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花に春泥、しき緑  作者: 畑中炭比古
20/28

轟岳 幼馴染と根暗女

 探偵たちに白鹿背と神嶽組の話をした翌日、まだ雲がかかり雨がそそ降ってはいるが、心は真逆に晴れやかだ。今なら舞い降る小雨を交わしながらスキップだってできそうだ。荷物は最低限、鞄一つにまとめて黒いハイエースに投げ入れた。


 最後に、仮住まいとはいえ世話になった家を振り返る。田舎のボロ屋にしては、なかなか住み心地はよかったぜ。……しかし、まだ少し時間があるな。


 なんとなく裏の畑を見に行った。土作りからみっちり仕込まれた、無農薬の畑だ。もみ殻をたっぷりすき込んで熟成させた土はふかふかで、歩くと足が沈み込む。まだ人参や大根、白菜なんかが植っていて、元気に葉を茂らせている。


「……しまったな」つい呟いた。ここに戻るつもりなんて毛頭ない。だから俺がいなくなった後、家や畑がどうなろうと知ったことではない。心底そう思っているはずなんだが、折角育った野菜を放ったらかしにする自分を許せなくもある。


 野菜から目を逸らすと、畑の脇でたわわに実った橙の樹が黙って立っていた。その足元には落果がごろり。落ちた拍子に石にでもぶつかったのか、土手っ腹に傷がついて、その周辺がずぶずぶに腐ってしまっている。収穫しないでどこに行く? まるで責められているようだ。さっさと車を出せばよかった。……いや、待てよ。この野菜たちを親父のために持って行くというのはどうだろう。俺が丹精込めて作った体に安心の無農薬野菜を、出所したばかりの親父に食わせる。うん、いいんじゃないか?


 そんな妄想をしながら手頃な野菜を収穫して表に戻ると、見慣れた四駆車がハイエースの隣に停まっていた。


「ほんとに出て行くんか」飛世が玄関先で待ち構えていた。

「そりゃ行くさ。ずっとそう言ってきた」今日は何にも変え難い特別な日だ。本来の俺に立ち戻る、その始まりの日。

「そげえヤクザに戻りてえんか」

「うるせえ。こんな田舎に燻ってらんねえんだよ」

「こげな田舎……か」


 飛世は目を伏して黙り込む。長いまつ毛が瞳に影を落とし、いつもの辛気臭さが倍増だ。


「文句あんのかよ」

「ねえわ」白鹿背の冬みたいに静かで底冷えする声だ。「お前とヒロシに百姓仕事教えたの、馬鹿みてえ」

「誰も頼んでねえだろが」


 俺が白鹿背の古家で腐っていたところ、檜山のじじいとこいつが押しかけて来たんだ。移住したてのヒロシに山仕事を仕込むから、俺も来いって。まあ、あのままここに引きこもるより、マシな生活だったのは確かだ。


「いいじゃねえか。ついでに神嶽組のちょっかいも止めてやる」

「そう言うて、こん前もダメやったな」


 ほんとにうるさいやつだ。この前と今は全然違う。なんたって、今日は親父の出所日だ。俺がどれだけこの日を待ち侘びたことか。


「黙ってろ」


 もう麻黒のいいようにはさせない。もし親父がその気なら、あいつを追い出して神嶽組をやり直す。


「みんな勝手に来ち、勝手に出てく」


 せっかくのハレの日だっていうのに、飛世の根暗に構ってられるか。


「残ってる連中だっているだろ。用がねえんなら、もう行くぞ」


 俺がハイエースのドアに手を掛けると、飛世の周りの空気が黒く凍てついた。


「お前こそ出て行きてえなら出て行きゃいいだろが。いつまで辛気臭え面して引きこもってんだ」

「しゃあしい」

「田舎臭え方言、染み付かせて。そんなんだから、親父さんのこともズルズル引きずって身動き取れなくなるんだよ」


 しまった、言い過ぎた。そう思う間もなく、飛世は小雨を氷の粒に変えるような暗く恨みがましい目で睨んできた。


「……お前はいいよなぁ。ヤクザなんちやって、好き放題暴れてな。そこに居場所がねえなってん、優ぁしい親んおかげで食うにゃ困らん。散々周りに頼ってから、用がなくなりゃばいばいや。私もそげんぬるーく生きてみてえわ」


