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花に春泥、しき緑  作者: 畑中炭比古
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名伏密 憂鬱

 夏の殺人的な日差しがなりをひそめ、涼やかな秋の気配の訪れとともに制服は半袖から合服に変わった。高校に進学して半年が経つ。俺は夏服が感じさせるはつらつとした雰囲気が苦手だ。その一方で秋容たる合服は、これから寒い冬に向かっていくことを知らせる、なんとも言えない哀愁みたいなものをまとっていて、俺の心をくすぐる。じめじめと重かった夏の空気も軽くなり、いい季節になったものだと嬉しく思っていたら、クラスメイトにからまれた。下校中に校庭で。


 拳。鳩尾に重い一撃をくらって、地べたに這いつくばった。昼に食べたメロンパンや苺オレが胃から迫り上がり、我慢できずに地面にぶちまける。呼吸がままならずうずくまっていたら、脇腹を蹴られた。


「お前、依子に手ぇ出そうとしたんだってな」暴力を振るう張本人、瀬川(せがわ)速人(はやと)が言った。


 ふざけるな。そう言おうとしたが、苦しくて言葉が出ない。


「あいつ、キモかったって俺に泣きついてきた。お前にじっと見つめられた挙句、襲われかけたってよ」


 泣きつくなんてそんなわけはない。なにせ昨日の放課後、その飯沼(いいぬま)依子(よりこ)が俺を誘惑したのだから。キモい相手をわざわざ誘惑するようなややこしい性癖を持っているのであれば、話は違ってくるけれど。


「お前、目が合ったやつを欲情させられるんだろ。(しき)(がん)だっけ? ふざけた目しやがって」


 頭を踏まれた。頬が擦り切れ、口の中ではゲロと血と砂が混じる。


「なんか言えや」言葉と一緒に、肩口を踏み蹴られる。情けないくらいに一方的だ。周りは野次馬の生徒だらけだというのに、誰ひとりとして瀬川を止めようとしてくれない。


 瀬川は「加速(ブースト)」という異能を持ったマレビトであり、異能の強力な性能と喧嘩っ早い性格で、この学校内でかなり目立つ存在だ。


 野次馬たちは、そんな瀬川の女に手を出したであろう俺がぼこぼこにされている様を、面白可笑しく眺めているんだ。俺だって誘惑に負け破廉恥な行為に及んだのであれば、こんなふうに公衆の面前でどつかれるのもやむ無しだ。右の頬をぶたれれば、進んで左の頬を差し出す所存である。でも何もしていないばかりか、俺は色仕掛けにあい不要な魂の戦いを強いられた被害者だった。


 飯沼のことは嫌いだ。人から注目されるのが気持ちよくて仕方ないというようなやつで、実際クラスの女子の中心人物だ。しかも周りの耳目を集めるのは自分だけじゃないと許せないタイプ。以前同じ鞄を持っていた女子に、「その鞄、可愛いよねー。でもあんたにはもう少し控え目なデザインの方が似合ってるわ」と笑顔で凄んでいた。俺はその「私が私が」精神が意地汚く思えて、軽蔑すらしているんだけど、困ったことに綺麗なんだ。俺は面白半分に飯沼に言い寄られて、あろうことか少し興奮した。「この顔だけ中身ブス女」と心で呪いを吐き続け、どうにか思春期の暴走しがちな欲望を押さえつけ、身の潔癖を保ったんだ。だから制裁を受けるべきは飯沼であって、断じて俺ではない。


 でも瀬川はそんなこと知る由もなく、少し顔がいいからって調子に乗んなよと、今度は背中を踏みつけてくる。そう、俺は喧嘩相手が認めるほどに容姿端麗であった。厚顔無恥すぎる自己肯定に、肯定した自分ですら引いてしまいそうなんだけど、事実なので仕方ない。百八十センチを越える長身に引き締まった体、シャープな鼻筋を挟むぱっちり二重の大きな目、緩くくせのあるミディアムヘアが風になびけば、ほりの深い顔の造形と相まってミステリアスな華やかさを醸し出す、らしい。俺が形容したわけではないので悪しからず。


