なぱっちり二重を細めながら、すれ違い様に髪をかきあげた。どうしよう、とてもいい香りがする。


「麗子君、豆をありがとう」

「あ、私が淹れますよ」

「え、いいの? ほんと今日はどうしたんだろ」

「はい? いつもこうでしょ」

「あ、うん」

 百雲さんは急にしゅんとした。

「密君、ブラックでいいかしら? トモさんもほら、ソファに座って」

 大海さんに促されて、俺たちはとりあえずソファに腰を下ろした。

「なんだか張り切っておるの」

 祖父がぼそぼそと小声で言った。

「いつもああだといいんですけど」

 百雲さんは困惑気味だ。

 ほどなくコーヒーと高そうな茶菓子が運ばれてきて、さらに皆を驚かせた。


「とりあえず密君には、資料の整理とか事務的なことをやってもらうから」


 珈琲ブレイクを経て、俺は百雲さんと麗子さん(珈琲ブレイク中、こう呼ぶように促された。この事務所の人たちは性急に距離をつめてくる)から仕事の説明を受けていた。祖父は機械いじりを始めたらしく、衝立で仕切られた部屋の一角でなにやら作業をしている。


「まだガーデン一年生だしね。危険なことはさせないから安心して」

「そもそも基本ひまだしね。密君、そんなに仕事ないから安心して」

「ちょっと麗子君。暇そうに見えて僕は色々頑張ってるんだよ」

「そうなんですか? 所長、ここで寛いでるか、外でサボってるかのどっちかじゃない?」

「ひどい! 君たちに給料払うために身を粉にして働いてるっていうのに」


 先程からの会話で、この職場内のパワーバランスをなんとなく把握した。「所長」と名のつく人が必ずしも偉いとは限らないらしい。


「そんな意識を持っていただいてたんですねー。ありがとうございます。ね、密君、こんな素敵な所長で私たち恵まれてるね」

「それ全然思ってないやつ。ひまひま言うけどさ、昨日いきなりアポが入って、この後お客さん来るんだよね」

「インターン初日にアポねぇ。密君が来るからって張り切って、所長が仕込んだんじゃないですか?」

「くぅ!」


 どうやら百雲さんは舌戦を放棄したらしく、俺に向き直った。


「密君、マクベスと僕らみたいな民間の関係ってどこまで知ってる?」

「あ、逃げるんだ」

「違いますー。密君にマレビト社会について説明した方が有益だと思っただけですー」

「正論つまーんなーい」麗子さんはぶうたれながら自分の仕事スペースであるらしい机に座った。「ネット麻雀でもしよっかな」

「あ、あの……」

「大丈夫。あぁ見えて仕事はきっちりやる子なんだ」

「あぁ見えては余計ですー。所長こそそう見える通りだらしないのどうにかならないんですかー?」麗子さんはパソコンに目を落としたまま反撃を飛ばしてきた。


「ふむ、なんだっけ。あ、そう、マクベスと僕らの関係ね」どうやら百雲さんは無視を決め込むつもりらしい。

「インターンとかその辺の話、どこまで知ってる?」

「その辺の話……。マクベスとガーデンは協力関係にあるってことくらいしか」

「了解。それじゃ仕事云々の前に、軽ーくオリエンテーションだ」


 出勤して早々にお茶を飲んで一服したり、今からオリエンテーションをしようとしたり、すぐに仕事に取り掛からないのは百雲さんの気遣いなんだろうか。不登校の俺を気遣ってペースを落としてくれているんだとしたら申し訳ない。


「あの、いいんですか? この後仕事のアポ入ってるって。その、準備とか……」


 恐る恐る聞いてみると、百雲さんはにやっとして朗々と喋り出した。


「大丈夫、準備なんか特にないし。基本、お客さんの話を聞いてからが仕事だから。いや、聞いてからってより、聞くってのがそもそも一番大事なことなんだけどね。お客さんのストーリーを知るっていうか。何事もさ、前提条件をしっかり掴んどくってのは大事なことなのよ。その人がどんな状況にいるのかなーっていう。んでさ、それって自分にも言えることなんだよね。自分の今の立ち位置を知るとさ、なんとなくでもあらましが見えてくると言うか、色々なことの理解度が違ってくると思うんだよ。まぁあくまで僕の場合はって話だけど。あ、そうだな。僕の場合はってより、正確に言うと僕の異能の性質的に、そうした立ち振る舞いが染みついちゃったってことなんだけど。まぁとりあえず、だからほら、今からオリエンテーション。マクベスやらインターンやら、そんな中での密君の立ち位置を見てみようってこと。ある意味仕事の準備だよね。事務仕事中心って言ったけど、一応今日も一緒にお客さんの話を聞いてもらおうと思ってるし。そのときに訳もわからずその場にいるのと、自分の状況ってのを知って話を聞くのとじゃ、もしかしたら得られるものが違うかもしれない」


