大海麗子 VS 蓮見知花
人参、じゃがいも、玉ねぎにナス、奮発したブロックのベーコンも。まな板の上で具材が次々とサイコロ状になっていく。鍋にオリーブオイルを垂らしてにんにくを火にかけると、滋味深い匂いがふわっと漂い出した。そこに角に切られたベーコンがダイブして、今度は一気に力強く香ばしい匂いが立ち上がる。
知らず、密は鼻歌を口ずさんでいた。
「ベーコンだけでも食べちゃいたいわね」麗子が匂いに釣られて台所にやって来た。「ねえ、ミネストローネの他には何作るの?」まさか野菜スープだけなんて言わないわよね、言外にそう言っている。
「ベタですけど、ハンバーグにしようかなって。百雲さんがいつ帰ってきても温めて出せるし」
「いいわねえ。ソースはソースは?」
「麗子さん、何がいいですか?」
「そうねえ。チーズをとろけさせて、その上にトマトソース」
「ミネストローネにトマトたっぷり使いますよ?」
「いいの! チーズにトマトソース」
「了解です」
意外と子供っぽい味が好きなんだな、密はくすりと笑んで返事をした。
「事務所で夕飯なんて、密君いなかったら考えらんなかったわ」
「道具も食器も一通り揃ってるし、使ってあげなきゃ勿体ないですよ」
「まさかワイングラスまであるとはね……。飲んじゃおうかな。職場でワインなんて背徳感ー」
麗子はすでに酔っ払ったように妄想を楽しみ、うっとりしている。いつもボリボリ食べているお菓子には背徳感ないんですか? 密は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
「でもそうなると帰るの面倒臭くなりそ。泊まっちゃおうかしら」
「昌鹿さんみたいですね」
「……ちゃんと帰るわ」
麗子には、やってはいけないことの判断基準の一つに、「青柳昌鹿ならどうするか」というものがある。これと反対の行動を取っていれば、ひとまず人間の底辺には落っこちずにすむというセーフティネットの役割を果たしているのだ。
「それにしても、炊飯器が経費で落ちるとは思ってなかったです」
「だって炊きたてのお米食べたいじゃん。今までは必要なかったけどさ。なんならホームベーカリーも買っていいわよ」
「まじですか」
「まじまじ」
密は台所での麗子との会話を楽しみながら、トマト缶と水、スープの素を鍋に入れ、炒めた具材と混ぜ合わせた。強化ガラスの透明な鍋蓋を被せる。
ビィーッ。「あら」ひと煮立ちするのを待っていると、それを遮るように事務所の呼び鈴がなった。
「出なくていいわよ、密君」
念のため急な来客があっても出ないように、と百雲から言付かっていた。玄関には鍵もかけている。
ビィーッ。ビッ、ビッ、ビィーッ。しつこく呼び鈴がなったが、やがて止んだ。
「行ったのかしら」
ガチャ。……ガチャガチャガチャガチャッ。今度はドアノブが音を立てだした。
もちろん今日も来客のアポイントはない。飛び込みの客が来たとして、こんな無遠慮な振る舞いをするだろうか。わからない、世の中には昌鹿のような人間だっているのだ。もしかすると、もっとタチの悪い輩だっているかもしれない。
(来るとしたら神嶽組の連中か。でも、ウチにわざわざ来る理由ある?)
留守を預かる身として麗子はひとまず密の安全を考えた。人差し指を口に当て、密に奥の部屋へ行くよう促す。密もなんとなく状況を察知し、コンロの火を止めて麗子に従おうとしたその時。
……カチャリ。
鍵の開く音がした。
……ギッ。
続いてドアが開き、誰かが中へ入ってくる。
麗子は突如訪れた非常事態に顔をしかめた。(もう、なんなのよ面倒臭い)じっとしているように目配せすると、密は素直に頷いた。それでも、自分も役に立ちたいという意思表示なのか、フライパンを手に取り、静かに台所の隅っこで息を潜める。(包丁じゃないところが密君よね)麗子はその様子に少し笑んだ。
台所は百雲の居住スペースにあり玄関や執務室とは区切られているため、侵入者からは死角になっている。麗子は隣の執務室の様子を探ろうとドアの近くで耳をそば立てる。
「こんにちは……」知的なのだが、どこかあどけなさの残る女の声が、事務所の中をひっそりと滑っていく。
「……あれ? なんだろ?」侵入者は首を傾げると、控えめに深呼吸をした。
「油で熱せられたジアリルジスルファイドのいい匂い……。イタリアンなのかな」まるで遊びに行った友達の家の夕飯を空想するような気安さだ。
(ジア……えっ、なに?)