 俺の異能を知る以前の女子の反応は大方2パターンに分けられる。好意を寄せるか、「イケメンとか興味ないの」とアンチのふりをして秘かに好意を寄せるかだ。


 でもこの目がばれると一変、ややこしくなる。裏切られたと勝手に傷つくやつ、変質者扱いするやつ、無視するやつ、つらいよねと訳知り顔で同情を寄越してくるやつ、中には飯沼のように面白半分に迫ってくるやつまでいる。そして彼女たちのそうした反応は、しばしば俺を恐怖に陥れ、またうんざりさせた。


 俺は異能が覚醒した日以来、この目を封印している。それは家族との約束だし、俺自身異能を使うべきではないと思っているからだ。


 何度も言うけど、俺は自分がエロガキだということを理解している。だからこそ、間柄や心情なんて度外視して頭をふやけさせ、あの祖母さえ欲情させてしまうこの力は絶対使ってはいけないんだ。


 そう強く自制する一方で、好みの純真可憐な艶髪乙女などと目が合った時には、使ってしまえ! と瞬間的に心が真逆に振れることもある。そのたび、俺は人知れず己の股間をギュッと握りしめて自戒としていた。余談だけど股間の握り方にはコツがある。竿だけ握ってもさほど苦痛はない。かと言って浮き玉のみ強く握ると男としての機能を失いかねないし、何より自戒以上の痛みが襲ってくる。竿と浮き玉をよい塩梅に掌に丸め込み、自分の痛みの許容範囲と反省の度合いを見極めながらじわじわ握るのが一番いい。


 阿呆らしいかもしれないが、これは清廉な魂のための戦いなんだ。発作的に襲ってくる性欲に、過程はどうあれことごとく打ち勝ってきた。誇りとエロスと羞恥の狭間で長年の間鍛えられた精神は、女子のころころと変わる態度をもって、俺に彼女たちへの恐怖心を超越させ、ときには憐憫の情さえ抱かせる。


 でも、俺がいかに魂の戦いでは連戦連勝と言っても、目の前の暴力はどうしよう。体力に不安があるわけではないけれど相手が悪い。こちらの攻撃は瀬川の異能の前ではまず当たらないだろうし、反撃は火に油を注ぎ、痛手を増やすだけだ。


 真実を訴えてはどうだろうか。いや、この状況では自分の彼女を寝取ろうとした挙句に阿婆擦れ扱いした男という、さらなる誤解を与えるだけな気がする。


 くそ、なんで俺ばかりがこんな目に合わないといけない。


 お前はいいよな、と無責任に羨ましがられることは鬱陶しいがまだましだった。ヤリチン、如意棒、性剣エクスカリバー。公の場では呼ぶことすら憚られるあだ名をいくつもつけられた。欲情させるという異能のせいで勝手にもてはやされ、かと思えば蔑まれ、挙句に今日のように野次馬に囲まれどつかれることも日常茶飯事だ。身体的な苦痛にはとうに慣れたけど、紳士たらんと自らを律している俺にとって、そんな扱いをされるという事実は受け入れがたく、心は疲弊していく一方だ。


 でも学校というコミュニティの中では容姿と異能が相まって、俺はどこまでいっても異質な存在であり、周りは放っておいてくれなかった。静かで平穏な学園生活を送るなんて、夢のまた夢だったんだ。


 また袋小路だ。こうなるとできることは一つだけだった。横隔膜の引きつりが収まり、どうにか呼吸も整った。俺はゆっくり立ち上がるとにやりと笑う。こんな暴力どうということはない、なに、いつものことさ、という様子で制服の汚れを手で払う。涼しい顔をして殴られる、それが俺のプライドを保つ精一杯の反撃だ。


 殴られる決意を固めかけた時、呑気な声が瀬川の動きを止めた。


「こら瀬川ー。お前なにしてんだぁ?」大柄なモヒカン頭の男子生徒が割って入ってきた。ほつれた学ランの裾からでろんと灰色のスウェットをのぞかせ、汚れて煎餅みたいにぺっちゃんこになったスニーカーをつま先に引っ掛けて立っている。クラスメイトのクジラ――(いさ)(やま)(しな)()だ。