「……っ」このクソアマ、八つ当たりしてんじゃねえぞ。ほんとなら怒鳴り上げてやりたいところだが、こんな陰気な女に構っていてもろくなことがない。


「言いてえことはそれだけか? んじゃもう行くぞ」車のドアを開けた。

「待たんか」背中に氷柱をそえられたようにぞっとする。

「……決めた」なんのつもりか、飛世はハイエースの助手席に乗り込んだ。

「お、おい。何してんだ」助手席側の鍵まで閉めたらしく、俺は慌てて運転席側に回り込む。

「私も行く」

「は?」何考えてるんだ、この根暗ヤロウ。腕時計を見ると、もう出発しないとまずい時間だ。「ふざけんな! さっさと降りろ」

「お前こそさっさ乗らんか」悪女よろしく口端を意地悪く吊り上げて、見下すように言いやがる。

「いい加減にしろ!」

「嫌だね!」今度はヒステリックにいきなり大声を張り上げる。「見せちゃるわ! 身動きできんごとなっちょん私の、軽やかーに滑らかーに踊る様を! 知った風に私を語ったお前に見せつけちゃる!」


 まじで勘弁してくれ。なんで今日に限って、こんな面倒臭え女に絡まれなければならない?


「勝手に私を憐れむんじゃねえ!」

「ああああっ! もう! 面倒臭えなあ!」

「面倒臭えで悪いか! でもそげな面倒臭え女にオンオン泣きついたんはどこんどいつかなー? ベロンベロンに酔っ払って、『親父、親父―』ってさー。図々しく私ん膝枕で寝たんは誰かなー?」


 や、やめろ! 誰かこの女を止めてくれ!


「親父がおらんごとなって神嶽組追い出されっしもうたら、今度は実ん親父ん資産でぬくぬく過ごしよってからさー。挙句に面倒臭え根暗女のお膝ですやすや爆睡キメやがる激甘ファッキンファザコンヤローはどこんどいつですかねー? 膝痺れるわ、涎でジーンズ汚されるわ、負けず劣らず面倒臭えやつは誰なんかなー? クリーニング代払えっちゅーの!」


 ダ、ダメだ、手がつけられん。女のヒステリックほど厄介なものはない。でも……でも……。


「わかったから。な? もうわかったから。頼むから大人しく降りてくれ。ほんとに時間がねえんだ」

「やけん! お前がさっさと乗りゃーよかろうが!」


 飛世にとって、集落や家族のことがここまで地雷だったなんて認識が甘かった。俺の完敗だ。絶対避けたかったが、ひとまずこいつも一緒に連れて行こう。


「落ち着け。乗ってていいから、な? もう喚くのやめろ。俺が悪かった」


 くそったれ。未練たらしく庭なんか見てなくて、さっさと車を出してりゃよかった。




「どこに行きよんの?」


 俺の家の前でさんざん喚いていた飛世は、車を走らせているうちに幾分落ち着きを取り戻したようで、今さらそんなことを聞いてきた。


九州きゅうしゅう幽冥ゆうめいだ」

「お出迎えっちやつ? ちゅーか九州幽冥っち……」

「田舎者のお前もさすがに知ってるか。隣の県にあるマレビト専用の刑務所だ」


 罪を犯したマレビトと普通の人間を一緒の刑務所に投獄するのは、施設設備の効率的な運用に支障をきたす、とかいう理由で、マレビトは「幽冥」と呼ばれる専用の刑務所に投獄される。 