 百雲さんの言うことを理解しようとするんだけど、その間に話があっちに行ったりこっちに行ったりするから結局追いかけるので精一杯だ。


「要はね、所長がやりたいようにやってるだけだから、密君は気を遣わなくて大丈夫ってことよ」


 百雲さんの話が途切れたのを見計らうように麗子さんが合いの手を入れる。


「はぁ」


 会って間もないけれど、なんとなく百雲さんという人をわかってきた。あくまで自分のペースで喋るし動く、そういう人なんだろう。でもそれだけではない温もりをやっぱり感じるんだ。


「あはは、ごめんよ。色々伝えようってごちゃごちゃ喋ってしまったね。どうも僕は気持ちが先走る嫌いがあるらしい。とにかくだ、マクベスとガーデン、その中でのキミってものを、俯瞰で知っとくのは損じゃない」

「俯瞰で……百雲さん的な仕事の流儀、ってやつですか」

「そう! それ、なんかいいね。うん、流儀。このやり方が僕の流儀だ」


 百雲さんは俺なりに解釈しようとしていることが嬉しいみたいで、満足そうに何度も頷いた。


「あら、優秀な生徒さんね」麗子さんも感心したようにパソコンから顔を上げる。「変人扱いされなくてよかったですね、所長」そう言って笑んだ。


「麗子さんはいつも一言多いよね。まぁとにかくだ、僕の流儀に則ってオリエンテーションさせてもらうよ」


 どうやら流儀という言葉が気に入ったらしく、少しこそばゆそうに百雲さんは続ける。


「そもそもマクベスってのは半民半官の機関でね」

「ハンミンハンカン……」

「あ、民間会社と公共機関、ここじゃ国だね。民間の会社と国がマレビトの力を皆でシェアできるように、協力して作った仕組みなんだ。国が金を出して設置して、運営は民間に任せてる」

「国が作って民間が運営……なんですか」

「そう。そもそもマクベスができる前、独自にマレビトに仕事の斡旋をやってた民間組織があったのさ。今みたいな全国規模ってわけじゃないけどね。国としてはゼロから自分たちでやるより、ノウハウを持った民間と協力して作る方が効率的でしょ?」

「なんでわざわざ改めてマクベスを作ろうなんてなったんでしょう?」

「そうだね。マレビトの異能って、ものによっちゃすっごい世の中の役に立つものもあるでしょ? 例えば地面を操れるって異能があったとしたら、道路の工事とか災害復旧とか、むちゃくちゃはかどるよね。国としては自分たちのために使えたらとっても助かるわけ。んで便利なものが他人様のものじゃ都合が悪いから、自分のものとして取り込んじゃおうってなって。そういうわけでリストでマレビトの情報を集めて、マクベスで皆の困り事を解決しようっていう仕組みができたんだ」


 リストは情報収集のための制度だと言う。なんだか国に管理されているみたいで嫌な気持ちになった。


「やっぱ賭けないとつまんない」


 どうやら麗子さんはネット麻雀に飽きたらしい。


「密君、マクベス自体がなにしてるかってのは知ってるよね?」


 ここ数年、マクベスのメディア露出が多くなっているので、俺も大まかなことは知っていた。一つは仲介業務で、その名の通りマレビトの異能を必要とする仕事を募り、マレビトに斡旋する業務だ。マクベスから仕事をもらいたいマレビトは、まず国のリストに登録していること、そしてマクベスへのメンバー登録が必要になる。


 もう一つが格付業務。マクベスのメンバーの仕事振りや社会に対する功績、マクベスへの貢献度などに応じて、下からC級、B級、A級、そして最上級のS級とランクを与える。ランクによって受けることのできる仕事の質も変化するし、報酬も上に行くほど高くなる。このランクはメンバーの社会的ステータスになっている。


