名伏密 とけだす自意識
今日こそは学校に行く。
俺は学ランを着て髪をセットし、その日の授業の教科書をつめた鞄を肩に下げて玄関のロビーに突っ立っていた。意志とは裏腹に、靴を履こうとすると体が動かない。のどがヒクついて、今にも胃の中のものを吐き出しそうだし、こめかみも痛い。なにやら腹もうずいてきた。飯沼の投稿を見てから、俺はもう一月も学校に行っていない。
平気な振りをしていたが、どうやら俺は疲弊しきっていたらしい。玄関を隔てた外の世界は恐怖でしかなく、また玄関そのものが地獄の入り口のように思えた。
もうじき祖母の一回忌だ。こんな有様では祖母も安心して眠っていられないだろう。自分の心を奮い立たせようとしたんだけど、ロビーに足の根が張ったように動くことはできなかった。
玄関前で硬直していると、リビングから祖父が顔を出した。長く垂れた白髪交じりの眉毛をわざとらしく上げ、おどけた表情を作っている。
「密、無理するこたぁない」穏やかな声で続ける。
「お前の気持ちは尊重するがの」祖父の皺だらけの掌がそっと俺の背に触れる。
今の学校――ガーデン八幡校への入学を強く勧めたのは祖父だった。ガーデンはマレビトを養成するための学校だ。
そもそもマレビトとはなんなのか。少しだけ生物の不思議について説明しよう。
生物のDNAはどんな役割を担っているかわからない謎の部分――ジャンクDNAというものがそのほとんどを占めている。このジャンクDNAは一見無駄に見えるが、実は多くの可能性を秘めている。ジャンクDNAを研究している生物学者は多く、例えば過去の研究では、象のそれにはガンを抑制する遺伝子がひそんでいることが発見された。まだまだ未踏の領域ではあるけれど、生物の進化になにかしら大きな役割を持っていると主張する専門家も多くいて、その主張を裏付ける存在がマレビトなのだ。
マレビトとは、このジャンクDNAに作用して未知なる機能を引き出す特殊な因子「HR因子」を持つ者達のことを指す。HR因子の働きによってジャンクDNAが覚醒することで、人体に眠る未知の能力、異能が開花する。異能は、空を飛んだりなにかに変身したりとマレビトによって千差万別だ。もちろん、HR因子を持つだけでジャンクDNAを覚醒させずに、つまりは異能を得ることなく普通の人間となんら変わらず一生を終えるマレビトも大勢いる。
HR因子の働きがジャンクDNAを覚醒させるくらい活発になるには、マレビトの激しい感情の発露が条件となる。マレビトは、喜び、悲しみ、絶望しながら異能を身につけるのだ。
ガーデンは、そのマレビト専用の高校だ。中学校の内申点さえ問題なければ異能の有無にかかわらず入学できる。しかも国の助成金ががっぽり入っているから授業料は無償、寮も完備されていて、もちろん無料だ。こういうマレビトのために整備された学校は全国に数校あって、マレビトそれぞれの特性を伸ばすための特別なカリキュラムが組まれている。色々なマレビトが集うということはそれだけたくさんの価値観に触れることができる、祖父はそう言って俺にガーデンへの進学を勧めた。今のところ、俺を受け入れてくれる価値観には出会えていないけれど。
「……ごめん」舌が上手く回らない。
「密が謝る必要なんてどこにある? え?」祖父はいたずらな表情で応えた。祖父ならそう言ってくれるだろうとわかっていた。理解しているからこそ、なおさらすまなく思う。祖父はありのままの俺を受け入れてくれる。そして俺はこのザマだ。
「なんかあったかいもんでも飲むか?」
「……いや、いい」祖父の善意を素直に受け入れる余裕は、今の俺にはない。
「もうすぐしたらじいちゃん出掛けるから。昼飯、どうするね?」
「適当にすますから大丈夫」
「朝の味噌汁は残ってるから。家で食べるならあっためよ」
祖父は昼間に独りで家で過ごすのがつらいのか、祖母が他界してからアルバイトに出るようになった。祖父曰く、自分の特技である機械いじりを活かした職場であり、趣味と実益をかねたもの、らしい。
祖父が出かけ、悶々と部屋に閉じこもっていると気分は沈む一方だったけど、自然と体の異常は治まった。学校以外の場所が目的地の時、玄関はあくまで玄関で、俺の外出の妨げにはならない。気分を変えるために自転車にまたがり、町内にある大型ショッピングセンターに昼食を食べに出かけた。
俺の住む月代という町は坂が多い。南には闇無湾という円形状の湾が、北には花凪越連山という山々の連なりがあり、その海と山の距離が近いことから必然的に坂が多くなる。月代の住民はみんなこの坂を嫌う。まず移動が面倒だ。どこにでかけるにしろ、だいたいの場合往路か復路のどちらかは上り坂になる。夏場の上り坂なんて地獄以外のなにものでもなく、移動手段の限られる学生や高齢者は特に嫌がる。また、坂の勾配のせいで下水道が未整備の地域や、大雨のときに土砂災害の危険がある地域だってある。