「大海麗子さん、台所ですか?」
(わ、私? なんでよ?)突然名前を呼ばれ、麗子は動揺した。
そう言えば昔、酒の勢いで一夜を過ごした男の彼女と名乗る女が、ヒステリーを起こして仕事場にまで押し掛けて来たことがあったっけ。
(やめてよほんと。若気の至りだし)麗子はあまりにその出来事が面倒臭くて、それ以来お遊びをすることはなくなった。(今はおいしいものさえあればそれで満足だっての)過去の苦い思い出を頭の隅にどうにか押しやり、気を取り直す。
「隠れても無駄ですよ。青柳さんから話は聞いてます」
(昌鹿君? てことはやっぱり神嶽組? あのゲス、なに話したのよ)
「出て来てくれないんですね」床を踏む音が執務室を縦断し、こちらのドアに近づいて来る。
麗子は静かにニットの袖をめくった。目の前に迫る侵入者、というより青柳昌鹿に怒りを燃やす。(いいわよ。どういうつもりか知らないけど、後でたっぷりお仕置きしてあげる)高級クリームで入念に保湿したツヤツヤの手、その表皮がざわっと波打ち小石状の鱗に覆われていく。続いて人差し指と中指がくっついていき、人間の首くらいならひと掻きで切り裂けそうな、黒々とした爪が現れた。その爪を見て密は息を呑む。麗子の異能について聞いてはいたが、その目で見るのは初めてだった。
「……失礼します」
侵入者が律儀に断りながらドアを開け、百雲の部屋に足を踏み入れた瞬間、麗子は躊躇うことなくその恐ろしい鉤爪を振るった。
「きゃっ」
しかし悲鳴こそ上げはしたが、あらかじめ予測していたように後ろの執務室に飛び退り、女は爪の斬撃を免れた。
「……やっぱりここにいた」
白衣に身を包んだ研究者然とした女が身構えていた。一つ結びの黒髪に気の強そうな眉毛、オンザ眉毛の前髪がますますその眉毛圧を強調しているのだが、それとは裏腹に顔は声と完全にシンクロした知性を宿す可愛らしい童顔で、だがやはりアンダーリムの眼鏡の向こうには、研究者特有の頑固な光が宿っている。
(なんなのよ、この眉毛)初撃を躱されて麗子は少し苛立った。
「いきなり攻撃してくるなんて随分なご挨拶ですね」妙に落ち着いた物言いだが、人様の仕事場に無理やり入ってきた人間の言う台詞ではない。
「あなた、大海麗子さんですか? 私は――」構わず麗子は二撃目を振るう。
「ちょ、ちょっと!」白衣の眉毛は二撃目もひらりと躱す。「人の話の途中でまた――」そこで麗子の左手に視線が泳ぎ、目の色が変わった。
「それ……それ……、ドロマエオサウルス類の爪? もしかしてデイノニクスですか?」
(また避けられた)麗子はイライラを募らせる。しかしそんな麗子の様子などお構いなしに侵入者はしゃべり出した。
「やっぱり青柳さんの言ってたことは嘘じゃなかった! まさかほんとに会えるなんて。あぁもう、どうしよう! あ、私、蓮見知花って言います。古生物の研究をしていて、と言っても生物全般に興味は尽きないんですけど。この前もきれいなアサギマダラの標本を――」
「っるっさいわ!」麗子がキレた。「なんなのよあんた? 古生物の研究? 知ったこっちゃないわ」鉤爪でビッと相手を差し詰問する。「昌鹿君の知り合い? ヤクザじゃないの?」
知花はうずうずしながらも、居住まいを正して会話に応じた。
「青柳さんとはこのまえ知り合いました。神嶽組は、そうですね、一時的な依頼主に当たります」
「なんであんたは私目掛けてここに来たのよ?」
「どこから説明したものか……。私はあくまで学者であって、神嶽組から請け負っている仕事は、いわばバイトです」
「学者?」
「はい。私はれっきとした古生物学者です。だからちゃんと名乗りますし、こうして対話にも応じているわけです」そう言いながら、何かを我慢するように体を左右に揺すっている。
