名伏密 不穏な里
「そこ、多分滑りやすくなってるから、気をつけて」
そう声を掛けられたのが先か、俺が足を滑らせたのが先か。
「ぉうわっ」踏ん張る間もなくうつ伏せで滑りこけてしまった。鼻先からこもった山の匂いがする。立ち上がろうと手をついた地面はじっとり濡れていた。服を叩くけど、湿った落ち葉や土はなかなか俺の体から落ちてくれない。
「密君、大丈夫かい? 山歩きもなかなか楽じゃないね」
朝日はまだ低く、山はひっそりと冷気に包まれている。元いた場所に目を凝らす。朝霧が低く立ち込めていて視界が悪い。どうやら朝露で濡れた苔を踏んづけてしまったらしい。
「はい、大丈夫です」
白鹿背に入ってから三日が経った。今日も早朝から地元の人に案内してもらいながら、傾斜のある松林を探し回っている。ここはよく松茸が採れるスポットらしい。
「あっ、でもそこら辺にキノコっぽいのある。密君のすぐそばの木。その裏っ側、見てみて」
十メートルほど離れた場所から飛んでくる百雲さんの声に従って、左手にある木の裏手に回ってみる。朝霧が天気図の台風みたいに渦を巻いて「ここだ」と示しているが、キノコは見当たらない。
「空き缶が落ちてない? そのすぐ脇」
こんな所でも空き缶を捨てる輩がいるのかと驚きつつ、見つけた空き缶のそばを入念に観察した。枯れた松葉や広葉の茶色に隠れて、丸いキノコの傘が見えた。
「ありました!」
俺の言葉とともに小さな台風はゆるゆるほどけ、元の朝霧に姿を変えた。見つけたキノコの周りの土を指先で慎重に掘ってみる。
「多分、松茸っぽいです」木の根が詰まっていて掘りづらかったけど、柄を折らずに綺麗に採れた。この数日で、「松茸」、「シロヘノコ」、「その他のキノコ」、という大雑把な分類だけど、俺はキノコを見分けることができるようになった。山で白は比較的見つけやすい色で、シロヘノコは生えていれば割と発見できる。でも、松茸は傘が茶色で落ち葉と同化してしまうから、慎重に探しても見落としてしまうことが多い。
俺は松茸を採集用のリュックに、空き缶はごみ袋に入れた。もちろん目的はオオヘノコだけど、祭りでの振る舞い用にシロヘノコや松茸、他の食用キノコも採集している。
それにしても百雲さんの異能はすごい。百雲さんは粒子を操れるんだけど、その操っている粒子で触れたものを感知することができるのだ。それも、落ち葉に隠れたキノコを探り当ててしまうくらい精緻に。
従者として山の朝霧を伴いキノコを狩る百雲さんはますます天狗じみていて、このまま白い靄に姿をくらませてしまうんじゃないかと妄想してしまう。とにかく今回の依頼は百雲さん頼みで、俺たちは彼の妖術の及ぶ範囲内で等間隔に陣取り、各々キノコ探しに勤しんでいるというわけだ。
「昌鹿君、目の前の二本の木の間、見てくれないかい。掘られた跡があると思う」
今言う場所にも、目印の小さな台風が姿を現しているはずだ。
「……木の間っと。くそっ、あったぜ。土が掘り返されてやがる」数メートル隣で昌鹿さんが憤っている。「なぁ、紫蘭ちゃんよ。やっぱここも誰かに先を越されちまってんじゃねえのか?」
昌鹿さんは左手に陣取る紫蘭ちゃん、もとい飛世紫蘭さんに顔を向けた。
「……猪や狸もキノコを食う」
紫蘭さんはこの松茸山を管理している白鹿背の人で、松茸の採れるスポットを案内してくれている。高校中退後に地元の白鹿背で百姓になり、今年で二十歳になるという。逆三角形の凛々しい輪郭に細いけどはっきりとした眉毛、鼻筋がすうっと美しく、黒々とした瞳や首の長さで切り揃えられた髪(今はひと括りに結ばれているが)は黒曜石のように艷やかだ。百姓というだけあって健康的な小麦色の肌をして、両耳にあいた金色のピアスが馴染んでいる。細く引き締まった体は自然派の美人という感じで、同じ美人でも麗子さんとは方向性がまるで違う。