それでも俺は、この坂の多い町から望む闇無湾の景色が大好きだ。靄にけぶる山影と灰色に揺れる潮模様に水墨画のような静寂と荘厳を感じる朝もあれば、天を突く青々とした空の下に悠然とかまえる山々、鏡のように太陽の光を受けてきらめく湾の風景に活力をもらう昼もある。夜になると町の光が湾の輪郭をささやかに縁取り、円状の海はさながら黒い満月と化す。
俺の家は眺めの良い山裾にあり、家にいながらその景色を存分に楽しめる。この日の湾の景は、まるで俺の心情を投影するかのように大気中のガスでくすんでいて、俺はため息を吐きながら自転車で坂を下った。
買ってしまった。
ショッピングセンターからの帰り道、俺の背負うバックパックには思わぬ戦利品――兼八先生のフィギュアが入っていた。
年齢を問わず人気のTVドラマ「3年C組兼八先生」は、熱血教師の佐谷兼八、通称兼八先生が体当たりで生徒と向かい合う中学校を舞台にした学園ドラマだ。
俺はその中でも第六シリーズに登場する亀本直という生徒が大好きだった。亀本直は体は女性だが心は男性の性同一性障害で、当時のドラマに登場するキャラクターとしては異色だった。
演じる女優の可憐さや強い眼差し、亀本直の愚直で繊細なキャラクターが相乗効果となり、亀本直は俺だけではなく多くの視聴者の心を揺さぶり、その人気から異例のフィギュア化に至った。俺が中学生の頃の話で、今では幻のフィギュアなのだ。
しかし、あろうことかその激レアフィギュアの塗装済み完成品が、ショッピングモールの玩具店のショーケースに飾られていた。手の届かない金額ではなかった。でも、それよりも切実に問題なのは、店員に話しかけ、飾ってあるショーケースからフィギュアを取り出してもらい、レジで購入する必要があるということだ。
葛藤した。ショーケースという無味無臭の檻から直を救い出す崇高なミッションは、客観的に理解してもらえるだろうか。平日の昼間っからショッピングセンターを徘徊し、なおかつセーラー服姿のフィギュアを買う俺を、あのレジに立っている店員は、隣のショーケースを見ている家族連れの客は、どう思うだろう。顔に似合わずマニアックな趣味を持った不健康な男子だと蔑むのではないか。
ならば直を諦めるのか、俺の愛を必要としているあの直を。
ちらとショーケースの直を見遣る。楚々とした紺色のセーラーに身を包み、恥じらうように後手を組んだ立ち姿。うっすら隆起した胸は店内のライトを浴びて控えめな陰を落とし、清潔感のあるプリーツスカートからはすらっと健康的な足が伸びる。完璧だった。これこそがセーラー服姿の女子だ。
よし買おう。本能に後押しされ、ようやく決心がついた頃にはすでに夕方になっていた。
「ショーケースのフィギュア買いたいんですけど」カフェでコーヒーを頼むが如く、努めて自然に定員に話し掛ける。
「あ、友達へのプレゼントなんで、ラッピングお願いします」直に後ろめたさを感じたけど、自分を守るためにはつかざるを得ない嘘だった。
そして今、外出前のガスで曇った湾景もなんのその、俺は微かにだけど確実に重量を増したバックパックの重さに浮かれて自転車をこいでいる。
でも浮かれすぎは禁物だ。浮かれすぎると必ずその後しっぺ返しが来る。まるで天にいる誰かが俺を監視しているように、昔から調子に乗るたびに恥ずかしい目にあった。今でもこれまでに味わった羞恥の記憶が、ほこりが舞い上がるように不意に蘇り、俺は全身をかきむしる。
例えば、異能を身につける以前、小学生の時だ。バレンタインデーの放課後、クラスの女子数名に呼び出されてチョコレートをもらった。俺がひそかに可愛いな、と思っていた女子もその中に混じっていた。
もちろん浮かれた。その場で飛び跳ねたいのをグッと堪え、「みんなありがとう。ちゃんとホワイトデー、返すからね」なんて落ち着き払った台詞を吐いた後、トイレの個室に駆け込んだ。嬉しすぎて家に帰り着くまで開けるのを我慢できなかったのだ。真っ先に可愛いあの子からもらったチョコレートの箱を開けた。控えめにハートが印字された紙の箱には、おそらく手作りの雪だるまや星の形をしたチョコレートが入っていた。ハートの形のものも入っていて、しかもそれはホワイトチョコレートだった。思わずガッツポーズをした。俺はホワイトチョコレートが大好きだったのだ。
ひとしきりチョコレートを目で堪能した後、ふとチョコレートをもらったときの自分の出で立ちが気になった。髪型は乱れていなかっただろうか、目やにはどうだ。