「その通り。特にA級やS級は状況にもよるけど、色んな権力を行使することができるんだ。例えば臨時的に捜査権や逮捕権を与えられて警察と連携して仕事をする、なんてこともある。マクベスが半分国の機関、ってのがやっぱでかいよね。色んな規制を都合よく取っ払える。ランクにしても国の後ろ盾があるから信頼性の高いものになるし」


 仲介業務にも色々なパターンがあるらしい。基本的にはマクベスの窓口やネット上のマクベス専用掲示板に掲載されている依頼を、ランクに応じてメンバーが自ら選んで受注する。他にも依頼人から指名される場合や、マクベスが独自に判断して特定のメンバーに仕事を発注する場合もある。要は、マクベスにはコーディネート機能もあるということらしい。


「他にもね、これはあまり知られていないし、レアなケースだけど」


 マクベスには懲罰業務、という物騒な仕事もあると言う。


「対象はメンバーに限られるんだけどね、社会に対して害をなすような行為をしたマレビト、依頼人に損害を与えたマレビト、例えば守秘義務を守らないとかね、そういうメンバーを成敗するって業務だ。普通はランクを下げたり活動を一定期間制限したりするくらいなんだけど、目に余るときは実力行使でわからせる、なんてこともある。怖いよー」


 そもそもマクベスの仕事を普通にこなしさえすれば報酬をもらえるし、さらにはランクアップによる名声も得られるから、こういうケースは稀らしい。

「メンバーには色んな立場の人がいる。例えば、普通にサラリーマンしつつ、空いた時間でマクベスから受注する副業型。反対にマクベスの仕事一本で飯を食ってる専業型ってのもある。専業型はマレビトを募って事務所を構えて、手広くやるってパターンが多いな。異能が多様なほど、受けられる案件も多くなるからね。たまに少人数でチームを組んだり一人で専業やってる人もいるけど、そういうのは少数派かな。うちは探偵業だけじゃなくてマクベスの仕事もしっかりやってる兼業型から、先々密君がどんな風に働くかは別として勉強になると思うよ」


 勉強になるんだろうか。俺は自分が異能を使って生活をしている未来なんて、到底想像できない。


「ガーデンも国立高校だしね、そういう意味でマクベスとの親和性は高い。というかマクベスとガーデンは連携前提でできた仕組みさ。ガーデンで色々学びつつインターンでマレビトとしての社会性を身につける、将来的にはマクベスを通じて社会貢献、みたいな。ちなみにインターン生もマクベスに登録できるんだよ。未成年は原則メンバーにはなれないんだけど、インターン生は例外でオーケー。ランクはD級だ」


「マレビトとしての社会性……」

「密君、一応マクベスに登録しとこうと思うんだけどいいよね?」

「登録、ですか」


 身に宿す異能に社会性がない場合、俺はその仕組みの中でどうしたらいいんだろう。この先きっと俺はこの色眼を使うことはないし、この場にいるのが場違いに思えてくる。


 そんな俺の気持ちを無視するように、事務所のドアがけたたましい音を立てて開け放たれ、突然痩躯の男が現れた。


「あら、昌鹿君」


 何やら険しい表情をしたその人は、極限までブリーチしたのであろう白髪と地毛の黒が入り混じった、いわゆるプリン頭を逆巻かせている。深緑色の下地に黒いヒョウ柄が毒々しいスウェット、てらてらと光沢のあるオーバーサイズのズボン、それになぜだかカッチリした焦げ茶の革靴に青っちょろい体をくるんだチンピラ然とした姿。見た目だけで言えば、正直俺の苦手とする部類の人間だ。


「……いたか。よかったぜ」


 暗く沈んだ声で、勘違いでなければ俺の方を見てそう言った。


「やぁ、昌鹿君。珍しいね、こんな時間に事務所に来るなんて」

「いやぁ、……ちょいと野暮用で」

「また変なゴタゴタ持ち込むんじゃないだろうね。あ、この人は青柳(あおやぎ)(まさ)鹿()君。事務所で働いてもらってる。んで、こっちは――」

「じーさんとこのガキでしょ、密っつったか」

「あぁ、うん」

「……よろしくお願いします」


 胸が騒ぐ。何に騒いでいるのかは判然としないけど、たまらなく不安になってきた。俺の不安に呼応するように、部屋の中で煙草の匂いが漂い出した。百雲さんもチンピラも吸っていない。麗子さんを見遣ると、いたずらな猫の表情で紫煙を燻らせている。煙草を吸う麗子さんは、なぜか俺を余計に心細くさせた。