「神嶽組の元組長はマレビトやったんか」

「まあな。……あと三十分も走りゃ、到着だ」

「九州幽冥かー。なんか緊張する。でもまさか、こん目で実物を見れるとはなぁ」

「そんなに見たかったのか?」

「九州幽冥んことじゃねえで。ヤクザ映画とかでよくあるやん? 刑務所ん前に何台もハイヤー並べてさ。『お勤め、お疲れ様でした!』っちゅーやつ。やるんやろ?」


 こいつのヤクザのイメージは一昔前で止まっているらしい。今の時代、そんな仰々しいことをやるわけがない。


「んな大袈裟なことしねえよ。近所迷惑でサツからしょっ引かれるぜ」

「へえ、そうなんか」だいたい、そんなとこにお前みたいなの連れて行ったら場違いだろうが。

「あ、そもそも組を追い出されたんやったな。『お出迎え』するんはお前くれえか」

「……そうだといいけどな」


 組を離れちまったら組長もただの人だ。今でも神嶽組の中には親父を慕っているやつはいるはずだが、直接自分の利益にならない者に尽くすほど、お人好しなやつはいない。現に、組の設立前から一緒にやってきた恒川と吉田がドラッグの生産に関わっていた。麻黒の命令で出所したばかりの親父の命を狙うやつがいても不思議じゃない。麻黒のやつは昔からやたらと親父に対抗意識を燃やしていた。


 ただ迎えに行くわけじゃない、俺は親父を守るのだ。だから飛世みたいな足手まとい、ほんとに勘弁だったんだ。だが、もし麻黒の刺客に襲われても仕方ない、こいつの自己責任だ。


「迎えに行って、そん後はどげえするん?」

「多分、姐さんのとこかな」

「女んとこか」

「それか、いくつかある隠れ家にひとまず身を寄せる」

「なんか行き当たりばったりやなぁ」

「お前が言うな」

「親父さんがそう言いよるん?」

「あ?」

「手紙とか面会とかでさ、そういう話をしちょんのやろ? これからん段取り」

「……さーな」


 親父が今後のことをどう考えているかなんてわからない。刑務官の検閲があるから手紙で聞くこともできないし、面会なんてもってのほかだ。そもそも俺が出した手紙には返事もくれなかった。しかもだ、あろうことか姐さんには出所の連絡をして、この俺にはなんの知らせもくれなかったんだ。


 あんまりだろう? 俺は常に親父の一番の矛であり盾だった。親父が抗争中の組織のヒットマンに狙われたときは体を張って助けたし、その見せしめに事務所を俺一人でぶっ潰したことだってある。そうやって親父を一番に考えて行動していくうちに、「神嶽組の凶獣」なんて通り名までついた俺に、出所を知らせてくれないなんてないだろう? ガキの頃からの仲なんだぜ?


 親父が俺には出所の連絡をくれていないと知ったその日から、俺はたっぷり半月は塞ぎ込んだ。始めはわけがわからなかった。親父は俺に不満があるんじゃないのか? だから手紙の返事もくれないし、連絡もよこしてくれないのでは? そう思い至ってからは、今までの自分の言動の棚卸し作業だ。正直に言うと、思い当たる節はいくつかある。


 例えば、親父の香水を試しにほんのちょっとだけ手首につけてみたことがある。別に親父の匂いに包まれたかったとか、そんな不純な理由では断じてない。ただ、親父の強さやかっこよさに少しでも近づけるかもしれないと思っただけで、あくまで男としての憧れみたいなものが動機だった。それに、あれは誰にも見られていないはずだし、ほんとは首につけたかったところをやっぱり遠慮して手首にしたんだから、大丈夫。ギリギリセーフ。