トイレの鏡を見た俺は言葉を失った。なんと太い鼻毛が控えめに一本はみ出ていたのだ。まさかこんな恥を晒しながら悠然とチョコレートをもらいに行ったとは。俺は羞恥のあまり思わず「あっ!」と叫んでしまった。浮かれたからか。女子にちやほやされ浮かれに浮かれたから、こんな仕打ちを受けたのか。なにが「ちゃんと返すからね」だ。自分を消し去ってしまいたかった。
異能が開花すると、しっぺ返しはますますエスカレートしていった。
そもそもこの異能自体が俺の人生に対するしっぺ返しなのではないだろうか。人より優れた外観に恵まれた体格、異能に目覚めるまでは運動会のリレーで毎年アンカーを任され、学校中の女子から黄色い声援を浴びながら英雄然とトラックを走った。当然浮かれる。それでいい気になるなという方が無茶だろう。そんな俺だったから、こんな異能を身に付けたのではないだろうか。
とにかく浮かれすぎは危険だ。亀本直のフィギュアでご機嫌になっていた頭をコツンと小突き、俺は自転車のスピードを速めて住宅街を突っ走った。
ちらと道行く学生らの姿が目に入った。しまった。ちょうど下校時間にぶつかってしまったのだ。掌の汗でハンドルがじとっと濡れる。
くそ、買う決心をするまでに思いのほか時間をくってしまった。俺の優柔不断のせいだけど、このままではまずい。近所の学生たちに姿を見られてしまう。
不登校になってから、制服姿の学生を見るだけでひどい劣等感を抱いてしまうようになった。しっぺ返しの匂いがぷんぷんする。「フィギュアを買って浮かれている自分」から「きちんと学校に通う同世代に遭遇し、惨めな思いをする不登校の自分」へと貶められようしているのだ。いや、本当にそれだけだろうか。注意していたにも関わらず心底浮かれてしまったのだ。俺が勝手に負い目を感じてへこむだけなんてことはあり得ない、きっと下校中の彼らは俺の背負ったものを見透かしているはずだ。ああ、やめろ、不登校のくせに平日の昼間からセーラー服のフィギュアを買って喜ぶキモいやつだなんて思うんじゃない。頼む、放っておいてくれ。こっちを見るな。
でも、焦燥が背中を強く押すけれど、俺は学生の姿を認めると自転車の速度を逆に緩めた。
仮に、必死に自転車を走らせる俺を見て周りはどう思う? ここは地元だ。道行く人が俺の不登校を知っていたなら、下校時間に同世代に出くわすことを避けて慌てて家路を急ぐ哀れなやつだと思いはしないか。それはフィギュアを買って気持ち悪がられるよりも情けない。
俺は演じた。登校できないのではない、学校に得るものがないから行っていないだけで、行こうと思えばいつでも行けるのだ。ただ、行っていないだけ。俺は人生を自分で選択できる人間。そんな雰囲気を出しながら、悠々と自転車をこいだ。
光の届かない海の底を行くような息苦しさに押し潰されそうになりながら。
平然と息を継げ、俺は平気だ、悟られるな。不穏に縮こまる臆病な自分に言い聞かせる。
背中に脂汗を滲ませながら学生たちを追い越し、白百合園という児童養護施設を通りすぎようとしたそのときだった。
空気がたわみ、目の前の空間を見えない塊が通り抜けていったような気がした。
白百合園の方から子供の叫び声や大人の怒声が聞こえる。
突然自転車の後輪に強い衝撃が走った。
見えない力にバランスを崩され、俺は道路に転倒する。あっ、と思った。バックパック越しの背中に不吉な感触が伝わった。
仰向けに倒れたまま、ただ呆然と空を見た。紫色のグラデーションが鮮やかな碧落、股の間では倒れた自転車の車輪がカラカラと回っていた。
体を起こしたくなかった。起こせば全ての決定的な事柄が確定してしまう気がした。登校拒否の自分が昼間にフィギュアを買って浮かれたこと、時間を忘れ悩んでしまったために帰宅が下校時間とぶつかってしまったこと、道行く人に哀れに思われたくなくて必死に平静を装ったこと、得体の知れない何かのせいで転倒して直がおそらく壊れたこと。いったいどこでどのように天上の罠に引っかかって自分はここで転倒しているのか。そもそも本当にそんな罠はあったのか。もうわけがわからなかった。どうしてよいのかもわからない。
直が、俺の分身が。
背中の直を想った。
亀本直は、ドラマのいちキャラクターなんかではない。心と体の性の不一致に苦しむ直は、望まない異能を手にして苦悩する俺なのだ。どうせ他人にはこの苦しみはわからないのだと周囲に理解を求めることなく衝突し、トラブルメーカーの烙印を押され学校から遠ざかる直。他人に期待しないという悲しくもある意味真実である諦観に達するまでに負った傷はいかほどか。本当はわかってほしかったはずだ。その上で一人の人間、亀本直のありのままを受け入れてほしかったに違いない。直が自身の女の声を嫌悪してフォークを喉に突き立てるシーンがあった。俺は涙をナイアガラ瀑布の如く流した。直は決して泣かない。だから俺が泣いてやるのだ。直が自分に突き立てたフォークは、孤独と周囲の無理解、自分への憤怒の象徴だ。
