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花に春泥、しき緑  作者: 畑中炭比古
13/28

神嶽組・恒川 いつかの夏③

 闇無にひっそりと建つ雑居ビルの二階、剥き出しの蛍光灯の下で黒い丸テーブルが三つ、コーラの飴玉みたいに鈍く光っている。打ちっぱなしのコンクリート部屋に無造作に置かれた飴玉は、金と刺激という魅惑の匂いで七匹の虫、もとい男女をそばにはべらせている。殺風景な部屋と我欲にまみれたゲームがいかにもアンバランスで、新品の虫籠に閉じ込めた虫を上から覗いているみたいだ。


 だがそれは、虫籠の虫を軽んじているわけでは決してない。蓋を開けた途端、何の前触れもなく突然飛び出したり、餌をやろうと差し入れた指に噛み付いたり、虫籠という境でしっかりやつらと自分を隔てていないと、いとも簡単にやつらに翻弄されることになる。やつらにとってそこが野っ原だろうが籠の中だろうが関係ない。どこにいたってそこは虫たちの危険なテリトリーで、ほんの指先でもそこに入ってしまうと危ない目にあう。かと言って、虫籠の蓋を閉じたままというわけにもいかない。細菌がわいて籠の中が臭くなるし餌も腐る、さらには阿鼻驚嘆の共食いなんて惨事を招くことだってある。要するに俺は虫なんて大嫌いってわけだ。


 まだ無邪気にバッタを素手で掴めていた昔、世話を怠けた虫籠の中の悲惨さと吐き気を誘う臭いを思い出しながら、ゲームの様子を監視カメラのモニター越しに眺める。今、俺たちのいるスタッフルームの隣では、一つのテーブルを囲い、テキサスホールデムというポーカーの一種が行われている。


 おいおい、なんでこの大事なときに昔のトラウマなんて思い出すんだ。頼むぜ、俺。……しかし、本当に大丈夫なんだろうな。


 不安な気持ちを掻き消すために、煙草を肺の深くまで吸い込み、モニターに向かって吐き出す。


「だ、大丈夫かな?」


 吉田がおろおろ口を開く。こいつは思ったことをすぐ口に出すから腹が立つ。


「そもそもなんで農家を借金漬けにしなくちゃなんないんだよ」


 うるさいやつだ。


「言ったろ。返済できねえくらいの借金背負わせて、にっちもさっちも行かなくなったところで救いの手を差し出してやるんだよ。返済の代わりにドラッグの原材料を作れって」


「だからそれが回りくどいなって。脅してしまえばそれで一発じゃん」

「馬鹿。だから言ったろうが。暴対法のおかげでこちとらがんじがらめなんだ。今時な、頭に拳銃押しつけて脅しつけるなんてやってみろ。通報されたらこっちが一発アウトなんだよ」


 そう、安易に暴力に訴えるのは得策じゃない。大事なのは、相手に負い目を感じさせ、こちらの望むことを自ら選んだと錯覚させることだ。不思議なことに、そうしてしまえば警察への通報はまず免れる。


 だから回りくどくても俺たちはパチンコでヒロシに賭け事の快感を味わわせ、この闇カジノに導いた。そしてここでヒロシにたっぷり負かして借金漬けにしたあと、ドラッグの原材料を作らせようという寸法なのだ。


「わかったよ。わかったけど……あのディーラー大丈夫かな」吉田はモニターに映るオールバックの男に不安げな視線を送る。白いシャツに黒のベストを着込み、格好だけはディーラー然としているんだが、どこかおどおどしていて頼りない。


「ヒロシにがっつり勝たせて、もっとゲームにのめり込ませようとしてるだけだろう。大勝負に誘い込んで、そこでドボン、つーことなんじゃねえのか」


 ついさっき、自分を慰めるために考えた推論を口に出す。あながち間違いではないはずだ。


 ゲームに興じているのはパチンコ屋で釣った男――ヒロシに、用意したサクラが五人、それにこちらの息がかかったディーラーという面子だ。つまりヒロシを嵌めるためだけに用意された賭場なんだが、そこで今、あろう事かやつは快進撃を続けている。