「れっきとした学者さんが、なに不法侵入カマしてんのよ」
「す、すみません。なんとも、時に自分の欲求には抗い難く。でも、それがある意味、研究者としての証明だと言いますか」
「ここに来たのもバイトなわけ?」
「あ、バイトの途中ではあるんですけどね。ここに来たのは本業っていうか。バイトはたまに請け負って研究費の足しにしているんです。色々苦しい懐事情でして」
「それじゃ、アンタは具体的に今、どんな仕事を請け負っているわけ?」
「神嶽組元組長、神嶽悠久の抹殺です」隠す素振りなど微塵も見せず、知花は言い放った。
「抹殺? それ本気で言ってんの? 学者が聞いて呆れるわ」
「……その反応はわかります」少し思案して、口を開いた。「麗子さん、お肉やお魚は食べますか?」
「馴れ馴れしいわね、食べるわよ」
「それと一緒です」
「ん?」何がそれと一緒だと言うのか。麗子はいまいち話の内容が見えてこず、眉間に皺を寄せる。
「豚や牛を殺して食べますよね。それって、生活の中でどれだけ意識してますか? ただ漫然だらりと食べて生きてる人がほとんどだと思うんですよ。そうして人生を続けるわけです」
(う、うわー)
「それと一緒ですよ。私は研究を続けたいだけなんです。その研究を継続する過程で、結果的に人を殺すこともある。でも殺す目的が明確なだけ、まだ私の方がマシだと思うんです」
(頭イっちゃってる系だ。面倒くさ)一種の選民思想とでも言おうか、自分には崇高な目的があるのだと勘違いし、それを振りかざして平気で他人を虐げ、その行為を正当化する。(勝手に余所でやってる分には構わないけど、目の前に立たれるとうんざりね)子供じみた知花の理屈に、先程までの苛立ちは冷めてしまった。
「それで? なんで元組長を抹殺するはずのあんたがここにいるわけ?」
「うーん。麗子さん、ヘノコタケって知ってますか?」
「ああ、チンポの形したキノコでしょ? それが何?」
「チ、チン……。まぁ、ええ、そうです」知花は顔を赤らめながら、言葉を続ける。
「それが神嶽組の倉庫にあるって聞いてですね。どうしても見たくて、無理を言って案内してもらったんです。そしたら、偶然にもシロヘノコを盗みに入った青柳さんと鉢合わせまして」
(……あのおバカ。まぁ、神嶽組と繋がってなかっただけマシか)
「彼、体から変な液体、出すじゃないですか。あれ、多分フィブロインだと思うんですよね。まだ調べてないからわからないけど。きっと汗腺みたいに体のいろんな所に数種類の出糸腺があって、用途にあわせて蜘蛛みたいに縦糸や横糸、付着盤を分泌してるんだわ。でも、あの鎧みたいな技ってどうやってるんだろう。……彼の異能が蜘蛛だとするなら、一番強度のある牽引糸を液状に分泌して、体をコーティングしてるっていうのが妥当ね。それでもあの硬度は……。もしかして、アミノ酸配列をいじってるのかもしれないわ。非結晶領域を結合に必要な最低限にとどめて、結晶領域を最大化してるって考えたら……。ああ、早く戻って彼を研究したい!」
(要は、鉢合わせした昌鹿君と戦闘になって、彼、この眉毛に負けちゃったのね)麗子は自分そっちのけで、昌鹿の異能について夢中で語る知花の文脈を的確に読み取って、冷静に状況を見定めようとしていた。
(負けた相手が悪かったわね。この眉毛に興味を持たれた昌鹿君は、研究対象として捕まっちゃった、と。……待てよ、こいつまさか)そこまで状況を推察し、一つの仮定に到達する。
「あんた、もしかして」
「え? あ、はい、すみません。脱線しちゃいましたね。青柳さんの異能を前にして研究者魂を掻き立てられまして、ひとまず捕獲させてもらいました。彼、どうにか逃れようと考えたんでしょうね。もっとすごい人がいるからって、麗子さんのこと教えてくれて」
(あのクソダラァァッ!)
