轟岳 VS 破良九十九
そうたいして高くも大きくもない山脈が、やっぱり柔らかな落ち着いた線で屏風でも立て回したように静かに取り巻いている渓谷の橋の上、ただならぬ雰囲気を醸して一人と二人が対峙している。橋下の御木川がなだらかな表情で山麓へくだる片岸では紅葉が彩り、そのもう片岸では収穫の終わった段々田んぼが鱗のように連なっている。三人を見守る補陀落岩も、ここで血みどろの戦いが始まろうとは夢にも思うまい。
「はは、すげえ馬鹿力だな」
二人のうちの一人、チリチリと放射線状にパーマをあてた、伸び放題の竹林みたいな頭の男――可児慶土が口を開いた。
「さすがは凶獣ってことか」
頭とは正反対に、着ているものは黒いダウンに黒いパンツと控え目だ。口元と顎には髭をこさえていて、若い風貌とは裏腹に、逆三角形の垂れ目は太々しい自信と狡猾な光を湛え、老熟の雰囲気を漂わせている。
「……」もう一人、肩まで伸ばしっぱなしの野太いくせ毛に頑強な鷲鼻、ただでさえ大柄な体に奇妙に長い腕がぶら下がり、妖しい幽鬼のような男――破良九十九は、表情こそ乏しいが、全身から陰気な闘志が迸っている。
「神嶽さんはしっかり死んでくれたかな?」
可児はヘラヘラ笑いながら問いかけるが、目は推し量るように冷静だ。
「……そうか、生きてるか。やっぱり使い慣れないもんを使うんじゃないな」
決して強がりで言っているわけではない。ライフルで神嶽の側頭部をこそいだのは可児だが、この男がライフルを扱い出したのはつい二月ほど前からだ。
「お前ら、麻黒に雇われたんだろ? 二人だけか?」
赤髪の獅子――轟は、猛る気持ちを抑えて刺客らの情報を引き出そうと試みる。幼馴染との絆に気付いたこの男は、努めて冷静にこの局面を切り抜けつつ、その後の驚異も明らかにしようとしていた。
「さーなー?」
「……おい、もういいだろ」
大袈裟に両手を挙げながら首を傾げる可児の隣で、九十九はくぐもった声で呟いた。
「……次は俺だ。違うか?」
九十九にひと睨みされ、可児はやれやれとため息を吐く。
「こいつ、あんた目当てみたいなんだ。相手してやってくれよ」
頼むよ、友人にお願い事をするような気軽さで可児が片手を挙げる。
(なるほど)轟は自分への射撃が牽制にとどまっていた理由に思い至った。神嶽組にいた頃、自分を目当てに腕試しに挑んでくる輩がいた。九十九もそんな中の一人で、自分を射つことを許さなかったのだろう。
(刺客にしちゃ、なんかゆるくねえか)神嶽を殺しにきたのであれば、その一番の障害となる自分をさっさと始末する方が得策だ。わざわざ道場破りさながらに真正面からやり合って、自分の実力を試したいなんて。
(遊びじゃねえんだからよ)九十九を見遣るが、その身から溢れ出る暗い闘気は決してこの戦いを楽しもうという類のものではなかった。
(……いいだろう、瞬殺だ)轟はにやっと破顔し、挑発的に顎をしゃくってみせた。獲物を見据えて不気味に笑う様は、ジェラシーに身を焦がし不貞腐れていた男とは到底結びつかない。
「可児、邪魔するなよ」
「わかってるって」
九十九は可児をちらっと見遣り、それから轟に向き合った。
「……行くぞ」
九十九は枯れ葉が落ちるような声で呟くと、体格に見合わぬ俊敏さで大地を蹴り、長く太い腕を伸ばして蜘蛛さながらに轟に襲い掛かった。
轟も迷わず応じ、がっぷり手四つでぶつかり合う。二枚の巨岩が衝突するようであった。
二人の間で力と力がせめぎ合う。均衡しているように見えたその時、轟は組んだ腕を力任せに引き寄せた。九十九とてその風貌どおりの勇猛さで、今まで全ての敵をなぎ倒してきた強者だ。