「そう言うけどさ、さっきもかなりいい場だったじゃん。あそこでヒロシに勝たせちゃうって、正直どうなんだろ」


 困ったことにへっぴり吉田の言う通りなんだ。テキサスホールデムは、自分に配られた二枚の手札と、ディーラーが順番に出す五枚のコミュニティカードを組み合わせて役を作り、一ゲームにつき四ラウンドの賭けを行う。最低賭金は五万円、最高賭金は五十万円と高額レートで、さらには自分の所持金以上を賭けることができるという馬鹿みたいな特別ルールを設けている。だから、手持ちがマイナスになっても延々遊ぶことができる反面、ゲーム終了時点で金を新たに準備して精算するか、俺たちに借金することになる。


 これまで何度かサクラが大勝できるチャンスはあったんだが、あのディーラーはことごとくヒロシに勝たせてやった。もちろん適度に勝たせて勝負に前のめりにさせることは必要なんだが、どう考えても今のヒロシの勝ち方は必要以上に感じる。


「そういや、あのディーラーは誰が用意したんだ?」

「俺だけど」

「……どうやって用意したんだ?」

「掲示板で」

「は?」

「ほら、あるじゃん、裏仕事専用の掲示板。それで募集かけたの」

「……冗談だろ?」


 確かにネットにはそんなふざけた掲示板が存在する。だが、あんなものに集まる輩は、素人か素人に毛の生えた連中、もしくは素人だ。


「だってしょうがないじゃん。お抱えのディーラーは麻黒さんの機嫌損ねて殺されちゃったし」

「それにしたって他になんかあるだろ」

「いや、だからこれでもしっかり考えたんだよ。うち、この前チャイニーズに大損こかされたばっかじゃん? だから掲示板で募集して、一番報酬金額の低いやつに依頼したんだ。経費削減だよ」


 いったいなにをどうしっかり考えたら、肝腎要のオペレーションで経費削減をしようという結論に行き着くんだ? 理解不可能なこいつの経理観念が今の状況を作っているのは間違いなさそうだ。ほんと勘弁してくれよ吉田ちゃん。


「お前さ、落としたい女に物貢ぐとき、プレゼント代ケチる?」

「そんなわけないじゃん。もしかして恒川はケチるわけ? それ貢ぐ意味なくない? だから恒川はダメなんだよ。この前だってさあ――」


 俺は軽く両膝を曲げて腰を落とし、右足に重心を乗せる。力みは禁物だ、右腕を腰に構えて狙いを定める。


「え、なになに? 急にどうしたの?」


 下から前へ押し出すイメージ。腰と膝を回転させて、打つべし!


「ごっふーっ! かひゅっ……ひゅっ」


 横隔膜を強打された吉田はそのまま床に崩れ落ち、涎を垂らしつつ悶えている。あー、ちょっとだけすっきりした。だが状況は何も変わっていない。


 この闇カジノで今なにが起こっているのか、吉田を殴ってクリーンにした頭で考えてみる。俺の想定するパターンは三つだ。一つはディーラーが素人で、普通にヒロシがボロ勝ちしているという「吉田ぶっ殺パターン」。今起こっている全てに吉田の責任が生じるから、当然に吉田はぶっ殺す。


 二つはディーラーもしくはディーラー含め複数人が何かしらの意図で俺たちを裏切り、ヒロシを勝たせているという「吉田半殺しパターン」。このパターンは神嶽組の弱体化を狙った他組織の介入があると考えられるから、吉田が掲示板を利用したことは不問だ。きっと掲示板を使おうが使わなかろうが、相手は刺客をねじ込んでくるだろう。だが、闇カジノに配置された吉田の失敗には変わりないから半殺し。


 三つはディーラーはきちんと仕事をこなしている最中で、何事もなくヒロシを借金漬けにできる「吉田お咎めなしパターン」。


 だが、神嶽組を弱らせるために闇カジノで勝つなんて回りくどいし効果も謎だから、「半殺し」パターンの可能性は低いと思う。「お咎めなし」パターンも吉田のアホのことを思うと期待が持てないが、まだわからない。何より進んで「お咎めなし」パターンの希望を捨てるのはつらい。