 それとも、親父が姐さんと付き合い始めのデートで予約していたディナーの口コミに、大量の低評価レビューをつけたのがバレていたのかもしれない。わざわざ説明するまでもないが、これも姐さんに対する嫉妬なんかじゃ決してない。親父がどうも浮かれすぎている様子で隙だらけだったから、戒めの意味を込めて泣く泣くやったことで、忠臣の諫言というやつだ。でも、あのアカウントから俺に辿り着くことはできないはずだし、このことで親父が俺に愛想を尽かすなんて考えられない。


「さーなっち、いい加減やな」

「俺と親父の仲でも、わからねえことはある」


 そう、わからなかった。俺に原因があるとまでは言い切れない気がした。俺のせいじゃないとしたら、親父に何か変化があったと考えるのが妥当だろう。今度は親父の気持ちを再現してみることにした。


 不破組に裏切られ、自分の組を乗っ取られた挙げ句、刑務所に入っているうちに仇である不破組は壊滅してしまった。ざまあみろと愉快に感じるだろうか? それとも自分の手で仕返しができずに悔しがる?


 どっちも違う気がした。いつも飄々としていて捉えどころのない親父。だいたい不破組なんかと盃を交わしたのが間違いだったんだ。そうじゃなかったら、今でも気ままに悪さをして楽しく暮らしていられたはず。親父はなぜ不破組に近づいた? わからない。親父のことを考えれば考えるほど、わからないことが増えていった。


「……お前、もしかして押しかけよるんじゃねえやろーな?」

「……」


 親父のことを考えすぎて疲れた俺は、もう手っ取り早く会いに行くことにしたんだ。それまではもう、余計なことは考えない。そう決めて今に至る。


 幹線道路を右折し枝道へ入っていくと、国際大会が開かれるような体育館や、立派な遊具やアスレチックが設置されたでかい公園が整備されたレジャーエリアがある。それらの施設を横目にさらに奥へ車を進めて行くと、その建物は現れた。曇天の下で灰色の塀を天高く伸ばす九州幽冥は、ここがマレビト囚人の墓場だと主張するかのように厳めしい堅牢さを醸している。周辺の環境といかにもアンバランスなんだが、九州監獄を誘致することで国から得た金を使って、行政がここいらを一体的に整備したらしい。マレビト関連の国の施策は、地方にとってかなりおいしい財源になっているようだ。


 九州幽冥の駐車場に車を停めて、受付ゲートに向かう。飛世は初めての幽冥が物珍しいようで、周りには植え込まれた木くらいしかないのに、きょろきょろ見回しながら歩いている。


「幽冥、おじぃなー。マレビト専用やけんさ、やっぱ特別な仕掛けとかあるんかな?」


 おじぃなんて怖がりつつも、その声色はお化け屋敷を楽しむように高揚している。だが、俺には飛世に構っている余裕はない。もうすぐ親父に会えるんだ。


「なあ、あそこにおる黒えジャケット羽織っちょん人。なんか雰囲気持っちょんな。もしかしてあれ、神嶽さんやない?」


 騒ぐな。幽冥側には(一方的にだが)俺が迎えに行くことを伝えているから、親父はロビーで待ってるはずだ。勝手に外に出るわけはない。あっ、しまった。車に野菜を忘れた。


「なあっちゃ。なんか私らんことじっと見よるで」

「んだよ、うるせえな」


 飛世の視線の先を追うと、黒服の男と目があった。


 一見ひょろりと長身だが、限界まで引っ張られた弓の弦みたいにヒリヒリした緊張感と、柳が風に揺れるしなやかさを併せ持った孤高の立ち姿。後ろに撫でつけたツヤツヤな黒髪に知恵と危険な光が同居する切長の目、左の顎から頬にかけて刻まれた斬傷。その人には不思議と男を惹きつける悪の気品みたいなものが備わっている。


「…………」


 お、親父、親父ー! お久しぶりです元気でしたか少し痩せたようですが荷物持ちます寒くないですか腹は減ってないですか昼飯何食いたいですかどっか寄りたいとこあったら言ってください何でも言ってください俺に言ってくださいあなたの凶獣ですやっと会えたこれからどうしますか俺とどうしますか何をしたいですか――。