しかし、単純な力比べでは轟に軍配が上がった。組んだ腕ごと九十九の上体を押し込め、そのまま膝蹴りを見舞った。衝撃が腹から背中に突き抜けていき、九十九の時間が一瞬停止する。
そのまま二度、三度と膝を叩き込む。
「……っ」逃れようにも両腕を固定されて離れられず、ノーガードの土手っ腹に重い膝がめり込む。腰を引いて衝撃を和らげようと試みるが、そんなことでやり過ごせる蹴りではない。
「おい!」可児がたまらず声を上げる。
「……ぐっ」初手は力比べ、裏世界で幾度となく伝え聞いた凶獣の驍勇と正面からぶつかってみたいというわがまま。しかし、自身の敗北を差し出してまで駄々をこねるつもりはさらさらない。
轟はさらに片腕を素早く解いて九十九の後ろ頭に添え、顔面に膝蹴りを叩き込んだ。ガードは間に合わず、鼻骨なり頬骨なりの砕ける感触が膝に伝わってくる、そのはずだった。(おかしい)分厚い肉の壁を蹴り上げたような、そんな感触だ。例え解いた片腕でガードが間に合ったとしても、その腕ごと吹っ飛ばすつもりで蹴ったのに。
轟はもう一度蹴りを見舞おうとするが、蹴り足は抱きかかえられ、残った軸足も絡め取られて地面に倒れ込む。とても片腕だけでできる仕事ではない。不意のことで自由を封じていた方の腕も放してしまう。起き上がろうとするが、獲物を襲う蜘蛛の動きで素早く馬乗りされ、マウントポジションを取られていた。一気に形成逆転だ。
(しまった、この体制はまずい)轟が慌てての可児の姿を探すと、男は変わらずそこにいた。(どういうつもりなんだ?)轟が組み敷かれた今、ターゲットに迫る絶好のチャンスだと言うのに。
「……おい、もっと集中しろ」頭上から不穏な声が降って来る。(そういうことかよ。俺の気が逸れないよう、ハル坊は後回しってか)見上げると、九十九は異形と化していた。
「……それがお前の異能か」着ているスウェットを突き破り、たくましく筋張った肩が左右に二つずつ現れ、毒々しい長い腕が四本ぶら下がっている。異形ではあるのだが、まるで生まれた時からこうでしたという自然さがあった。九十九自身がまとう妖気がそうさせるのであり、また、異形の体で幾百もの修羅場を戦い抜くうちに備わった必然的な佇まいだった。そしてその姿は破壊と再生を司る神のような仄暗い恐怖をたたえている。
「タコ殴りだな。耐えられるか、凶獣さんよ?」可児はまだ観戦を決め込んでいる。
九十九は渾身の力を込めて四つの拳を固め、静かに振り上げた。毒蜘蛛。九十九の裏世界での通り名だ。この複数の腕にからめ取られて無事でいた者はいない。
マウントからの打ち下ろしは九十九の必勝パターンの一つだ。いくらガードを固めようと関係ない。腕の数で勝るのだ。二本の腕でガードをこじ開けても殴るための腕は充分足りるし、ガードを無視して殴り続けるのもありだ。相手の防御をパンチの回転数が上回り、チェンソーで木肌を削り飛ばすように敵は殴り倒される。
必死に守りを固める相手ですらボロ雑巾にしてしまう九十九のラッシュだ。それなのに、いま組み敷いている男はよほど打たれ強さに自信があるのか、はたまたただの強がりか、防御の姿勢を取る気配がまったくない。
(そうか、なら遠慮はしない)九十九は奪われた体力を補うように深く息を吸い、無慈悲に拳を振り下ろした。が、ふるった拳は岩石を殴ったような鈍く硬い痛みに襲われた。