「はぁ……はぁ……。ひどいじゃないか。いきなり殴るなんて」


 息も絶え絶え吉田が涙目で訴えて来るが、構っている暇はない。どっちなんだ、見極めないと。


「こんな暴れて、向こうに音が漏れたらどうするんだよ」


 黙れ、その心配は不要だ。金庫も兼ねているこの部屋の防音対策は万全で、そこも計算済みのサンドバックなのだ。


「無視ですか。なんだよ、俺はお前のストレス発散の道具じゃないっての」


 吉田は弱々しく立ち上がって、モニター前の椅子に腰掛けた。自分を労るように腹を擦りながらモニターに目を落としている。


「あ、またヒロシが派手に賭けてる。せっかく前払いしてやったんだから、頼むぞー」


 ちょっと待て。聞き捨てならない台詞を吐き、眉間に皺を寄せてアホみたいに祈るアホ吉田。


「前払いってどういうことだ?」


 頼む吉田よ。俺はまだ賭けているんだ、お前の「お咎めなしパターン」に。


「あのディーラーさ、金ないからって、図々しくも前払いを要求してきやがって」

「……それで?」

「ちょっとムカついたんだけど、思い直して。だって、落ち目とは言え神嶽組に前払いで金よこせなんてさ。なかなか肝が座ってるじゃん。これは当たりかもって思って、先に払ってやったんだ」


 怒りを通り越して怖い。このゆるふわパーマの頭蓋に詰まっているものは一体なんだろう。おそらく脳みそではないはずだ。惰性で買い続ける宝くじに自分の人生を託すような、落ちてくるはずもない隕石を頭上に待ち焦がれるような、そんな街中に溢れる自分を慰めるためだけの破滅的な楽観や妄想が具現化したものに違いない。だとしたら到底無理だ。そんな曖昧模糊とした怪物を俺は制御できない。


 とにかく吉田の「お咎めなし」は消えた。金に困ったギャンブル好きの素人がディーラー役に飛びついて来たに違いない。


「どうなるんだろ」


 俺が聞きたい。お前はどうしようと言うんだ。吉田の奇天烈な行動がもたらし続ける衝撃に俺の意識は風前の灯だ。


「あ、またヒロシがレイズした。賭け金つり上がったみたい」吉田は興奮気味に耳に装着しているインカムのワイヤレスヘッドセットを指差した。フロアにいる二人の見張り役のうち、一人から連絡が入ったらしい。


「そのままヒロシが勝つだろうよ」

「なんで捨て鉢になるかな。まだわからないじゃん。あ、サクラがさらに大きくレイズしたって。ほら、あの髭親父。いいねえ、その強気。もしかしてイケるんじゃない?」


 吉田はそう言うと、インカムに向かって囁いた。


「ねえ、あの髭親父とヒロシの手札なんだけど。え? 配られるとき見てた? で、うん。……まじか!」


 インカムを切り、吉田がガッツポーズでこちらを振り向いた。


「フロアのやつらが手札を見ててね。髭親父の方が作れる役が上だって!」


 そうなのか? 吉田の一言で吹き飛びかけていた意識が戻ってくる。もしそうだとしたら、ヒロシの手持ちのチップを一気に半分くらい溶かすことができる。もうすぐ終盤に突入するこのタイミングで大きく削れるのはでかい。この調子で終盤に負かせていけば、一時間も経たずにヒロシは借金漬けだ。そしたら吉田という訳のわからん脳足りんに振り回されることもしばらくなくなるだろうし、麻黒さんの処刑だって免れる。


 そうだ、だいたいディーラーが使えないやつだったら、理屈をこねて代役を送り込むこともできるし、なんだったら多少腕に覚えのあるこの俺が代わってもいい。素人だったらと恐怖する必要なんてなかったんだ。そもそも全ては俺の杞憂、これはまさかの「お咎めなし」に違いない。事実、今まさにディーラーがこの茶番を終わらせようとしているじゃないか。ようやくドラッグ生産のスタートラインに辿り着くんだ。


