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花に春泥、しき緑  作者: 畑中炭比古
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名伏密 牛舎の朝

「ミルカー着くんの、コツ掴みゃなんちねぇけん」


 しとしと冷たい雨の降る早朝、俺は牛舎のライトの下で牛のふにゃんとした乳頭と格闘していた。


「こうミルカーん穴に乳頭を垂直にしちからな、ほら、こうや」


 睦男さんから手解きを受けながら、どうにか乳頭にミルカーと呼ばれる搾乳機を取り付けた。ミルカーはバケツみたいな搾乳缶から伸びた管が四つ股に別れていて、その別れた管にそれぞれ牛の乳頭に装着する筒状の搾乳カップがついている。取り付けた先から乳を絞っていき、搾乳管に生乳が溜まっていく。


 一、二分するとミルカーが勝手に外れた。搾乳が十分できると自動で外れる仕組みになっているらしい。外れた後は、消毒液に浸したタオルで丁寧に乳頭を拭いてやる。


「そうや。密君は手つきが優しいけん、モーさんも静かなもんやな」


 俺たちは今、酪農家である睦男さんの牛舎で仕事の手伝いをしている。昨晩から続く雨のせいで今日のオオヘノコ狩りは中止だ。集会所にこもるのは退屈だろうと、睦男さんが農業体験を提案してくれたのだ。


 雨のせいでどこまでが夜でどこからが朝なのかわからない薄暗がりの中、餌やりから始まり牛舎の掃除、牛床にしいたオガクズの入れ替え、そしてやっと今搾乳という酪農家らしい作業に行き着いた。すでに腕や腰がずっしり重い。


 睦男さんの牛舎は布団を敷いて眠ってしまえるくらい綺麗だ。赤い屋根と白い壁面が可愛らしいこの牛舎に入る前、俺は干し草と獣の不快な臭いにむわっと包まれるのだろうと思っていた。でもいざ入ってみると、獣臭さはあるけどそれは不快なものじゃなくて、動物とともに生活をしているという牧歌的でいて健全な臭いだった。セーブしていた鼻呼吸をそっと再開しながら、これだけ綺麗に保つのは大変だろうと感心していたけど、すぐにその苦労を体感することになった。


 睦男さんは、牛を牛舎の中に繋いでずっと同じ場所で管理をする「繋ぎ飼い」というやり方で乳牛を飼育している酪農家だ。酪農と聞くと広い牧草地で牛が自由に寝そべったり草を食んだりするイメージが強いけど、実際は睦男さんのように繋ぎ飼いが多いらしい。


「広え土地がありゃ放牧してぇんやけどな。やっぱ、ずっと繋がれちょんよりもモーさんのストレスはねぇやろうし。でも白鹿背じゃなかなか叶わんのや」中山間地で谷も多いという地形で、放牧するだけの面積を確保することは困難みたいだ。


 放牧すれば、牧草地の草を食べるわけだから飼料代が軽減されるし、糞尿は牧草の肥やしとなり掃除の手間も少ない。でも繋ぎ飼いとなるとそうはいかず、特に掃除の負担は甚大だ。グラウンド整備で使うトンボのような道具で、まずは牛の糞尿の混ざったオガクズを牛床という牛の寝床から掻き出す。コンクリート敷きの床にこびりついているものも、このとき強く擦ってしっかり落とす。糞尿で湿ったオガクズは重くて、腕の力をじわじわ奪っていく。なんと牛一頭あたり、一日で六十キロ以上の糞をするという。四十頭いるから四十人分の重さの糞を掻き出して、その次はでかいブラシで牛床を綺麗に磨き上げる。糞掻きで重くなった腕にブラシの反復運動は拷問だった。睦男さんの逞しい腕は、毎日絶やすことのない牛舎掃除で練り上げられたものなんだろう。牛床が綺麗になったら新しいオガクズを入れる。


「床替えっち言ってな、一日一回オガクズを替えちゃるんや。そんままほたっちょんと悪い菌が繁殖するけんな、大事な作業や。それにモーさんも綺麗な寝床ん方がストレス溜まらん。モーさんがご機嫌なら美味え乳が搾れるのよ」