「でしゃばんじゃねえ、馬面!」


 凶悪な面を怒りに染め上げて、瀬川はクジラを睨みつけた。そこらの生徒だとそのひと睨みで戦意喪失してもおかしくないのだけど、クジラの面長の顔には緊張感ひとつない。


「お前、強えんだからよー。やたらめったら絡むなよなぁ」

「てめえにゃ関係ねえだろが!」


 そう、クジラには関係ないし、助けてもらう筋合いもない。袋小路から助け出そうとしてくれている友人になにを言っているんだと思うかもしれないが、そもそも友人ではない。


 友人ではないにしろ、恩人だろうという指摘があるのは承知している。が、俺はこの小学校からの同級生が苦手なのだ。


クジラは小学生の頃から体が大きく力も強かったけど、しゃべり方はのっぺりしていて行動も緩慢だった。性格もどこか抜けていて、周りに合わせることを知らず、良くも悪くもマイペース。なにより、一週間地上におりず木の上で過ごしたり、他人の墓に活けられた花に水をやったりと奇行が目立った。クラスメイトの親たちは、自分の子に鯨山君と一緒に遊んではいけませんと言い聞かせることが常だった。


 でかくて鈍臭い鯨山のことを、みんなと一緒になってクジラと呼んでいた。ただそれだけの関係だというのに、俺は小学生の頃からこのモヒカン頭に一方的につきまとわれていた。グランドで転んで足を擦りむいたら、「すり潰して傷に塗ったらいいぞぉ」とどこからともなく怪しげな草を持って現れたり、腹を下して学校のトイレにこもっていると、「これ、食え。腹にいいからよぉ」とトイレの上からこれまた奇っ怪な草を投げ入れてきたりした。


 正直、怖いのだ。新しいスタイルの嫌がらせだろうか。


「そこどけ」瀬川が凄むけど、クジラは眉一つ動かさない。

「……むかつく野郎だ。んじゃてめえからぶっ殺してやる!」


 激しい土埃とともに瀬川の姿が消えた。いや、消えたように見えるほどの超スピードでクジラの真横に移動した。


「らぁ!」

 でかい図体に瀬川の拳がめり込む。横腹に決まった、あれは苦しい。だけどクジラは怯むことなく瀬川に向かって手を伸ばす。


「ノロマが」

 言うが否や、またもや瀬川の姿が消え、現れた次の瞬間にはクジラの顔面に鮮やかなハイキックを見舞っていた。大の大人でも卒倒してしまいそうな蹴りだ。


 蹴った本人も手応えを感じたようで、その猛った視線を俺に戻した。さあ俺よ、決意しろ。公衆の面前でサンドバックになる決意を。


「ほんと喧嘩っ早えなー、お前は」


 だけど、ケロッとした顔でクジラは立っていた。片方の鼻の穴を親指で抑え、もう片方の穴から鼻息でブシっと鼻血を吹き放つ。


「うん、すっきり」

 顔についた血を手の甲で乱暴に拭うや、その馬面を不気味に歪めた。


「てめえ!」

 瀬川はすぐさまクジラに向き直る。ここで動揺しないのが瀬川の凄さだ。俺なら血に染まったクジラの破壊的な笑顔だけで心が萎れてしまいそうだ。


 今度は瀬川が動くより早く、クジラが瀬川の腕をがっしりと捕まえた。


「決めたぞぉ。怒りっぽいお前にはこれだ」

 学ランから覗くクジラの手が、茶色く節くれ立っていく。


「くそ、放せ!」

 瀬川は腕を引っこ抜こうとするけど、クジラの握力が凄まじいのだろうか、びくともしない。

「リンデン、知ってるか?」

 木肌をまとったクジラの手から、幾筋もの枝が触手のように鎌首をもたげる。

「こいつの花はよぉ、イライラした気持ちを鎮めてくれるんだ。乾燥させて紅茶みてぇにして飲むんだけどよぉ、なかなかいけるんだぜぇ。むおっ」

 