 悪いなヒロシ。お前にはなんの恨みもない。なんの恨みもないが、麻黒さんの無謀な夢のため犠牲になってもらうぜ。


 円卓を囲う面々が場に伏せていた手札を開ける。さあ、早くしろ。


「……あれ?」「……あれ?」


 モニターを覗きながら、不本意にもアホの吉田とハモってしまった。


 どうしたことか、髭親父ではなく他のサクラ、プリン頭のチンピラ然とした男の前にチップが集められていく。まさかあのプリン頭、髭親父もヒロシも差し置いて勝ったというのか。


「……よし! とにかく結果オーライだ」

「よかったー」


 ディーラーへの勝手な不審に吉田の奇想天外さが拍車をかけ、地獄行きのジェットコースターに乗せられている心地だった。


 だが全ては俺の悪い妄想で、掲示板で雇ったディーラーは安い報酬で仕事を遂行し、サクラの五人はサクラらしく、しっかり場を盛り上げつつもヒロシからチップを掠め取っていく。それぞれがそれぞれの役割を全うして、数ゲームあとにはヒロシはスッテンテンにのされ、待つのは借金の契約のみという上出来の流れだった。


 だが、一つまた懸念が生まれる。「あのプリン頭、なんか勝ちすぎじゃねえか?」サクラ五人のうち、プリン頭だけ突出してチップの山を築いていた。


「……そうかな?」


 吉田は首を傾げている。俺の考えすぎだろうか。予想外のことが起こって神経過敏になっているのかもしれない。もうすぐこのゲームの四ラウンド目が終わるから、ショーダウンしたら俺たちの出番で、ヒロシにゲームの終了を告げ、借金を押し付ける手筈だ。


 ヒロシ以外の誰がどう勝とうが関係ないじゃないか。余計なことは考えず、目の前のことに集中しよう。


 賭けが終わり、各々手札を開示する。またプリン頭の一人勝ちだ。場に出されたチップをディーラーがレーキで掻き取り、プリン頭の前に集めていく。ヒロシは自分の元から去って行くチップを青ざめた顔で追っている。頃合い、のはずだった。


「……あれ?」「……あれ?」


 全くの不本意だが、またしても吉田とハモってしまう。見張り役とプリン頭が何やら揉め始めた。


「貸せ。おい、今どうなってる?」俺は吉田からヘッドセットを奪い取り、フロアにいる別の見張り役に状況を聞いた。


「それが、サクラの一人がゲームはやめだって」

「あのプリン頭か? ヒロシはもうスッテンテンだ。俺たちも今そっちに行こうとしてたし、ゲームは終いでいいだろ」

「いや、それがですね、早く換金しろとか言い出して」

「換金? 意味がわからねえ」


 サクラには奴隷――神嶽組に何らかの借りがあり(主に借金だが)、こちらの言うことを百パーセント聞くやつらを使っている。だから換金を要求してくることなんてあり得ない。


「こっちもですよ。どうしましょう」


 どうしましょう、だと。なんなんだその「俺の役割は見張ることだけですから」感が満載の思考を放棄した言葉は。少しは自分で考えやがれ。こちとら吉田に感情を弄ばれすぎて疲労困憊……待てよ、吉田と言えば。


「おい、サクラには間違いなく奴隷を使ってるんだろうな」

「そのはずですけど。人選は吉田さんなんで」


 またか、もうこれ以上は勘弁してくれよ。


「吉田、ちゃんとサクラには奴隷を使ったよな?」

「もちろんそう……なんだけど」

「だけど?」

「あんなプリン頭、いたっけな?」

「は?」

「あれ? そもそも用意した奴隷、四人だったような」

「ヨニンダッタヨウナ?」


 頭の中でブリザードが吹き荒れて思考を細切れに切り裂いていく。こいつのすっとぼけた言葉はもはや精神攻撃だ。重力のなすがまま、頭の天辺から血の気が引いていく。もうダメだ、このままホワイトアウトしてしまおう。