「もう私それ聞いた時、昇天しそうになっちゃって! あ、すみません、はしたないですね。でも許してくださいね? だって古生物学者にとってこんな奇跡ないですもん。恐竜に変身できるマレビトがいるなんて、ほんと信じられない!」
(……最悪)知花に狂気と偏愛に満ちた目で見つめられ、麗子は心底うんざりした。昌鹿が漏らした通り、麗子の体内には恐竜の未知なるパワーが眠っているのだ。知花はそれを聞き、いてもたってもいられなくなり、バイトを投げ出してここに来たというわけだ。
「あの、ついて来てくれませんか? 悪いようにはしませんから」
「それ、悪いやつが言う台詞よ」麗子は辟易した調子で突っぱねた。
「そうですか」知花は残念そうに呟いた。しかし、その返答は予め想定していたようで、スムーズに次の段階へ準備を進める。「やむを得ませんね」知花が指を開いて両手を構えると、指先から爪がスラーッと伸びていき、十本の鋭利で美しい刃物が並んだ。
「言っときますけど、ただの爪じゃありませんよ」
「そうなんでしょうね」クズとは言え、あの昌鹿が負けたのだ。
「密君、じっとしてるのよ」知花を見据えたまま、後ろでフライパンを握る密に声を掛ける。
「……麗子さんも気をつけて」もしもの時は自分だって体を投げ出す、と人知れず密は気持ちを固くする。
「大丈夫、あなたにしか興味ありませんから」そんな密には目もくれず知花は姿勢を低くした。
ドアを挾み、研究者と研究サンプルが火花を散らす。その緊張の高まりに呼応するように水道の蛇口で雫が膨張していき、やがて臨界点を迎えてポチャリ、洗い桶に落ちた。
知花は床を蹴り、麗子目掛けて突進しながら両手を前にかざした。指先から爪がさらに伸び、麗子の体を絡め取ろうとする。
(なるべく傷つけないように)
だが、そんな中途半端な攻撃が古代の力を宿す麗子に通じるわけがない。彼女の手のひと払いで爪は弾かれた。
(え? あれってもしかして、テリジノサウルスの前足?)いつの間にか麗子の手はさらに変容し、その指には知花同様に長い爪が生えている。知花の観察の通り、その手はテリジノサウルスという前足に長い鉤爪を備えた恐竜のものに変化していた。その鉤爪はデイノニクスのように肉を切り裂くものではなく、専ら植物の枝をかき集めたり、枝や葉をむしり取ったりすることに使われていたようだ。
(すごいわ)知花は驚きながら、指先から手にかけて根のような無数の筋を走らせ、爪の強度を上げていく。
(捕獲の前に、少し試してみたくなっちゃった)今後は指先を束ねて、爪をサーベルのように尖らせた。(これはどう捌く?)
しかし知花の放った右の刺突は、またもや変容した麗子の左腕によって弾かれた。
(アンキロサウルスの皮骨板ですって?)攻撃しながらも知花の観察眼はサンプルの変化を逃さない。アンキロサウルスは頭から背中、尾にかけて硬い骨格で守られた鎧竜だ。
(だとしたら、いけない!)その最大の特徴は骨板が幾重にも重なってできた尾のこぶで、それを棍棒のように振るって肉食恐竜と戦っていたと考えられている。
その太古のハンマーと化した麗子の右腕が、カウンターとなって腹に迫る。知花は左手の爪の強度をさらに高めながらその面積を引き伸ばし、スコップ状に束ねた。とっさに設えたとはいえ、銃弾すら受け止めることができる鋼の盾だ。
ゴインッ! アンキロサウルスの棍棒を鋼が耐え切ったがその力は強大で、小さな体は軽々と宙を舞う。知花はその勢いに逆らうことなく、空中でふわりと一回転して床に降り立った。
(なんてこと! 一個体で、こうも様々な恐竜を再現できるなんて!)