「おい、なん固まっちょる」


 はっ、いかん。親父の顔を認めた瞬間、つい色んな思いが溢れてフリーズしてしまった。


「やっぱり、あん人が神嶽さん?」


 呆れ顔でこっちへゆっくり向かってくる、そう、見紛うことなき俺の親父だ。


「よう、ほんとに迎えに来るとはな」


 風味豊かなウィスキーを思わせる、スモーキーだけど甘い声。俺の鼓膜は久しぶりに親父の肉声を注がれて、すでに酩酊気味だ。


「お、お久しぶりです」


 危なかった。耳から溺れて、また意識を遠くへ飛ばすところだった。でも一度思考を暴走させたおかげで、どうにかまともに話すことができる。


「おお。みちるが驚いてたぜ。お前に詰め寄られたって」

「姐さんが? すみません、そろそろ親父が出所する時期だと思って、つい」


 親父の刑期が終わるのを指折り数えていたんだ。でも、出所が近いはずなのに連絡が来ない。姐さんなら何か知っているんじゃないかと訪ねていった。


「いいんだけどよ。隣の嬢ちゃんは?」

「あぁ、こいつはその、集落の人間で。……ついてくるってうるさくて」

「集落?」親父は全く合点がいっていない顔で片眉をあげた。

「昨日まで白鹿背っていう田舎に身を寄せていて」

「白鹿背? ……そうか、お前にも迷惑かけたな」


 目頭が熱くなる。迷惑だなんてとんでもねえ。親父が一番きつかったはずだ。


「嬢ちゃん、名前は?」

「飛世紫蘭っちいいます」飛世は急に大人しくなって、しおらしく答える。

「神嶽悠久だ。こいつが世話んなったな。ありがとう」


 親父、こんな女にはもったいない言葉です。何のつもりか無理矢理ついてきた挙句、俺より先に親父を見つけたやがって! 図々しいにもほどがある! でもせっかく親父と再会できたんだ。こんなことで腹を立てるのも馬鹿らしい。


「親父、ひとまず車にどうぞ」


 車の後部ドアを開けて促した。ドライブドライブ。


「ん? なんだこれ?」


 親父は車内を見るなり、またくいっと片眉をあげた。


 しまった! 親父の座る座席に野菜のビニール袋を置いたままだった。


「すみません! その、俺が作った野菜でして」

「んー?」


 親父はビニール袋の口を広げて中を覗く。


「へえ! すげえじゃねーか。これ、ほんとにお前が?」

「無農薬だから、ナリは多少悪いかもしれませんが、いい物です」

「はは、無農薬だとか有機栽培だとか、俺にゃよくわかんねえけど大したもんだよ」


 そう言い、親父はビニール袋をどけてどかっとシートに腰を下ろした。朝は畑を恨めしく思ったが、やっぱり持ってきておいてよかった。


 車に乗り込みエンジンをかける。エンジン音が心なしか昂って聞こえる。


「昼飯、なに食いたいですか。外の飯、久しぶりでしょう?」

「んー、とりあえず車出してくれよ」


 シフトレバーをドライブに入れ、アクセルをゆっくり踏んでいく。ひとまず闇無方面に向かおう。親父の言う通り、昼にはまだ時間がある。


「紫蘭も野菜、作ってんの?」

「え? ああ、作りよんよ。根菜に葉物、春に向けてそら豆とかも植っちょんな」

「え? ああ」じゃねえ。ぼけっとしてねえでしっかり受け答えしろ!