「もうすぐお客さんが来るんだよね。そんなとこで突っ立ってないでこっち来なよ」

「所長、悪りぃけどそれ俺だから。客なんて来ないっすわ」

「……ん? どういうことかな。悪ふざけかい?」

「いや、そいつ連れて外うろちょろされたら面倒くせぇから。じーさんはこもってんのか、好都合だ。とにかくいてくれて助かった」

「キミはさっきから何言ってんだい?」

「所長、何も聞かずにそのガキ、俺に預けてくれ」

「はい?」

「マジで頼んます。時間ねぇ」

「……理由を聞きたいね」

「それは言えねぇ」

「……そうかい。それじゃこちらも願いは聞けないね」

「どうしてもか?」

「どうしてもだよ」

「……なら仕方ねぇ! 所長にゃ悪りぃが力づくだ!」


 そう言い放つやチンピラは上半身の服を乱暴に脱ぎ去った。服を着ているときは青瓢箪のような印象だったけど、意外にも引き締まった体が現れる。そしてバレリーナよろしくその場で旋回したと思ったら、剥き出しの体からいく筋もの何かが部屋中にほとばしった。その何かは半透明の粘液のようで、プリン頭を中心に部屋の四方八方にくっつく。瞬きの間に、レトロで素敵な空間には蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされた。


 最悪なことに俺の体にもべっちゃり引っついてしまっているけど、手で払い除けることを躊躇った。そもそもこういう得体の知れないねっとりしたものは気色悪くて生理的に受け付けない。くしゃみで鼻水をひっかけられたような不快感がある。


 隣に目を向けると百雲さんも俺と同様、体にこの蜘蛛の糸のようなものをまとわりつかせている。麗子さんは机を盾にして避けたみたいなんだけど、いったい何をしているのだろう。灰皿の上で何十本もの煙草を焚き火でもするように燃やしつつ、順番に三、四本まとめて吸っては中空に煙をモウモウと吐き出し続けている。気でも違ったのだろうか。


「捕まえたぜぇ! ちょいと眠っててくれよ所長!」


 チンピラは蜘蛛の巣の上に飛び乗った。今の今まで半透明だった粘液は、いつの間にか白く変色して固まっている。慌てて振り払おうとしたけれど、腕と胴がまとめて拘束されてしまい身動きできない。


「ぜりゃっ!」


 百雲さんの顔を目掛けて粘液を飛ばすと同時に、チンピラは器用に網目の上を跳んで迫って来る。

 でも、百雲さんはさらにその上を行った。


「とぅ!」


 掛け声とともに鶴のように中空に舞い上がり粘液を躱すと、パンツ一丁で蜘蛛の編目に舞い降りた。服を脱いで拘束から逃れた百雲さんは、驚くべきことにハートが散りばめられたトランクスを履いて胸を仰け反らしている。脱出の方法は理解したんだけど、まずこのがんじがらめの状態から服を脱ぐことがままならない。


 紳士の装いを脱ぎ捨てた彼の肉体は、素人の俺がひと目見てわかるほど逞しく鍛え抜かれていて、その上いくつもの傷跡をこさえていた。とてもじゃないけど探偵業と百雲さんの体付きは結びつかない。彼は天狗か何かの類いなんじゃないだろうか。


「くそったれ!」


 半裸チンピラは構わずパンイチ天狗に殴りかかるけれど、またもや天狗に軍配が上がった。右ストレートを余裕で受け流し、ニヒルな笑みを浮かべている。


「動きを封じてから近付こうだなんて、ずいぶん臆病な戦法だね」


 挑発に煽られたのか立て続けに攻めるけど、百雲さんは薄ら笑いを浮かべたまま全て柳のように躱し続ける。その様はやはり、修験者を面白半分にからかう天狗のそれだった。


「アスレチックみたいで楽しいねぇ」


 姿は無様以外のなんでもない。でも、頼りない足場でバランスを崩すことなく攻防を繰り広げるなんて、この二人は並外れた身体能力を持っているに違いない。


 チンピラは、触れられないとみるや一歩後退し、またも粘液を飛ばした。しかも先程とは違い腕の振り幅が大きく、点ではなく面で捉えるように粘液を拡散させた。百雲さんはその場から飛び退いて避けざるを得ない。