知花の背骨を興奮と快感が駆け抜ける。
(ああ、早く連れて帰りたい)
「さっきからちょこまか鬱陶しいわね」サンプルはどうやらご立腹だ。
「科学に身を置く者として当たり前です」知花は傷んだ爪を指先から切り離しながら麗子と向かい合った。
「は?」
「サンプルに傷つけられるようなことがあっては、科学者は名乗れません」
「ははっ。ひどい物言いね」
「あ、勘違いしないで下さい。これは研究対象への最大限の礼儀であり、我々の責務です」
「責務?」
「そうです。仮に我々が捕獲の最中に負傷して、あまつさえサンプルに逃げられたらどうなりますか? サンプルの捕獲に成功したとて、体が万全ではなく研究に支障をきたしたらどうなります?」
「……」
「それは知の喪失、進歩の機会の放棄です。科学の社会的意義は、世の中の役に立つこと。我々はあなたたちを昇華させ、よりよい世界を作っているんです。わかりますか? つまりあなたたちを最大限活用できるのは我々なんです。あなたたちの秘める無限の可能性を解き放つために、我々が怪我ごときで歩みを止めることは許されません」だからこそ知識を求めることと同様に鍛錬を積み、彼女が思う、科学者の社会的意義を果たすために最低限必要な武力を身につけたのだった。
「……あんた、ほんといい性格してるわ」
「え? 初めて言われました。……嬉しい」私の言葉、科学の愛がこのサンプルにはちゃんと届いたのかもしれない。きっと今なら「一緒に来てもらえますか?」
「行くわけないでしょ。バッカじゃないの」
知花の乙女めいた期待は一瞬でゴミと化し、無念で膝をつきそうになる。
「……わかりました。それなら、引き続き力づくで」知花は改めて麗子と正対する。
しかしそうは言ったものの、どんな恐竜の力を発現させるかわからない麗子を相手に、捕獲は困難を極めそうだ。(まるで全ての恐竜を相手に戦ってるみたい。それはそれで嬉しすぎるけど)早く捕獲しなければ、どんな邪魔が入るかわからない。
(どうしようかしら)そこで初めて、密の姿を両眼ではっきり捉えた。
(使えそうね)知花の頭の中で一つの映像が完成した。その実現のため、爪を渦巻き状に形成していき、その先っぽをライフルの弾頭のように尖らせた。
(ちゃんと守ってあげて下さいね。人の柔肌を貫くくらいには強力だから)
左腕を上段に構えると、知花はにんまりひと笑いし、勢いよく振り下ろす。その最中に切り離された五つの弾丸状の爪は、面となり密へ向かう。
そこでサンプルは知花の期待通りの動きを見せた。背中を知花へ向けて、密を庇ったのである。
(さすが、仲間思いの恐竜さん)
爪がアンキロサウルスの背中に弾かれる。ここまでは知花が描いたストーリー通りだ。
(さあ、仕上げよ)
知花が右人差し指を立て満身の力を込めると、ミシミシと爪は軋みながら灰色がかった鋲と化した。先端は見ただけで目が痛くなるほど尖鋭だ。
(まるでゲオルギウスの竜退治ね。ふふ、いくわよアスカロン)
知花は伝説の聖人さながら、持てる力の全てを一点に乗せ、閃光の一突きを麗子に見舞った。限界まで研ぎ固められた聖槍は皮骨板を割り、さらにその奥へとわけ入る。そしてとうとう、麗子の生身の脊椎へ到達した。
(……よし、完璧)
注射針のごとく細い爪の先端が、麗子の脊椎と脊椎の繋ぎ目にちょうど収まった。
「あぐっ!」背中から脳天を突き抜ける痛みに麗子が声を漏らす。
「れ、麗子さん」苦痛に歪む麗子を目の前に、密は体を強張らせた。
「動かないで下さい。下手に動くと神経を損傷して、一生歩けない体になりますよ。って、痛みでそもそも動けないか」知花は冷笑し、白衣の下から注射器を取り出した。密の視界にそれが映り、反射的にフライパンを強く握りしめる。
「あ、キミも動いちゃダメよ。私の手元が狂っても同じなんだから」そして麗子の細いうなじに麻酔針を当てた。
「……許さない」麗子は歯を食いしばって痛みに耐えながら言葉を吐いた。