 念のため説明をつけ足すと、「モーさん」とは牛のことだ。睦男さんは愛情を込めて牛を「モーさん」と呼ぶ。俺は睦男さんの「モーさん」呼びを聞いてすぐ、のっぴきならない好感を持った。牛のことをモーさんと呼ぶ人はいい人に決まっている。強面のゴリラ顔も不思議と森の賢者に見えるものだ。とにかくこうして早朝から重労働で体を使い倒し、いま乳搾りをしている。


「私も手伝う」


 紫蘭さんが搾乳に必要な道具をまとめて入れているカートからミルカーを取り出した。こんな日にもガイド役として同行してくれたんだ。紫蘭さんはいつもの登山服じゃなくて、紺色のマウンテンパーカーに黒のスキニージーンズを履いていた。凛とした佇まいは変わらないけど、髪も下ろしていてなんだかいつもより雰囲気は柔らかい。山の案内以外でも付き合ってくれるということは、別に嫌われているわけじゃないのかもしれない。


「紫蘭、そん子は取り付くる順番が――」

「大丈夫っちゃ、わかっちょんけん」


 そう言うと慣れた手つきで左の後ろ足付近の乳頭から順に、時計回りにミルカーを取り付けていった。睦男さんは「ほぉ」と関心して紫蘭さんの搾乳作業を見守っている。


「順番ってなんですか?」百雲さんは二人の会話に好奇心を刺激されたようだ。

「ん? あぁ、さっき搾乳した子はちっと神経質なやつでな。ミルカー付くるんに、毎回同じ順番じゃねーと搾れる量が減っちまうのよ」

「取り付ける順番でミルクの量に違いが出るんですか! 驚きますね。紫蘭さんはその順番をわかっていたってことですか?」

「まぁ、そういうこと」

「へぇ。何か他の牛と違いがあるんですか? 傍で見ていても全然わからなかった」

「うーん。……わかる、としか言いようがねぇな。牛ん緊張がこっちに伝わっち来るんよ。そんでその度合の強さでミルカーん順番も決まっち来るっち感じやな」

「すごいなぁ。自然の中に身を置いてると、そういう感覚も鋭くなって行くんですかね?」

「どうやろな。さ、立ち話は後にして、ちゃっちゃと搾乳終わらせよう」


 紫蘭さんはカートを押して次の牛に移った。この三日間で気付いたんだけど、紫蘭さんは説明し辛いことや不確かなことについて言及するのを避ける癖があるようだ。言葉に出すのが面倒なのか、苦手なのか、その姿勢の根幹にあるものはわからないけれど。それともやっぱり俺たちが余所者だからだろうか。

 搾乳に勤しむ傍らで、俺は隣の美女についてそんな風に思索していた。案外余裕があるのかもしれない。




 搾乳し終えたのは午前八時、これから俺たちの朝飯だ。朝から体をフル稼働させたせいで、胃袋がそれに見合ったカロリーを欲してギュルギュル言っている。こんなに朝飯が待ち遠しく感じたことは今までない。でも一方で、多恵子さんと顔を合わすのが気まずくもあった。昨夜の重苦しい台所が脳裏をチラつく。それを意識しないで接することができるほど、無論、俺は器用じゃない。


 牛舎から未舗装の道を少し降ると、睦男さんの自宅がある。玄関で多恵子さんが迎えてくれた。「朝早よぉから大変やったやろ? ありがとね」多恵子さんは昨日のことなど無かったことのように大らかだ。「おなか空いたやろ? もう朝ご飯できちょんけん、早い上がりぃ」


 昨日の深刻そうな顔はなんだったのか。腹に収まり切らない憮然とした思いがあるにはあるけど、とにかく今は腹が減った。促されて畳敷きの客間に入ると、分厚い一枚板のテーブルに大皿や深鉢が並んでいた。


 魅惑の照りを放つ里芋の煮っ転がしに三種のおにぎり、朝から頭が下がる黄金色のコロッケ、それにあれはなんだろう、焼いた厚揚げに餡子が挟まっている。これはもう、四の五の言わず食べるしかない。