「まだ、そうち決まったわけじゃねえ」でもなんでだろう、どこか湿り気のような陰を感じてしまう。このハスキーな低声のせいだろうか。
「知ってっか? ナマコとかカニとかよ、ヤクザなんかが密猟して金にしてんだって」
「……ヤクザ?」紫蘭さんの声が一層低くなった。心なしか表情も険しい。
「例えばって話だよ。暢気に構えてっと、オオヘノコも採られちまうかもしれねえぞ」
「そうやとしてん、素人に山歩きは容易じゃねえ。それにこっちは集落あげて探しよんのや、心配いらん。……さぁ、はよ探そう」
俺たちがオオヘノコ狩りに繰り出してから、今のように誰かがキノコを掘り返した痕跡があちこちで見つかった。それも、まだ集落で探していない手付かずのはずのスポットでだ。
「猪とか狸ってさー、こんな掘り方するのかねえ?」昌鹿さんは食い下がる。「堀跡がよ、人差し指と中指の幅にぴったしなんだよなあ。綺麗に木の根も避けてるし」
松茸は木の根に引っついて生えているから、柄の部分は土に埋まっていることが多い。柄を折らず綺麗に採ろうとすると、松茸の周りを人差し指や中指を使って丁寧に掘り下げ、根元近くから千切るというやり方になる。
「……もし窃盗団みてえのがこん山に入っち来ちょってん、山ぁ広えけん捕まえるんは難しい。捕まえれてん、仲間がおりゃまた来る。……結局はイタチごっこや」
紫蘭さんはつっけんどんに言った。俺たち余所者が山に入るのが気に入らないのか、初日からずっとこんな感じだ。
「へえへえそうですか」
昌鹿さんもそれ以上食い下がっても無意味だと思ったらしい。この日も早朝から夕方まで山を歩き回り、ヘトヘトになって集落へ戻った。
俺たちが寝泊まりしている集落の集会所に戻ると、台所が賑やかしかった。集落の奥さん連中が俺たちの夕飯の準備をしてくれている。
「おかえり。今日もお疲れ様」事務所に来た檜山睦男さんの奥さん――多恵子さんが包丁の手を止めて振り向いた。ここ白鹿背はご近所の結びつきが強いようで、婦人会が組織されている。そのメンバーが交代交代で俺たちの身の回りの世話をしてくれているのだけど、その中でも多恵子さんはリーダー格で、毎日欠かさず来てくれる。
「いま戻りました。キノコもいっぱい採れましたよ。オオヘノコは未だ見つからず、ですけど」
「焦ってもしゃあねえ。採れたキノコはそこに置いちょって。紫蘭、もうちょいでできるけんな」
「ありがとう」紫蘭さんは白鹿背で一人で暮らしている。俺たちの案内係りになってから、毎日ここの夕食を持ち帰っているんだ。初日に百雲さんが一緒に食べないか誘ったけど、やんわり断られてしまった。
「多恵ちゃん、今日の飯なにー?」
「あら昌鹿ちゃん。今日はな、そば稲荷に柚子こしょう飯、煮食、車麩ん揚げもん、里芋コロッケよ。あ、あとキノコと麩の味噌汁な」
「すっげーご馳走じゃん! 楽しみー」
昌鹿さんは誰にでも馴れ馴れしい。でも、ちゃらんぽらんな雰囲気がそうさせるのか、彼の自然体の図々しさは白鹿背の奥さん連中にすんなり受け入れられていた。
「手伝いますよ」俺は手を洗って腕まくりのまま、台所の珠のれんを潜った。
「密ちゃん、毎日手伝っちくれんでいいんよ。あんたも疲れちょんやろうけん、温泉入っちきよ」
多恵子さんは気遣うように慌てて言う。この集会所に風呂はないから、風呂はここから車で五分ほど走った所にある温泉を使っている。
「そば、詰めていきますね」
風呂なんて後でいいのだ。ざるに上げられたそばを適当に掴み、甘く煮たお揚げに詰めていく。
「ありがとね。ここに薬味あるけん、仕上げに乗っけて」