「大丈夫ですよ。爪は脊椎の間に差し込んでるだけですから、抜いてしまえば元通りです」
「……許さない」
「はいはい。恨み言は帰ってからゆっくり聞いてあげますからね」
知花が麻酔を射とうとしたその時、麗子のニットが波打った。溢れ出る怒りの奔流が彼女の背中を隆起させる。
「え? ち、ちょっと」
背中の肉が変質していき、骨質のひし形の板が柔らかいニットを引き裂きながら現れる。その肉の流動に押しやられ、知花自慢の聖槍が抜けてしまった。
「ス、ステゴ――っきゃ」いつの間にか生やした尻尾で知花を薙ぎ払った。
聖人と対峙した毒竜は飼い慣らされて最後は殺されたが、憤怒に燃える麗子は無論そんな伝説を知りはしない。背面からステゴサウルスの板と尾が消えると、今度は全身が怪しく蠢動し変化を始めた。両腕は縮みながら鋭利な爪を備えていき、白亜の全てを踏みしだく強靭な後ろ足がブーツを引き裂いて現れた。首は大きな頭を支えるに十分な筋量を備えていき、それに比例するように頭蓋が肥大化し鼻や上顎がせり出していく。口は大きく裂け凶悪な歯をズラリと揃えたその顔は、肉食恐竜の代名詞「……ティラノサウルスッッ!」
神話なんてものが生まれる遥か昔、暴力が全てだった時代の覇者へと姿を変えて、傲慢な研究者へ牙を剥いた。知花にとってのサンプルが捕食者へと変貌した瞬間だ。
「ごゔぉじっど、ぎぶりゃじだどおゔぉっでんど!」
麗子は怒声を上げ突進した。地球の歴史上、最も凶悪なその口をこれでもかと開け広げ、倒れた知花の頭に迫った。
あともう十数センチで歯が届き知花の頭をトマトのように噛み潰せるという所で、麗子の首の両側に爪が突き刺さる。肉を貫く熱い痛みが麗子を襲いその勢いを鈍らせた。しかし、ティラノサウルスの分厚く固い筋肉のおかげで致命傷には至っていない。
「お、お願いっ! ……私にあなたを殺させないで」
知花は肘を床に固定して精一杯、麗子に向け爪を突き立てていた。白亜紀最強の恐竜に変身した麗子に組み敷かれてなお、この科学者はそれを自分のサンプルだと信じていた。近づいてくる地獄の入り口を押し留めようと爪の強度を上げていく。
「なべだごどぅお、ぎっでんぎゃでぇっ!」
自分の肉を切らせながら知花をじりじり追い詰めていくが、傷口からは血が溢れ、喉の中を伝って下顎からも滴り落ちている。
殺したくはないがみすみす殺されるつもりもない知花、殺してやりたいがこれ以上迫れば自分の命を差し出すことになりかねない麗子、二人の力がその狭間で拮抗した。この均衡が崩れる時、どちらかの命が失われることになる。そしてその兆しは早くも現れた。
(……う、腕が)
床を支えにどうにか麗子の突進を止めているとは言え、恐竜の力に真正面から人間が太刀打ちすることは到底無理だった。知花は己の限界を悟り、麗子の動脈に爪を引っ掛ける。この科学者はサンプルをなるべく傷つけずに回収するために、襲われつつも大動脈の位置にあたりをつけ、そこを避けて爪を刺すという離れ業をやってのけていたのだ。
(このままじゃこっちがやられてしまう)
その大動脈を切り裂いてしまえば、おそらく麗子の失血死で勝負は決する。
(こんなことってないわ。酷すぎる)
知花は知の喪失を前に運命を呪った。そして逡巡を断ち切るようにその指先に力を込める。
しかしその時、青年の頭が知花の視界に突然映り込んだ。予想外の出来事に知花の指先が止まる。
食ってくれと言うように、麗子の口内に密が頭を突っ込んできたのだ。
「ど、どぎなざい。……カハッ!」
麗子は声帯の震えで迫り上がってきた喉奥の血溜まりを吐き出した。
吐き出された血は密の首や後頭部を汚し、髪をつたって顔を赤く染めていく。その生暖かさが密の背中を思い切り蹴っ飛ばした。
「こっちを見ろ!」
血と牙で縁取られた白亜の闇の中、密の目だけが妖しく桃色に輝く。情欲の魔眼が放つ抵抗不能なエロティック光線。知花はその不思議な光に吸い込まれるように、気づけば密の視線の虜になっていた。
(……え? なにこれ?)