 労働後の一番最初に口にするものはおにぎりと決まっている。固めに炊かれた米の中に、絶妙な塩加減で梅肉が隠れている。酸っぱさに誘われて唾がじゅっと出た。


 臨戦態勢の口には揚げ物だ。コロッケへ箸を伸ばしてかじりつくと、その繊細な味に驚いた。じゃがいもじゃない、これは栗だ。マッシュした栗に、多分生クリームを加えている。しっとりした舌触りに栗の優しく豊かな甘みが広がり、里山の恵みそのものを衣に包んで食わそうという意趣に感服させられる。


 次いで、煮っ転がしも捨て難いけど、やっぱり気になる厚揚げを皿に取る。初めて見る不思議な厚揚げに不安と期待が入り混じる。俺の家でも出たことがない。えいっと口に放ってみると、なんとも小気味よい食感が口内で弾ける。一噛み、香ばしく焼かれた油揚げはザクッと歯切れよく、二噛み、少し塩気のある餡子がまろび出て素朴な彩りを加える。例えるなら、里山で生まれたスイーツ系ホットサンドだ。


 隣に添えられた高菜漬けを摘んでみると、甘くなった舌をピリッと引き締めてリセットしてくれる。そしてこの辛さを口に残したまま、手に取るのは当然おにぎりだ。


 無限を描くように箸がテーブルの上を行き来する。この至高の食卓を準備できる人に向ける想いは、畏敬と感謝、それだけだ。俺たちはひたすら無心になって朝食を味わった。


「へえ。牛乳って秋と春が旬なんですか」

「旬ちゅうか、夏と比べて濃いんよ。まぁ旬みてえなもんか」


 みんな腹一杯になって人心地つき、百雲さんの質問タイムが始まった。酪農や牛乳のうんちくをあれこれ睦男さんに聞いている。


 俺は隣でまだ、食卓と睨めっこをしていた。大皿にはまばらに料理が残っていて、「全部は食べれない。でもあと少しならいけるかも」と箸を伸ばす。せっかく朝早くからこしらえてくれただろうに、残すなんてできない。


「余った分はタッパーに詰めたぐるけん、昌鹿ちゃんに持って帰っちゃりよ」


 そこに多恵子さんが食後のお茶を運んで来てくれた。俺が無理して食べようとしているのを察したように笑っている。


「息子夫婦が孫連れち帰っち来たみてぇで。嬉しいけん、つい作りすぎてしもうた」


 気を遣って残せずにいた俺を見抜いた上で、面倒臭がって来なかった昌鹿さんを引き合いに出して箸を収めさせようとするなんて。俺は素直に箸を起き、「ありがとうございます」と湯呑みを差し出した。ついでに隣の百雲さんの湯呑みも多恵子さんのそばにそっと置いた。


「ありがとう」多恵子さんはゆっくり急須を傾け、丁寧にお茶を注いでいく。「密ちゃんは優しいなぁ」丸みのある柔らかい声が、俺を寂しくさせた。


「なん、あれ」お茶も飲み終わってそろそろお暇しようとした時、雨の様子を見ていた紫蘭さんが窓にすり寄った。


「血ん色や」視線の先にはさっきまで搾乳していた牛舎があるけど、ここから見る限り特に変化は認められない。血の色とはいったい何を指して言っているのか検討がつかず、ただ紫蘭さんの横顔を見る。


「むっさん牛舎や!」目を細めて外を凝視していたかと思うと、何かを確信したように駆け出した。俺たちが呆気に取られていると、「早よぅ!」と鋭い叱咤が飛んで来た。紫蘭さんの殺気立った様子に気持ちが追いつかないまま、満腹で重い体をとにかく動かした。


 玄関で靴をつっかけたとき、牛舎から「モォーッ!」と野太い鳴き声が聞こえた。それは命の危機を知らせるような、切実な振動を伴って俺たちの鼓膜を揺るがせた。牛舎で何か起こっている。


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