世間は俺を異物とみなして放っておかない。俺はただ、俺のまま居たいだけなのに。
顔がひくついた。顔面の筋肉が中心に引っ張られ、必死に抵抗するが顔が歪んでいくことを止められない。
人が小走りに駆けてくる音が聞こえた。
いけない、笑え。
いやぁ、参ったなこけちゃいました。怪我? ないない、大丈夫ですよ。ちょっとびっくりしただけです。心配ご無用、それじゃ俺、もう行きますね。
さあ笑え。
意志とは裏腹にますます顔は歪んでいく。
「すみません、大丈夫ですか? ……あれ、名伏君?」
世界に一人取り残されたような心細さににじむ視界に、亀本直の顔が映った。
俺の直。「……な、なん……」
せき止められていた感情があふれ出し防波堤は決壊する。言葉は啼泣に追いやられ、慟哭が声帯を支配した。混乱と悲嘆の涙に押し流されるまま、声を上げ、赤子のように俺は泣いた。
板張り床の簡素な医務室に、レースのカーテンが和らげた西日を控えめに送り込む。廊下からは優しい出汁の香りがふうわり香ってきて、俺は薄いパイプベッドに腰掛けたまま、部屋に流れ込んでくる夕飯の気配を深く嗅いだ。夕方の慌ただしさから切り離されたみたいで、少しだけそわそわする。
「もう大丈夫?」
つやつやしたショートヘアの黒髪と、その下にある優しくも強い眼差しが印象的な女生徒、亀本直改め万千百雫が心配そうに言った。
「うん、大丈夫だ」
本来なら恥ずかしくて声も出せない状況のはずなのだが、号泣してがんじがらめになっていた心が解放されたからか、そんな姿を間近で見られ、今さら格好をつけるのも格好悪いという清々しい諦念からか、とにかく俺は言葉の通り意外なほど大丈夫だった。
「本当に怪我はない?」
万千百は心配そうに食い下がる。あれだけ泣いたのだ、仕方ない。
「うん、大丈夫。それに万が一、怪我をしていても俺は治りが早いんだ」
手を振ろうとして、言ったそばから左手首がずきんと痛んだ。転倒したときに咄嗟に受け身を取ったのだが、そのときに妙な手のつきかたをしたらしい。手の甲もすりむいていた。
「ほら!」
「いや、こんなもの放っておけばすぐ治るから」
「いいから、ちょっと待って」
俺は事実をそのまま言ったのだが、彼女には強がりにしか聞こえなかったらしい。万千百は椅子に座ったまま、胸の前で自分の左手首を右手で握り、数秒静止した。左手の輪郭がぶくぶくと歪みだし、その手を覆っていた皮膚が半透明のゼラチン状になった。それをずるんと右手ではぎ取り、俺の前に差し出す。
「これ、手袋するみたいに左手につけてみて」
なんだこれは。おっかなびっくりゼラチン状の手袋を受け取った。感触は見た目通りぷるぷるしていて柔らかい。人肌の温かさを宿したそれは、直前まで万千百の皮膚であったことを強烈に主張する。そうして肥大してゆるくたわんだ万千百の元皮膚は、ぬらめく薄暗い穴をもって俺を怪しく誘っていた。ドキドキした。本当にこれに手を入れていいのだろうか。なんだかひどくいけないことをしている気がする。
恐る恐る指先を侵入させると、ヌルヌルと絶妙な粘度をもったひだが触覚を刺激する。なんだこの感触は。万千百を目の前にして、それに手首までずっぽりと差し込んだ時、俺は例え難い背徳感と恍惚に襲われた。ついにやけそうになるのを顔面の全筋肉を総動員して必死で堪える。しかし意識すればするほど目尻は下がり、口角はプルプルとつり上がって卑猥な笑みを浮かべそうになる。俺は表情を隠すために俯き、腕を組むふりをして自分の二の腕をぎゅうっとつねった。思った以上に力が入ってしまい、痛い。少し涙目になるほどだったが、おかげで桃色になっていた頭がしゃっきりした。いやらしさから目覚めてみると、肌に馴染む皮膚手袋の温もりは心地よく、俺の感覚をゆるゆるとほどいていった。熱と熱が混ざり合い、まるで皮膚手袋を通して自分の触覚が世界へ広がっていくような。温かい多幸感と安らぎが、左手から体全体にじんわりと広がっていった。
「どう?」万千百はどこかそわそわして尋ねる。
「なんとも優しい感じだな」皮膚手袋を見つめながら答えた。
「よかった。キモがられるかもって」安心した様子で彼女はにこりと笑んだ。
この俺が万千百の皮膚をキモがるはずなどない。万千百は「3年C組兼八先生」の亀本直役を好演したことがきっかけで人気が爆発した女優であり、また小学生時代をともに過ごした同級生でもあるのだ。しかし結局演じたのはそれっきりで、芸能界からは姿を消し、八旗校の一生徒として過ごしている。