自分の鼓動が苦しいくらい高まっていくのを感じる。桃色の光に炙り出された欲望は、夜蛾が光に群がるように密を求めて猛り出す。
(嘘……。こんなよく知りもしない男の子にっ)
知花は理性を握りしめ、必死にその衝動に抗おうとするが、自分の中で渦巻き膨れ上がる獣をどうすることもできない。
(あぁ、もうダメ。頭がふやけちゃうっ!)
麗子の首に突き刺さっていた爪が縮み知花の指に収まると、その血みどろの指先で密の頬をそっと撫でた。何かを求めるように、知花の舌先がちろと口から覗く。血で濡れた青年の唇は背徳の美しさで艶めいている。
(……初めてなのに……怖くないや)
知花はぬらめく手で密の頭を手繰り寄せ、顔を近づける。
だが、密の背後には依然として白亜の覇者が息巻いていた。密のえり首をそっと噛んで持ち上げると、敵から遠ざけ自分のそばに立たせた。知花はそれを追うように口をパクパクさせ、手を泳がせる。そこに科学の意義を説いた生意気な研究者の姿は微塵もなかった。
密の目は知花の研究者としての背骨を叩き折り、一匹の獣へと堕落させてしまったのだ。
(こうなると憐れなもんだわ)
自由になった体で知花と相対する。
(でも、落とし前はつけてもらうわよ)
麗子は腰を旋回させて丸太のような尻尾で知花を強かに打ち据えた。知花はされるがまま執務室の机や椅子をひっくり返しつつ、もと来た道を転がっていく。
「……ゲホッ!」
玄関のドアにぶつかり、喀血して床にうずくまる。全身を強打して体を思うように動かせない。常人離れした俊敏さや、異能の影響で強靭化した指の力は甚だ出色なのだが、その耐久力はあくまで小さな体に相応しいものだった。ティラノサウルスの尾は知花に甚大なダメージを与えたのだ。
知花は震える手足でどうにか立ち上がると密を睨んだ。尻尾でぶたれた衝撃で正気に戻ったらしい。表情から先程までの淫猥さは消え、かわりに自分の内面を蹂躙されたという屈辱に顔を歪ませていた。
(……なんなのいったい。さっきのはあいつの異能? ……だとしたら許せない)
密を切り裂きたいという衝動が体の中を駆け巡るが、その一方で凌辱のダメージからまだ立ち直っていない女性の部分が、今すぐこの場から立ち去りたいとも願っている。相反するに欲求の狭間に立ち、知花は静かに目をつむった。
(私は何をするためにここに来たの?)冷静に、冷静に。(いっときの感情に振り回されて、死を選ぶ?)知花は自分に問いかける。(違うよね?)