多恵子さんは顎で小さなボールを指した。みんな和気あいあいとおしゃべりしながら、手は忙しなく動き続けている。小気味よく鳴る包丁、弾ける油、煮詰まっていく鍋の音。みんな長年の生活に基づいた確固たる流れに身を委ねて、淀みなく作業が進められている。
誰かと一緒に台所に立つって、こんな感じだった。
「あらあら。若いのに感心や。疲れちょんやろうにありがとね」
今日初めて会う婦人会の人から声をかけられた。
「いえ。みなさんと台所に立つと元気が出るんです」
「まぁ! 嬉しいこと言うちくるる。気ぃ遣わせたかな」
「ほんとですよ。懐かしいんです。ばあちゃんを思い出して」
初日なんてこの風景の中に入った途端、思わず目頭が熱くなって、トイレに避難する羽目になった。台所に戻るとき、手伝うと言っておいていきなりトイレに消えた俺を、変に思っていないだろうかとドキドキした。
「もう、うちん孫に聞かせてやりてえわ。あんたほら、そっち終わったら柚子こしょう飯巻くの手伝って。巻きす使うたことある?」
俺はおばあちゃんに促されて巻きすと焼き海苔を手にした。平日の夕食だというのに、相変わらずすごい手の込みようだ。昨晩は猪肉カレーに生春巻き、ジビエの炭焼きだった。
「こんなに色々作るの大変でしょう?」巻きすに海苔をしいて、その上に柚子こしょうと胡麻を混ぜ込んだ白飯を伸ばしていく。
「そら大変よ。でも大事なお客さんやけん」おばあちゃんはあっけらかんとしている。「もりもり食べちもらわんと」
誰かになにかをしてあげる、その行為にほどほどなんて力加減はないんだろう。原動力は「喜んでほしい」という真心、もしくは「喜ばせなければ」という使命感か。
「最後に山椒の葉、乗っけて巻いちょくれ」
すでにおばあちゃんは柚子こしょう飯を巻いて、手で固めていた。巻きすを握るおばあちゃんの手はしみが散ってしわしわだけど、働き者の手だった。俺も負けていられない。
「オオヘノコはやっぱり見つからんかい?」
「はい、なかなか。……猪に先を越されたらどうしよう、なんて」
「……猪ならいいんやけど」おばあちゃんは俺にだけ聞こえるように顔を近づける。「ここだけん話、外ん人間が盗って行きよるっちな」
「……そんな噂があるんですか?」
「ちょっと、まいちゃん」そばにいた他の婦人会のメンバーが困ったように止めに入った。
みんなの反応からすると、窃盗団がヘノコタケを狩っているのは事実なのかもしれない。でも、それを隠そうとするのはなんでだろう。依頼に差し支えると思っているのだろうか。
「こげんいい子が危ねえ目におうたらむげねえわ。私ゃ知らんふりでけん」おばあちゃんことまいさんは、沈痛な声で周りに訴えかける。「孫と歳、変わらんので?」
奥さん連中は料理の手の止め、一様に押し黙る。先程までの活気は霧散し、台所に流れる空気は一転、鉛のようだ。みんなが共有している事情を知らない俺は、一人取り残されて只々気まずい。楽しく料理したかっただけなんだけど、俺の存在がこの人たちの和を乱してしまったらしい。おばあちゃんたちの重苦しい表情なんて俺には耐えられない。
「……密ちゃん、ごめんな」
どうにかこの場を和ませることはできないかと頭をフル回転させていると、多恵子さんが申し訳なさそうに口を開いた。
「隠すつもりはないんやけんど、これは白鹿背ん恥やけん。許してな」
そう言うと淀んだ空気を引きずったまま、この話は終わりとでも言うように流しの方を向いてしまった。みんなもそれぞれの作業に戻って、なんとも後味の悪い夕飯作りになった。
それに「白鹿背ん恥」とはなんだろう? 窃盗団にヘノコタケを採られること自体を指すには大袈裟な表現だ。百雲さんに話してみようかとも考えたけど、多恵子さんたちの息が詰まるような顔がちらついてできなかった。冷え深まる夜の空気は、少し湿って重たかった。