凶獣のなんたるかまでは知らなかったか? 尻の下で敵が無表情に問い掛けてくる。その目には獲物の喉笛を狙う野生の冷たい光が宿っていた。眼光以上に冷たく硬質なのはその体だ。一見人の形をしているが、肌は灰色に変色し感触もまるで違った。岩盤を思わせる冷たく硬いざらつき。大地の一部にまたがったような感覚に九十九は静かに驚嘆した。毒蜘蛛は知らない。すでに接近戦を見越し、轟が体内に石を取り込んでいたことを。
もう一度殴りかかろうと痛めていない腕をふるったが、空中でがしっと拳を掴まれた。
石のミットで拳を覆われた次の瞬間、九十九は反射的に轟から飛びのこうとした。轟の剛力に鉱物の硬さという組み合わせの危険性を遅まきながら察知したのだ。しかし、がっしりと掴まれた拳は逃げるにあたわず、ぐしゃりと柘榴よろしく潰された後にようやく開放された。
「……!」赤髪の凶獣、まさかここまで差があるとは。九十九は潰れた拳の激痛を意識の外に置き、努めて冷静に轟を見据えた。
(だが勝機はある。その証拠に潰した拳を手放した。俺をなめているというわけだ)拳を掴まれたまま畳み掛けられていたら、おそらく勝敗は決していただろう。
(潰されたのが触腕でよかった。消耗はするが……万全で挑む)触腕――異能で生やした負傷した右腕がみるみるしおれていき、まるで木が自衛のために傷ついた枝を自ら枯れ落とすように、九十九の体からぱさっと干からびて落ちた。九十九はこの触腕を同時に四本まで生やすことができる。傷ついた腕の分、新たに生やす触腕の数が制限されるため早々に捨てたのだ。
「出したり引っ込めたり、便利なもんだな」動く石像と化した轟は立ち上がり、まるで散歩をするように敵に歩み寄る。
「腕、もう増やさねぇのか?」轟は大きく振りかぶった。石の体に防御は任せ、全意識を攻撃にそそいだ文字通りの渾身の一撃。上半身を相手にねじ込むように繰り出される灰色の右腕は、さながら隕石の衝突だ。想像を超える攻撃の圧力に九十九の体が一瞬強張り、躱す機を逸した。
(……!)迫る死の予感に、九十九は無我夢中で半身に構え左腕二本を突き出す。九十九がこれまでの人生をかけ磨き上げた技術の粋が、必死の状況を回避すべく萎縮しかける体を一連の動作に導いた。襲いくる轟の手首と肘の外側に二つの掌をそえ、己の外側へ打撃の軌道をそらせようと力を込める。それと同時に半身を回転させ石腕の威力をいなしにかかった。掌を削られつつも、その役割に応じて体を正しく機動させ、旋回する。そうしてとうとう死の一撃を免れ、轟と体を入れ替えることに成功した。全体重を乗せて繰り出した一撃を空転させられた轟は体勢を崩してすっ転んだ。闘牛士が闘牛をマントでかわしてその体を入れ替える様に似ていたが、轟と闘牛、果たしてどちらの脅威が勝るのか。とにかく九十九はそのようにして命をつなぎ止めた。
「見かけによらず器用じゃねぇか」轟は何事もなかったように立ち上がり不敵に笑った。
(……生きてる。……でもこのまま攻め続けられたら終いだな)いったん距離をとった九十九は、掌から血を滴らせ、肩で息をしながら攻略法を考える。
(石の体に人間離れの怪力……、持久戦? いや、もたない)生死の狭間に身をさらしたのは数瞬だったが、それでも消耗が激しい。しかし、身のすくむような攻撃を躱した直後でも、無事な自分に奢らず、相手の脅威に怯まず、勝利を掴むために思考を巡らす。
(そもそも攻撃が通らないんじゃ、やつがバテても意味がない。仕掛けるならまだ轟が俺をなめている今しかないんだが……どうする)