 だが気持ちとは裏腹に、まがりなりにも任侠道を歩んで来た体が受け入れない。卒倒しそうになった体を壁に預けてどうにか踏ん張ってしまう。そうか、俺はまだ頑張ろうとしているんだな。


 肉体に刻まれた憎らしくも誇らしい矜持に励まされ、瞬間、俺の心は立ち直った。


 吉田に向き直って確認する。


「あのプリン頭は招かれざる客ってことだよな? 馬鹿らしくて考えられねえけど、一般人が混じってたってことだろ」

「そんなはずないんだけど……。そう言うことみたい」


「今行く」俺はインカムに短く告げ、重いドアを押し開けてフロアに進み出た。さっきまではアホ吉田のせいで頭が回らなかったが、やることは一つだ。いつもと変わらない。


「なぁ、さっさとしてくれよ」青白い蛍光灯の光の下で、プリン頭が悪態をついている。冷たいコンクリートに囲まれた殺風景な劇場で、ピエロが一人、悪ふざけをしているようだ。


「お、やっとお出ましか。これ、頼むな」


 俺を換金しに来たスタッフと思ったんだろう。プリン頭はうず高く積まれたテーブルのチップを指差した。


「みなさん、今日はこちらのお客さんのための日だったようですね。ゲームはお終い、これから精算に入りますんで、このままお待ち下さい」見張り役の二人に目配せしてフロアを任せた。


「お客さんはどうぞこちらへ」俺はプリン頭の椅子を引いて促した。

「ふーん、俺だけそっち?」プリン頭はにやにやしながらスタッフルームを顎で指す。


「金額が金額ですんで、間違いがあっちゃいけない。お互いに現金を確認して、その後にお渡ししますよ」こいつが何者であれ、とにかくこの場から退場していただこう。スタッフルームに連れ込んで適度に痛い目を見てもらう。そうすれば換金してもらおうなんて気持ちはなくなるはずだ。こいつの素性はその後じっくり聞き出せばいい。こういう荒事は日常茶飯事じゃないか、むしろ俺たちの本分だ。


 俺はプリン頭の前を歩き、スタッフルームのドアを開けて入室を促した。部屋の中には間抜け面をきりりと緊張させた、でもやっぱり間抜け面の吉田が金庫の前に立っている。本当に金を出すわけじゃないのに何してるんだ、こいつは。


「どうぞ」

「まあ、そうなるよな。いいぜ、それもありだ。虎の穴に突っ込まねえと子虎は生まれねえって言うしな」プリン頭は下品に笑いながらスタッフルームに入って行く。


 虎子を得るために猛獣とまぐわう必要なんてないんだぜ。それを言うなら虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。どの道お前はなにも得られないけどな。


 ……待てよ、()()()? こいつは今、()()()()()()()()()()()()()()()()()? だとすれば、スタッフルームが危険な場所だと認識した上で、金を得られる可能性と天秤にかけて、こいつはここに足を踏み入れたことになる。


 しかもそれをわざわざ口に出すということは、「危険な場所に招いていることはわかっているぞ。わかった上で乗ってやる」という俺たちに対する主張であり、「危険を冒して金を得る自信が俺にはある」という挑発的な態度に他ならないのではないのか?


 わからない。わからないが、博打に勝ったから換金しようという漫然とした態度でここにいるわけではないことはわかった。こいつはなにか、明確な意図を持ってここにいる。すなわち俺たちにとって危険なやつということだ。


 俺は静かにドアに鍵をかけ、プリン頭の肩に手を置いた。


「ああん?」こいつが何者でどんな目的を持っていても、やることは変わらない。そのタイミングと程度が変わるだけだ。最初は脅し文句の一つでも言って様子を見てから、と思っていたが、大事なのは相手の出鼻を挫いて俺のペースに持ち込むこと。だからこのタイミング。プリン頭が振り向いた刹那、にやけたチンピラ面に思いっ切り拳を叩き込んだ。


「……っいっつう!」


 拳の芯から鋭い痛みが突き抜けていく。思わず振るった手を抱えて身をかがめてしまう。なんだこりゃ! くっそ痛えぞ! 人ってこんなに硬かったっけ?