ゆっくりと開かれた瞳には、知の探求者としての輝きが戻っていた。
(この体じゃ、いま麗子さんを捕まえることはできない)おあつらえ向きにすぐ後ろは玄関だ。
知花は現代に蘇ったティラノサウルスの勇姿を目に焼き付け、小さくため息を吐くと一転、ドアから駆け出して逃げ去った。
(あーあ。服、ダメになっちゃった)一難去り、ティラノサウルスの体はサイズを変えながら元の人間の姿に戻っていった。一糸まとわぬ姿、ではなく胸元から下は恐竜の固い皮膚に覆われている。その姿は物語に出てくる竜と人の混血――竜人のようだ。
(あいつ、またきたら厄介ね。やっぱりふん縛って警察に突き出しとけばよかったかも)口角にこびりついた血をポリポリ爪で落としつつ、しかし麗子にはそれができなかった。密の異能であられもない姿を晒した知花を見て、女として少し同情してしまったのだ。
(いてて……。それより密君は――)麗子が顔を向けた先には、乾燥していく血をそのままに俯く密がいた。
(やっぱり、女性に異能使っちゃったから……)また自分で自分を加害者扱いして苦しんでいる。麗子はどう声をかけようか逡巡した。密のインターンを受ける前、友介から異能のことや密の境遇を聞いていただけに、その苦しみを想像してしまう。
「麗子さん、大丈夫ですか?」
(あら?)しかしその心配をよそに、密は麗子を気遣う言葉を投げてきた。
「血がいっぱい出てました」視線は床に引っついたままで、麗子のことを見ようとはしないけれど。
「私は大丈夫よ。密君こそ、そのぉ、平気?」
「……俺も役に立ちたくて。……引かないでくださいね」
なるほど、麗子は合点がいった。異能を使ったことに苦悩しているわけではなく、その結果、私にどう思われるかを気にしているのだ。(トモさん、案外お孫さんは逞しくなってるかもよ)
「お、俺は自分のためには絶対使いませんから」
自分の血に塗れて俯き続ける密を、麗子は心底いじらしく思った。
「私を守るためにやったんでしょ? おかげで助かったわ。ありがとう」優しい声色を意識して、麗子は頭を撫でてやろうと痛む体を密に向ける。が、
「ちょちょ、麗子さん! こっちにきちゃダメです!」
「ええ?」
突然の拒絶。
「なんでよ? やっぱり気にしてんの?」
「いや、気にはしてるんですけど、そうじゃなくて。ふ、服をですね」
この男子は自分の姿を直視できなくて俯いているらしい。麗子は急に愉快になるとともに嗜虐心がそわそわし始めた。
「あら、いいじゃない。全裸ってわけじゃないんだし。それにこの状態、回復が早くなるの」
そう言いつつ密ににじり寄る。
「でで、でもほら! 胸元ざっくり開いてるし!」
「そんなのいつもと変わんないわよ、ほら」
胸の下で腕を組み、その豊かな連峰を強調する。
「そそ、それにフォルム! 体のフォルムがダイレクトすぎて!」
「密君たら、想像力が逞しいのねえ。っつう!」
冷やかしに腰をくびろうとしたが、背中に痛みが走って邪魔される。完全に悪ノリがすぎた。
「ほら! 病院行きましょう! き、救急車呼んだほうがいいですかね?」
「大丈夫。こういう時のかかりつけ医がいるからね。密君こそ、顔洗ってきたら?」
麗子は客間のソファにそっと横になりながら、スマホでどこかに電話をし出した。
そう言われても怪我をした麗子を放って顔など洗う気にはなれない。何かできることはないかと思案して、とりあえず百雲の居室から毛布を持ってきた。
まだスマホに向かってしゃべっている麗子に渡そうとして、不覚にもその姿を両眼ではっきり捉えてしまった。横になった麗子の豊満な胸の弾力と重力とがせめぎ合い、その妥結として緩やかにたわんだ膨らみの生々しさ、固い皮で覆われているとは言え、一人の女が一糸もまとわずソファで横になり電話をするという無防備なエロスが密の脳天と股間を強襲する。
「グブッ」
気をつけていたとは言え、不意打ちで引き込まれた桃色世界に耐え切れず、いや、耐えようとはしたのだが刹那に臨界点を迎えてしまい、それが鼻から噴出する。密は鼻血を両手で抑えながら床にうずくまった。
「たった今、患者が二人に増えたわ」麗子は面白さ半分、呆れ半分スマホに向かって呟いた。
スケベな道化と成り果てたかに見える密だが、麗子のはじめの見立ては得てして正しくて、知花に色眼を使ったことで彼が被った精神的な苦痛は計り知れない。人に色眼を向けるという行為に対する根源的な嫌悪感、それはやはり彼の祖母に起因する。そしてこれまで守ってきた家族との約束が、その嫌悪感を知らぬ間に大きく育ててしまっていた。
密はこの先も異能を使うたび、目の前で起こるトラウマの再現に心を晒すこととなるだろう。しかし誰かのために自ら選択したというその一点で、密はきっと苦悩の海から自分をすくい上げる。前に進むため、信じられる自分になるために。