 滞空する百雲さんに間髪入れず次弾が浴びせられ、首から下は粘液まみれになってしまった。


「詰みだ!」チンピラが悪どい笑みを浮かべた瞬間、

「とぅ!」百雲さんは着地と同時に再び華麗に宙を舞い、ねばねばしたままチンピラに抱きついた。

「げ、ちょい! ふざけんな!」

「近距離でねばねば飛ばすのナンセンスだよねー。このまま仲良くお団子だ」

「ヤロウと抱き合う趣味はねぇってんだ!」


 目の前で繰り広げられる悲しいぬるぬるローションキャットファイト(いや、断じてキャットではないんだけど)から目を背けたいけど、身動きできない俺はどうやら見届けるしかないらしい。


「クソッタレ!」キャットとはかけ離れた野蛮な台詞を吐き、チンピラは百雲さんの足を払った。体を無理矢理反転させながら二人で蜘蛛の巣から落っこちて、全身を使って床に百雲さんを押し付ける。


「くらいやがれ!」怒声が発せられるや、

「あだだだだ! ちょっと昌鹿君! なにこれ痛い!」急に百雲さんは身をよじって痛がり出した。


 凝らしたくない目をよく凝らすと、百雲さんの胴体に触れている粘液だけ白く硬化している。しかも硬化している側の一面に小さな突起がびっしりできている。床に押さえつけられてこれをぐりぐりされたら、大変地味だけど確かに痛そうだ。


「ほら、早く手ぇ離した方が身のためだぜ」


 硬化の範囲や時間を操れるのか、百雲さんの腕やチンピラについている粘液は半透明のままだ。


「あだだだ! 離すもんか! それにね、もう整った」百雲さんは涙目で歯を食いしばっている。

「と、整った? 何言ってやがる……」青柳さんは今気付いたのか、部屋に充満する煙草の煙に目を見開きその元凶を探す。「れ、麗子さん! ずりぃぞ手ぇ貸すなんて」


 麗子さんは愉快そうに笑っている。


「今度はキミが、く、くらう番だ」そう言うや、部屋中の紫煙が蠢き渦巻き出した。中空に身を隠していた大蛇がのんびりその姿を現すように煙は束なり、団子になっている二人を囲ってトグロを巻いた。百雲さんか麗子さんの異能だろうか。


「へ、変な企みをやめるなら今のうちだよ」

「ク、クッソがー!」


 チンピラの汚い雄叫びを合図に、大蛇はそのプリン頭をデザートよろしくがぶりと飲み込んだ。


「……ぐふぅ、ぐふぇっふ! ごっふ! や、やめ……ごっふぉ! ごひゅっ」


 涙と鼻水と涎を撒き散らしながらチンピラはもんどり打っている。恐らく煙はチンピラの顔面の穴という穴から侵入して暴れ回っているんだろう。汚い。


「あだだだ! ダ、ダメ! あだだだだだ! そ、そんな激しく動いたら! ダメー!」


 勇敢なことに、暴れるチンピラからなおも手を離さず、でもそれゆえに一層強い攻め苦に晒されている百雲さんも、出せるだけの体液を顔からぶち撒け喚いている。間違いなく俺のための行動なんだけど、申し訳ないことにやはり汚かった。この勢いだと二人とも、顔汁を垂れ流すに留まらず失禁するんじゃないか、そんな不安に襲われるほどの醜態だ。


 心奪われた紳士然とした部屋は、今や巨大な蜘蛛の巣と渦巻く煙に荒らされて、あまつさえ裸体の男が二人、抱き合い咽び泣くという混沌の空間に様変わりした。俺はこの混沌をただただ悲しく思う。でも、早く収束してくれと無力に祈ることしかできないんだ。


「二人ともサイコー!」部屋の様相にそぐわない麗子さんの朗らかな笑い声が、ケタケタと部屋に響き渡った。


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