ドラマが放送されていた当時、万千百の外見に引っ張られ「直っていいよな」「なんかミステリアスな感じ」と直を賛美する輩を俺は侮蔑した。直を上っ面でしか理解できない感受性の低い人種だと心の中でこき下ろした。しかし、決して直の外見を否定するものではない。むしろ直、いや、万千百は俺にとってもアイドルなのだ。
「全然キモくない」毅然と否定した。「……万千百の異能、こういう感じだったっけ?」
「異能の副産物って感じかな。私の脱皮した皮膚、内側は特殊な粘膜でね。傷に浸透していって治癒できるの」
今まさに万千百の粘膜が俺の体に浸透している。例えようのない喜びだった。浮かれてしまう自分をどうにか抑え、「すごいな」と平常心を装い答えた。
「んー、でも効果あるのって打ち身とか擦り傷とか軽い怪我にだけだし。ちょっと便利な湿布薬って感じかな」
「異能のおまけがそれだけの効果って、やっぱりすごい」
「そうかな。へへ、ありがと」
屈託なく笑う万千百を前につい卑屈になってしまう。
「俺なんか生粋の変態、レイプ魔だからな」万千百の前で、レイプという単語を発するのを若干ためらった。
「レイプ魔? なに言ってんの」万千百の顔から笑みが消え、強い眼差しがこちらに向けられた。
「SNS見ただろう」
「知らない。私嫌いなの、ああいうの」
「ほら、飯沼が俺のこと……」
「……そういえばクラスの子たちが話してた」
「そうだろうな」
「そうじゃなくて。その投稿、もう削除されてるよ」
「え?」
「瀬川君が飯沼さんに消させたみたい。気持ち悪いことしてんじゃねえって」
訳がわからない。彼女を犯されかけたと思っている瀬川が自分を庇うなんて。
「これも噂だけど。瀬川君、中学のときにSNSでいじめられたことがあるんだって。投稿は拡散されなかったみたいだし、気にすることないよ」
「……意外だなぁ。あの瀬川が」
自分が思う以上に、物事は簡単に良い方にも悪い方にも転がるものなのかもしれない。投稿が拡散しなかったこと、瀬川がかつては自分と同じ弱者の立場だったこと、またそのために飯沼に投稿を消させたということ、すべてが俺の胸のあたりをくつくつと小気味よくわきたたせた。でも、浮かれるな、すぐに自分を嗜めた。
「ねえ、名伏君」万千百は変わらず無表情だ。
「私は気にしないよ。名伏君の異能」静かな声色に感情はなく、しかし強靭な意志を宿したように目は硬く光っていた。
演技以外で万千百のこんな目を初めて見る。俺は中学生時代を隔てて再会した万千百の変貌ぶりに驚いていた。昔はもっと頼りない感じだった。その目に心を捕われるとともに、底知れない怖さを感じた。逃げるな、ごまかすな。そう強く迫ってくるような真剣さと切実さが同居した亀本直の眼差しだった。
「……そういう風に言ってくれるのは嬉しい。実際学校じゃ助かってたし」万千百は教室でも周りを気にせず普通に接してくれていた、俺にとって稀な存在だった。
「でも、なかなか苦労するんだよな。この目」
かれこれこの異能とは五、六年の付き合いになる。その間、俺の目が持つ絶対的なイメージ操作を何度覆そうとして失敗したことか。いや、ただのイメージ操作というわけでもない。確かに俺の中には大変強い助平さんが居着いているのだから、異能によるイメージがその実、俺の本性を白日の元に晒しているという皮肉な構図になっている。だからこそ俺は常に正しくあらねばならないのだ。
「……もうすぐ一回忌だね、おばあちゃん」
「へ?」急に予想外の方向に話がとび、言葉の継ぎ穂を失った。
「覚えてるかな。私ね、大根足って呼ばれてたの。小学生のとき」
「ん? ああ」
話の行方はわからないが、なんとなく当時のことを思い出す。
「学校で悪口言われてね、泣きながら帰ってたら、たまたまお庭を掃除してる名伏君のおばあちゃんに声をかけられて」
万千百は小学生にしては成育が早くて、一番背の高い男子と競うくらいの身長だった。脚も長く、太いというわけではないのだが高身長の女子は目立ってしまい、なにかとクラスメイトにからかわれていたのだ。
「人前でそんなに泣くもんじゃない、べっぴんさんが台無しだって、おばあちゃんに頭を撫でられたの。そしたらなんかそれまで我慢してたのが一気に溢れちゃって。悪口言われることとか、男子から体当たりされることとか全部話しちゃった。一番いやだったのは大根足。全然可愛くないし、そう言われるのが堪らないからいつも長ズボンとかロングスカート履いてた。可愛い服とか着たかったけど、からかわれるのが怖くて着て行けなかったわ」