 一瞬、瀬川の体が今いた反対方向へ移動した。「加速」の異能を使って振りほどこうとしたのだろう。それにつられてクジラの体も一八〇度回転する。でもその手にはしっかり瀬川の腕が握られていて、その遠心力のせいで瀬川はバランスを崩し、足を投げ出すようにずっこけた。


「無茶すんなよぉ。肩外れちまうぞ」

 そう言う間に、クジラの手から伸びた枝が瀬川の腕に絡みついていく。


「調子に乗んじゃねえ!」

 逃れられないと悟ったのか、瀬川は素早く起き上がるや、クジラに蹴りかかった。


 だけど猫とじゃれ合うような気安さで、クジラは蹴りを浴びつつ瀬川の体を絡め取っていく。「お前、異能はすげえけどよぉ。体がついてってねえんだわ」腕に伸びた枝は肩から胴を覆い、ついには脚を捉えてしまった。


「異能の速さをよぉ。そのまま打撃に乗せれねえんだろぉ? 殴ったそばから拳が砕けっちまうからなぁ」

 蹴りすら放てなくなり蓑虫のように成り果てた瀬川に、クジラはニカっと笑みを投げた。「緑男(グリーンマン)」、体内で無数の植物を育てるクジラの異能の名だ。


不本意ながらクジラの奇怪な剛勇を目の当たりにし、サンドバックになろうと決意を固めかけていたことも忘れ、呆気にとられてしまった。何度攻撃されてもまるで効いていないようなタフネス、瀬川の異能の弱点を的確に見抜く冷静さ。助けてもらっておいて失礼極まりないのだけど、「あのクジラが」という思いが強い。


「よう。大丈夫かぁ?」

 クジラに声をかけられて我に返った。口の中はまだ砂利や血で気持ち悪かったけど、すでに口内の傷は塞がりかけている。


「ありがとう。……その、助かった」

「いいってことよぉ。それよりお前、もう帰れ。騒ぎを聞きつけてよぉ、三富みとみ先生あたりがすっ飛んでくるぞぉ」

「いや、でも……」

「いいってぇ。俺が適当に話しとくからよぉ」

 簀巻きにされて喚く瀬川を余所に、クジラがしっしと手を払った。

「す、すまん」

 俺はクジラに頭を下げ、野次馬の波を割ってグラウンドから離れた。鼻血で汚れた馬面は、不思議と悪くなかった。




 下校の途中、鳩尾の裏側が焼けただれるように痛んだ。痛みの引力で体が内側にへし曲がるようだ。瀬川に殴られたものでは決してない。だが大丈夫だ、この痛みは知っている。


 最近頻発する鳩尾の痛みは、俺に向けられる悪意に比例して強くなる。今回もきっとそれだろう。でも本当に厄介なのは強くわかりやすい悪意ではなく、気付いたら服にひっついている蜘蛛の糸のような、悪意ならざる悪意だ。廊下でひそひそ話している女子二人と目が合った、彼女達は俺の陰口を言い合って楽しんでいるのではないか。SNSであいつが一言「うざい」と呟いた、今日の俺の行動のいったい何が気に食わなかったのか。こうした判然としない悪意はボディブローのようにじわじわ俺を弱らせる。


 でも大丈夫、痛みの原因はちゃんとわかっている。俺は冷静に自分を把握できているんだから、耐えられないはずはない。


 足を引きずるようにして帰ったその夜、ベッドに寝転びスマホを眺めていたら、SNS上に自分の写真を見つけた。


「マレビト名伏密

 異能は目が合った人を自分に欲情させることw

 まじ生粋の変態、レイプ魔、人類の汚点ww

 私もこの前ヤラれかけた、最悪すぎる

 みんな見かけたら警察に通報しましょう!

 拡散希望」


 飯沼の投稿には、俺の顔写真とともにそんな言葉が並んでいた。和らいでいた鳩尾の痛みが強まっていく。タブレットの画面をぼうっと見ながら、このまま重力が自分の体を押し潰してくれないだろうかと思った。


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