「おい!」九十九の黙考をつんざくように声が響く。ちらと声の方、可児を見遣ると、今の攻防を見て不安げな様子でいる。九十九は一瞥しただけで無視を決め込んだ。お前に心配される俺ではない。
しかし、可児を見てふと思い浮かぶイメージがあった。
(……気に入らないな。気に入らないが……)可児の好んで使う戦法が、今の状況を打開するのに最も適したものに思えた。(可能性があるなら……今はできることを全力で実行する)
九十九は固めた決意とは裏腹に体を脱力させて呼吸を整えた。敵は地面を踏みしだき捕食者の歩みで近づいてくる。轟の足が次の一歩を踏み出そうとしたその瞬間、九十九は爆発的な脚力で一気に間合いを詰めた。動作の間を突かれ轟の反応が遅れた隙に、九十九は轟の片足を踏み抜いた。そうした後、左の触腕を差し出し、赤くぬめる掌で轟の両目を覆った。
轟はとっさに触腕を掴んだ。いくら体を石にしたからと言って、目まで石にすると視界を失ってしまうため眼球は生身だった。すなわちむき身の目を優しく触れられ、赤い獣は焦ったのだ。攻撃を目的としたものではない、触るという中途半端な行動に引き起こされた焦燥を凶獣の矜持が許せるはずがなかった。自分を焦らせた相手にも、焦ってしまった自分にも怒りが燃え上がり、まずはこの差し出された腕を血祭りにあげなければ、という衝動が体中を駆け巡った。片足を固定された上に視界を遮られて動きを制限されたことも、轟を憤激に導く一因となった。
しかしそれは毒蜘蛛の罠だった。体と意識を眼前の腕に集中させた一瞬の間に、九十九の肩からパワーショベルさながらの力強さを醸す触腕が現れた。九十九の奥の手、残りの触腕を束ねて組成したのだ。もちろん力は束ねた数に比例する。野太い触腕は、すでに掌打を繰り出すべく構えられ、轟がそれに気づくか気づかないかの間に顎を目がけて振り下ろされた。轟の一撃が隕石の衝突ならばこちらは巨人の鉄槌か。九十九の掌底が斜め上から正確に轟の顎を捉える。まるで巨岩に打ち込んだような衝撃が触腕にかえってきたが、触腕三本分の怪力が岩石の硬度に押し勝った。顎を打ち抜かれた轟の頭蓋の内で、生身の脳がバウンドする。轟の視界はたわみ、重い体を傾けてゆっくりと崩折れた。
ザッ。同じく九十九も崩れるように片膝をついた。触腕の生成にはそれ相応の体力を用いるため、轟から負ったダメージ以上に九十九は疲弊していたのだ。
「やるじゃん」
可児の呼び掛けに答える余裕はない。九十九は肩でぜえぜえ息をし、本当なら大の字に寝転びたいところだが、どうにか踏みとどまっていた。
「でもお前、俺みたいなことすんのな」
今、九十九が一番聞きたくない台詞だった。
「お前、いつも俺に言ってるくせに。そんな戦い方の何が楽しいってさ」
可児は効率を重んじる男だ。九十九のように自分の武を強敵にぶつけてみたい、なんて欲求とは無縁で、可児にとっては、いかに相手の力を発揮させずに勝つかということが戦いのすべてなのだ。
今しがた九十九が見せた、他のものに意識をそらさせた上での顎への掌打、その結果の脳震盪。これは可児がよく取る戦法で、不意打ちによる戦力の無力化、というものだった。
「な? 悪くないだろ?」
「……だ、黙れ」九十九には、可児に構う余裕はない。ないが、沈黙を是であると好き勝手に解釈されることだけは許せなかった。
ザザッ。片膝を動かして、ほんの少し可児に体を向ける。「……たまたまだ」
「へえ、あっそう」可児は苦しそうに否定する九十九を愉快そうに見遣る。「トドメ、ちゃんと刺しとけよ」ザザザッ。そして橋の向こうに足を向けた。