言われてみれば小学生時代、万千百はズボン率が高かった気がする。一時期、男子の間でパンチラを覗くのが流行っていたが、万千百のパンチラを見た記憶はない。
「そしたらね、おばあちゃん、なんて言ったと思う? 大根足は褒め言葉だ、ってさ。はぁ? って感じでしょ? あ、ごめんね」万千百はふふっと笑いながら続ける。
「大根は真っ白で艶やかで瑞々しくて力強い。女にとってこれほどの褒め言葉はない、ってね。そんな格好してると、せっかくの大根足が萎れて切り干し大根みたいになっちまうよって言われたの」
女の子に向かって、大根足は素晴らしいと説く人がいたなんて。
「なんか言葉の勢いに圧倒されて泣き止んじゃった。でもね、それから勇気が湧いたの。大根足ってもしかしたら悪くないんじゃない? って思えた」
……大根足。そういえばいつかの夕方、まさに水で戻した切り干し大根を炒めていたとき、女の子に大根足だなんて言って意地悪してないだろうね、と突然祖母から凄まれたことがあった。続けて、もしそんなこと言われてる子がいたら、その子をちゃんと守ってやるのが男ってもんだよ、わかったかい、とも言われた。
「そう思えたら、なんでもできるような気がしてきちゃって」
翌日、祖母にそう言われた俺は早速からかわれている万千百を庇おうとした。
「次の日ね、大根足って言ってきた男の子にキックしちゃった。そしたらその子泣いちゃって。ちょっとだけ、悪かったかなって思ったけど。なんか気持ちよかったな。まぁ、お互い様だよね」
そう、俺がヒーロー気取りで悪口を止めようとした瞬間、万千百がからかっていた男子を蹴り飛ばしたのだった。それから彼女をからかうやつはいなくなった。
「知らなかった。ばあちゃんとそんなことがあったのか」
「そうだよ。なんだか無茶苦茶だったけど、勇気が出たの。それから、少しだけ自分が楽になった」
きつい口調とは裏腹に、元気付けようと必死に思考を巡らす祖母の姿を容易に想像できた。祖母は例え話をするとき、自分の生活の範疇から決して出ないし、そもそもそんなに例えも上手くなかった。祖母らしすぎるエピソードに少し目頭が熱くなる。
「周り、そんなに気にしなくて大丈夫だよ。名伏君がやりたいようにやったらいいと思うけどな」
その言葉で、励ましてくれていたことにやっと気付いた。俺を肯定するような言葉を同年代からかけられるのは、記憶する限り初めてだ。嬉しいのだけど、大根足と俺の異能は違う。万千百の言葉をそのまま素直に受け止められそうになかったから言葉に詰まった。
このまま黙ってしまうと気まずい。なにか話題を、と思ったとき、医務室の引き戸がガラガラと開いた。
「ごめんねぇ、遅くなっちゃった。飛雄君たちに怪我はなかったわ」
柔らかい栗色の髪に甘い垂れ目が印象的な女性が、言葉とは裏腹にゆったりと入ってきた。
「そっちは大丈夫かしら……あら。雫ちゃんの卑猥手袋してるのなら、安心ね」
俺の手をチラッと見て薄っすら笑む。優しい口調で繰り出された「卑猥手袋」という単語は、彼女がまとうふんわりしっとりした雰囲気にデコレートされ、甘いスイーツのようだ。
「み、みちるさん! ほんとそれやめて下さい」
「ごめんごめん。実際どうかしら?」みちると呼ばれた女性は首を傾げながら俺を見る。
「……全然大丈夫です。擦り傷だし、すぐ治ると思います」オーバーサイズのスウェットでも隠しきれない豊満なボディラインを直視できず、俺は足元に視線を向けた。
「この人は園で働いてる看護師の彦名みちるさん。こっちは私の同級生の名伏密君です」
「……名伏です」
「はじめまして名伏君。怪我も大したことなさそうでよかった。それじゃ雫ちゃん、もう時間過ぎちゃってるし、帰っていいわよぉ」
「あ、でも引き継ぎまだできてないです。それに名伏君の自転車、壊しちゃったままだし」
「自転車?」
「いや、自転車は大丈夫です。ほんと気にしないで」迷惑をかけたくなくて慌てて答えた。
「だめよー、そういうことはきちんとしておかないと。自転車、すぐ使わないなら置いて帰って」
「でも」
「ほら、みちるさんもそう言ってるし」
「修理終わったら連絡するから、ね」
半ば押し切られる形で自転車の修理をお願いすることになった。祖父に言えば修理に出すより安くあがる、とも言いかけるが、そういうことではないのだろうと引っ込めた。
「飛雄君たちの件は私から引き継いでおくから。雫ちゃんもあがっていいわよ」
「すみません。それじゃーよろしくお願いします。名伏君、行こっか」
「あの、それじゃ失礼します」
「気をつけてぇ」みちるさんはひらひらと手を振った。