「白鹿背かぁ。あっちの方、行ったことねえな」

「……なんもねえで」

「なんも?」

「うん、なんも。私も今日、飛び出てきたんや」

「飛び出てきたー? 紫蘭、こいつとできてんの?」


 勢い、アクセルを踏み込んでしまう。


「ははっ、こげなやつに惚れる女、おらんやろ」


 ミチミチとハンドルの悲鳴。


「そーだよなー」


 親父ー! そんなことないでしょう! 見てくださいあなたの凶獣は組を追い出されて居場所も誇りも失ってしまってもなお辛抱強く耐え忍び今日こうしていの一番に馳せ参じあなたのための忠臣たらんと馳せ参じあなたと二人で再び面白おかしい毎日を過ごさんと馳せ参じ――。


「決めた。白鹿背行こう」

「え?」「え?」


 雨は上がり、雲の切れ目からは太陽の光がプリズムみたいに差し込んでいる。さっきまでは俺の気持ちもこんな感じだったんだが、今はまた一面灰色だ。親父は一体なにを考えている?


「あんさ、勢いっち言やー勢いなんやけど、それでも一応、私なりん覚悟を決めて白鹿背を出てきたんよ」


 飛世は戸惑いつつも遠回しに不満を口にする。だが、親父は車窓から外の景色を見ながら適当に相槌を打つだけだ。


「もっとさ、なんかあるんやない? せっかく出所したんやろ?」

「せっかく出所したから、行ってみてえんじゃねえか」

「親父、姐さんはいいんですか?」

「あいつは大丈夫だ。ムショ暮らしでも手紙でやり取りしてたしよ」


 だったらなんで俺には返事をくれなかったんですか? という女々しい質問をどうにか飲み込んだ。


「片付けとかなきゃならねえこともある」

「白鹿背で?」

「白鹿背じゃなくてもよかったんだがよ。まあ、成り行きだ」

「神嶽さん、行き当りばったりやなあ」


 飛世のやつは諦めたのか、握り合わせていた手を解いてため息を吐いた。


「いいじゃねえか。それとな、可愛い女の子はみんな俺のことをハルって呼ぶんだ」

「はは、なんそれ。それじゃハルさんな」

「親父」


 いくらなんでも気安すぎやしないか。親父は昔から女にはめっぽう優しいが、出所に無理矢理ついてくるようなやつは放っておけばいい。……いや、そうか。幽冥じゃ満足に女と会話もできなかったから、きっと久しぶりのシャバを親父なりに満喫しているんだ。そうに違いない。


「岳。お前も親父って呼ぶの、もうやめろ」


 ……え?


「もう俺、組長じゃねえし」

「そ、そんな」

「でもハルさん。こいつ白鹿背におる間も、ずーっと親父親父っちさ」

「んー、そうね。昔みてえにハル坊なんてどうよ」

「そ、そんな」

「なんだよ?」

「お、俺にとって、親父は親父です。親父が望むなら、また組だってやり直せる」

「望まねえよ。盃交わして家族ごっこなんざ、もう懲りごりだ。お前も組ぃ抜けて白鹿背で野菜育ててたんだろ? いいじゃねえか、そういうのも」

「そ、そんな」

「そんなそんなってよぉ。お前、俺のことありがたがりすぎなんだよ」


 ありがたがりすぎ、要は鬱陶しいということですか? でも、なぜ? 封印していた感情が、水底に沈んでいた汚泥のように舞い上がる。


「ハルさん、あんま意地悪言ったらこいつ拗ねるで」


 飛世が気を遣うようにこっちをチラッと見やがった。


「うるせえ」


 お前に心配される筋合いはねえ。


「ほらぁ」


 飛世が言外に親父を避難する。


「まぁ、好きに呼べばいいさ。大した意味はねえよ」


 バックミラーには呆れ顔の親父が映っていた。心がささくれだってくる。なんでアンタは俺の車にそんな顔して乗っているんだ。嫌なら乗らなければよかったじゃないか。散々待たせて、振り回しておいて、俺をありがたがるなっていうのはひどい言い草だ。ちょっとそれモラハラなんじゃないですか?