「どしたい、兄ちゃん」


 そんな俺を小馬鹿にした目つきでプリン頭が睥睨する。顔が乳白色で陶器みたいにつるんとしていた。なんだそれ……こいつ、そうか!


「くそったれ! マレビトか!」


 痛む手を後ろに回してベルトに挟んだ銃を抜き取った。


「撃ってみろよ」


 プリン頭は横着にも両腕を広げてにんまり笑っている。


「こういうとき、一発撃たせてやることにしてんの。自分の無力がわかったらよ、攻撃する気が失せるだろ? 俺もその方が楽だしな」


 Tシャツから覗く首や腕も白く艶やかに光っている。こいつの自信はブラフじゃない。


「つ、恒川! 早く!」


 吉田が突っ立ったまま涙目で喚く。ふざけるな。抜き取ったはいいが、正直困っているんだ。防音しているからって街中でドンパチして、万が一通報されてみろ。無駄な厄介事が増えてますます麻黒さんの機嫌が悪くなる。


 やばいぞ、これ。こいつの目的はなんだ? やっぱり「吉田半殺しパターン」で、どこかの組織から派遣された刺客なのか?


「お前、何者だよ」


 とりあえず話しかけて時間稼ぎだ。何か妙案が浮かぶかもしれない、期待は薄いが。


「俺? 凄腕ギャンブラー」


 広げていた腕をだらんと下げた。


「撃たねえの? まぁ、服がダメにならねえで助かるんだけど。そんじゃ今度はー」


 下げたウデを振りかぶって、投球のフォームをとる。


「おい、なんのつもりだ。やめろ」


 手になにか持っている様子はなかったが、マレビトである以上、なにが飛び出してくるかわからない。俺は撃鉄を起こした銃を構えて、精一杯の牽制を試みる。ほんとやめてくれ。


「こっちのターンって話だよ」


 その甲斐もなく、プリン頭は台詞とともにピッチャーさながら、腕を振り抜いた。掌から放たれた白い液体がいく筋もの道を描き、俺に被弾する。


「うお! なんだこりゃ!」


 チューブのコンデンスミルクをぶっかけられたみたいに、体中が液体にまみれた。ねばねばとまとわりついて気持ち悪い。


「なにしやがる!」


 やばいやばいやばい。酸か何かの類? だが、服や肌が焼けただれる気配はまるでなく、痛みも全くない。でも、わざわざこのタイミングで繰り出してきたし、何もないってことはないんじゃない? ガソリンみたいに引火する? ローションみたいに滑って動きづらくするためとか?。


 触っていいのか悪いのかわからず、動くこともできず、目だけを体から滴る液体とプリン頭の間を行ったり来たりさせた。認めたくないが、俺はパニックに陥っていた。


「まあ、慌てんな。死にはしねえよ」


 やつが足取り軽く近づいてくる。死にはしない? ほんとだろうな、信じるぞこら。いやいや、敵に身を委ねるようなことじゃダメだろ、俺。こうなったら、さらに何かされる前に撃つしかない。


 腹を決め、引き金を引こうとした。が、指が動かない。慌てて手に視線を移すと、手と銃が白い陶器のようなもので覆われ、固められている。


 しまった。体を見下ろすと、同じようにさっきの液体が固まり、体の自由を奪っていた。これって、プリン頭の体を覆っているものと同じものか。


「ちょっと静かにしといてくれな」


 プリン頭はそう言うと、まず俺の耳に収まっていたヘッドセットを抜き取って握り潰し、次いで口を例の液体で覆った。どうにか鼻で息はできるが、声が出せない。


「さあ、次はベビーフェイスの兄ちゃんの番だ」

「く、くく、来るなー!」


 吉田は折り畳んだパイプ椅子を頭上に持ち上げ、戦慄いている。お前はプロレスラーか。


「はは、なんだそりゃ。じっとしてな」


 吉田になんの期待もしていなかったとは言え、あっさり例の液体に絡め取られたのにはがっかりする。吉田は持ち上げたパイプ椅子ごと両腕を壁に貼り付けにされてしまった。その様は天井から吊るされて拷問を待つ哀れな囚人だ。