園を出て暮れなずむ町を二人で歩く。万千百と肩を並べて帰っていることに俺はひそかに高揚していた。学生とすれ違うことに怯えながら自転車を漕いでいた先程とはえらい違いだ。今はむしろすれ違いたい、不登校の身でありながらこんな美人と一緒に歩いている自分をみんなに見せびらかしたい。
でも、歩くのにあわせてバックパックの中でカサカサと音を立てる直が俺を戒める。
「万千百、白百合園がインターン先?」俺はあえて話題にしたくない学校の話を振った。
「うん、そうだよ。マクベスのアドバイザーからは異能とマッチしてないとか色々言われたけど。やっぱりここかなって」
「マクベスが直接斡旋してくれるのか?」
「うん、社会に出たときを想定した訓練の一環なんだって。自分でマクベスに行って直接インターン先を選ぶの。もちろん初めてだし、マクベスがしっかりフォローしてくれるようになってるけどね」
MACVESとは、わかりやすく言えばゲームやファンタジー小説で言うところの冒険者ギルドのような組織で、正式名称「Marebito Contribution Verification System」と言う。冒険者ギルドが村人の困り事やモンスターの討伐依頼を冒険者に斡旋するように、マクベスは、マレビトとマレビトに仕事を頼みたい人とを仲介する組織で、その依頼は特殊な仕事からペット探しなどピンからキリまであるらしい。ガーデンとマクベスは協力関係にある。簡単な依頼をマクベスから斡旋してもらって生徒に受けさせたり、民間企業などに生徒を派遣して就業体験をさせるインターンという制度の受入れ先を紹介してもらったりしている。ガーデン八幡校では、ちょうど俺が不登校になった頃、一年生のインターンが始まった。
「……そうなのか」
俺は怖かった。みんなに置いて行かれているという事実もだけど、それ以上に俺の異能に適した仕事を他人と一緒に探すなんて想像するだけで地獄だ。俺はこの先、社会で生きていけるのだろうか。イメージできない。
「もう少し園にいたら、科戸にも会えたかもね」
「シナト? あ、クジラか」
クジラのことを下の名で呼ぶやつなんて見たことがなかった。二人は特別な関係なのだろうか。学校では全くそんな気配はなかったのだけど。
「でも、なんで?」
「……あれ? 科戸、あの園にいるんだよ」
確か、クジラは母親と一緒に暮らしていたけど、その母親はクジラが小学生の頃に彼を置いて姿を消してしまったんだった。ご近所の噂では、シングルマザーだったクジラの母親が新しい男と一緒になるためにクジラが邪魔になったんだとか。当時の俺は、囁かれるクジラのそういった話を聞いては、少し気の毒に思った。同時に、自分には父も母もいないけれど、祖父母がいてくれてよかったと安堵したものだ。
「どこかの施設に入ってるってことは知ってたけど。白百合園か」
「うん。ちょうど科戸もインターン終わって帰ってくる頃だったから」
あのクジラでさえインターン。正直、クジラには悪いけど、あいつが自分よりもずっと先を進んでいることがショックだった。浮かれる自分を戒めようとインターンの話題を振ったのだけど、今はどうしようもなく後悔している。もう少し自分を労ってもよかったのではないか。
でも、クジラをそこまで蔑んで見ていた自分にも驚いた。俺はいったいクジラの何を知っていて、ヤツのことを馬鹿にしているのか。瀬川から救ってくれたときのクジラの姿は、俺の知っているクジラではなかったではないか。いや、正直に認めよう。万千百に下の名前で呼ばれているあいつのことが羨ましいのだ。
情けない自分にへこみ、同級生に醜いジェラシーを燃やして、俺は何をしているのだろう。自分のみっともなさに悶えている間に、見慣れた我が家の門柱が見えて来た。でもそこには見慣れない山のような男がいて、身をかがめてポストに何かをねじ込んでいる。
「科戸! こんなところで何してんの?」驚いた万千百の声に、モヒカン頭がこちらを向く。件のクジラだ。
「おお、万千百。あれ?……名伏やんかぁ」クジラも驚いてこっちを見遣る。
「……クジラ」俺の自己嫌悪を加速させた一人に、まさか自宅の門先で鉢合わせるとは。クジラは俺の家の前で何をしているのだろう。「俺んチに何か用か?」
「おお。そうそう、ほれ」無理矢理ポストにねじ込まれかけ、ヨレヨレになった封筒が差し出される。「先生に頼まれてよぉ。これがまた分厚くて。ピンポン押しても誰も出て来ねぇし、郵便受けにも全然入んなくてさぁ。お前が帰ってきてくれてちょうどよかったわ」
俺は発すべき言葉を見つけられないまま、慄然と封筒を受け取った。先生とは、俺たちの担任、三富先生のことだろう。今までプリント類は三富先生が届けてくれていた。きっと自分だけだとマンネリ化するし、なにかしらのきっかけを求めて先生はクジラに頼んだに違いない。