「……」「……」


 飛世と親父は居心地悪そうに押し黙った。俺ですか? 俺がこの空気の発生源ですか? でも俺がこうなったのは俺のせいじゃありませんけど? それでも俺が悪いんですか? 違いますよね?


 俺はむっつり黙って車を走らせ続けた。県境を超えて、やがて周りは緩やかな山々に囲まれた見慣れた田園風景に変わる。その昔、白鹿背は山国谷と呼ばれていたほど山と谷が多く入り組んでいる地で、川に沿ってできた谷筋ごとに集落が点在している。今走っている車道も、御木川(みけがわ)という一級河川と並ぶように作られていて、川が交通の要所だった昔の姿を、そのまま現代にアップロードしたような場所だ。


「……岳よ。そのぉ、コンビニ寄ってくれねえか?」

「ここらにコンビニなんてありません。煙草なら野菜と一緒に入ってますよ」

「あ、ああ。すまねえな」


 隣で飛世がほんの少し窓を開けた。


「寒いんだよ、閉めろ」

「いや、いい。どっか適当なとこに寄せてくれ。外で吸うわ」


 初対面の飛世には気を遣って、俺にはありがたがるなですか。はは、どうぞご勝手に。


 ちょうど(きゅう)福寺(ふくじ)という寺が御木川の対岸に見えた。空に突き出た岩峰の山裾にくり抜いたような窟が空いていて、その岩窟にすっぽり収まるように観音堂が設けられている。岩峰が観音菩薩の立ち姿に見えるという理由で、地元では捕陀落岩(ほだらくいわ)と呼ばれていて、俺のひそかなお気に入りスポットだ。橋を渡り、その駐車場に車を停めた。


 親父は一人外に立ち、こちらに背中を向けて紫煙を燻らせている。表情は見えないが、その立ち姿は雄弁に物語っている、面倒臭えと。ふははは、ざまあみろ。愛しさ余って憎さ百倍だ。


「お前なぁ、よだきい女じゃねえんやけん、そげな態度しなさんなよ」飛世は隣で呆れ顔だ。よだきい女だと? お前と一緒にするんじゃない。

「せっかく出所したっちゅうに、お前がそげなんやったらハルさんがむげねえやん」


 今日初めて会った親父の肩を早速持ちやがって。まぁ親父は色男だし、田舎娘が落ちるのなんか秒だよな。


「ハルさん、もう疲れたんやねんかな」

「あ?」


 もう一端の女面で、親父のことを理解したつもりか。


「だって盃交わしたはずん不破組にはめられて監獄に入ったんやろ? 自分の親父に裏切られたっちゅうのは、結構きちいことと思うで」

「……」

「しかも組まで乗っ取られてさ。懲りごりだっち言いよったやん。もう疲れっしもうたんよ」


 親父にとっての親父。一体どんな存在だったんだろうか。正直、俺は不破組に思い入れなんてない。親父が傘下に入ると決めたから、ただそれだけの付き合いだ。


「でもさ、お前にはハル坊っち呼べって言いよったやん」


 それがどうした。そうやって親父は俺を突き放したんだ。


「それっち、繋がっちょんちことやん。ヤクザなんかやってられんけど、お前とはしっかり繋がっちょんよっち、ハルさんなりの言い回しやったんやねえかな」


 飛世の言葉が福音みたいに心に響く。……そうか? そうなのか? 親父は、ヤクザの絆なんかにすがらなくても俺と繋がっているということを示してくれていたと言うのか。親父の背中を見つめる。「わかったか馬鹿野郎」そう言っているような気がした。そうだ、そうだった。俺は岳で、親父はハル坊。よくソックリマンチョコを駄菓子屋でパクっては、二人でおまけシールのレア度を競っていた。親父……いや、ハル坊。煙草を吸い終わって戻ってきたら、呼んでみよう。照れたらダメだ、あくまで自然に。




 そう決めた瞬間、俺の視界の真ん中で、幼馴染の頭が突然血を噴いた。

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