でも、「……いいよ、迷惑だろ。先生には郵送でいいからって伝えておいてくれ」不登校という立場で、さらにクラスメイトの負担になるなんて耐えられない。
「こらこら」頭をかきながらクジラは口を開く。「そんなつれないこというなってー。俺ちゃん傷ついちゃう」
それには反応せず、俺は俯いて自分の足元を凝視する。万千百がいなければ、クジラをこの場に残してさっさと家に入ってしまえるのに。
「……名伏君」万千百はいたたまれない声を俺にかける。みっともない俺を見ないでくれ。
「あんなぁ、お前色々気にしすぎやって。小学校ん時はもっとかっこよかったのによぉ」
かっこよかった、その一言が俺の心にじんわり溶けていく。今日はどうしたことか、本当によく昔のことに思いを馳せる日だ。そう、異能を持つ前までは、俺は見た目も行動もそれは目立ってかっこよかった。晩年に自分の人生を振り返ったとき、間違いなくあの頃が絶頂だったと思うだろう。
悲しい自惚れなんかでは決してない。長身で端正な顔立ちにクラス中の女子は夢中になり、さらにサッカーやドッジボール、野球、なにをやらせても人並み以上にこなす抜群の運動神経を持つ俺は、男子からも一目置かれていた。他人から良く思われることは当たり前で、その向けられる羨望の眼差しは俺の行動にますます自信と大胆さを与えていき、西で喧嘩をしている生徒がいれば飛んで仲裁に入り、東で怪我をした生徒がいればおぶって保健室に連れて行くといった八面六臂の活躍ぶりだった。勉強もでき、授業中に先生にあてられ正解を答えるたびに、「俺天才!」とガッツポーズで爽やかに叫んで先生とクラスメイトの笑いを誘い、そのくせ自分以外の生徒が騒ぐと「うるさい! 授業に集中!」と大声でたしなめ、自分の声で静まり返る教室に恍惚とした。学校での俺は自由そのもの、体中に全能感が満ちていた。俺が風邪で学校を休んだ日には、担任の先生から連絡帳に「密君がいないと教室が静かで、なんだか違うクラスのようです。早く治るのを待っています」とまで書かれるほどだった。
「お前は覚えてないだろうけどよぉ」
クジラは小学校時代のある雨降りの日のことを語り出した。生き物係だったクジラは傘を差し、外の花壇に水やりをしていたらしい。雨の日に水やり、アホなクジラがまたアホなことをしていると生徒達が騒いでいたところに、「クジラを馬鹿にするな!」と我らがヒーロー、密少年が現れた。
植物にも人間と同じように感情がある、だから雨の日に誰も水やりに来なければこの花たちは寂しいし悲しく感じるはずだ、だからきっとクジラは雨でもジョウロを持って彼らのところに行ってやっているのだ、声なき者を思いやれるクジラは誰よりも優しいのだ、そのようなことを密少年は大声でのたまった。
クラスでヒーローさながらの俺がそう言ったものだから、クジラを馬鹿にしていた生徒達はなんとなく、すげえ、そうなのかと感心し、とりあえずその場は収まったそうだ。そうして俺はクジラに向かってピースし、その場にいた生徒たちを引き連れて水たまりを蹴っ飛ばしながら帰って行ったという。
「なんか借りを作っちゃったみたいなさー。まあ、周りにどう思われようが正直どうでもいいんだけど。なんつーか、それからお前のこと気になっちゃってよぉ」
正直、俺はクジラの水やりを庇った記憶はない。ただ、いつかネットサーフィンで得た新しくて奇抜な知識、バクスター効果というものを皆に披露して、気持ちいい思いをしたことだけは覚えている。
「まぁ、とにかくよ。お前はヒーローやったわ、俺を庇っちゃうくらいに」クジラは俺の肩を小突いて笑んだ。
あ、もしかして。
「お前、そのせいで俺のことつけ回すようなことし出したのか?」
「つけ回すってお前、人聞きが悪いなぁ。困ってるお前を助けてやろうとしてただけじゃねえかよぉ」
「お前、むちゃくちゃ怖かったって! トイレまで追いかけてきてわけわからん草投げ入れるやつ、まずいないから」
「恩返しだなぁ」
「科戸、名伏君にそんなことしてたの? それ怖いって。にしてもほんと、名伏君は目立ってたなあ」万千百は笑いながら頷いている。
「恐いもの知らずだっただけだ。そもそも小学生の頃の話だし」それでも、あの頃感じていた全能感が頭に甦る。
「そんなヒーロー様、ご謙遜をー」クジラが茶化す。栄光時代を思い出させたこのモヒカン頭は、どこまでもマイペースでてらいがない。俺の口角がほんの少し、多分ここにいる誰にもわからないくらいの角度、上がった。
「な、たまに俺が届けに来るからよぉ。それと今日のプリント、先生が絶対見とけって」
「連絡先、交換しよ。自転車が直ったら連絡するから」
俺は二人と連絡先を交換して家に帰った。