「兄ちゃん、俺はまどろっこしいのはきら――」

「やめろ! 来るな! だだだ、誰か助けてー!」


 しっかり防音対策されたこの部屋は、吉田の声をフロアには届けてくれないらしい。吉田は鼻水と涙を撒き散らし、いやいやをしながら半狂乱になっている。こいつが極道なんて嘘だ。


「おいおい、あんま騒ぐなって。外に聞こえ――」

「やだやだやだやだ! 死にたくないー!」


 足をばたつかせ、かと思えば飛び跳ね、さらには背中から壁に体当たりし、パイプ椅子をプラカード代わりに掲げて力一杯ヘルプを叫んでいる。陸にあげられ跳ね回る魚みたいだ。


「だから黙れって」

「いやー! っごひゅ! かっ……ひゅっ」


 吉田は鳩尾に本日二発目のパンチを食らい、目をひん剥いて苦しそうに悶えている。味方がやられているというのに、なんでだろう。胸がすいた。


「これ以上、痛い思いしたくねえだろ? な? ちょっと落ち着けって」


 プリン頭は面倒臭そうに頭をかいている。ざまあみろ、吉田は馬鹿でみっともなく面倒臭いやつなんだ。


「……ごふ」


 その吉田は張り付けられた両手にだらりと体重を預けて沈黙した。天井に向く双眸の視点は定まっておらず、顔の穴という穴から汁を垂れ流して放心している。やべえやつだ。


「俺がほしいのは金だ。ほんとは賭金だけでもよかったんだけどよ。お兄ちゃんたちが乱暴するから」


 吉田に話しかけているんだが、当の吉田はガラクタと化している。


「なあ、聞いてんの? もうね、勝った分だけじゃ気持ちが収まんないわけ。だから金庫の金。わかる? 金庫が開きゃ、すぐ消えてやるから」


 裏稼業を狙った強盗か。俺たちが稼いだ金は真っ当なものじゃない。だから盗まれても警察に通報なんてできないし、だいたいが盗まれた後に気付いて泣き寝入りだ。例え手掛かりがあったとしても、その盗っ人を探す人手を割けるほどの余裕は今の神嶽組にはない。


「なあ、おい。聞こえてる? 金庫の開け方、教えてちょうだい」


 気つけのつもりか、プリン頭はぺちぺちと吉田の頬を張るが、何の反応も示さない。仮に吉田が正気だったとしても、金庫の開け方なんて知るわけがない。俺たちはヒロシを借金漬けにするためだけに今日ここにいるんだ。いつも金庫を使うここのスタッフじゃない。


 しかしこいつのみっともなさときたらどうだ。呆れを通り越して、いっそ清々しい。自分の置かれた状況を忘れて、吉田の茫然自失とした姿を楽しんでいると、やつのズボンの股間の辺りが変色し出した。それは足をつたって地面に黄色い水たまりを作る。嘘だろ? 吉田のやつ、失禁しやがった!


「うげっ! きったねえな、おい。お前そんなんでほんとにヤクザかよ」


 プリン頭は吉田の頬を打つのをやめ、汚物から逃げるように距離を取る。


「あーもー! 面倒くせえな!」


 そのまま吉田の脇腹に中段蹴りを見舞った。


「ひっ……。か、紙……紙……。ポケット」


 蹴りのショックで少し覚醒したようで、吉田は怯えながらデタラメなイントネーションで呟いた。


「ポケット?」


 吉田が着ているシャツにはポケットはない。


「ひ、左……。ズボンの、左……」


 金庫の鍵はダイヤル式だ。その開け方を書いたメモを持っているらしい。よりによってなんでそんなものを持っているんだ、といつもの俺なら怒り心頭だっただろう。


「ちょ、まじかよお前、ふざけんなよ。紙、濡れてねえだろうな?」


 だが、今は呼吸を整えることに集中しなくてはならない。プリン頭の不運と、吉田の体をはった嫌がらせが愉快でたまらず爆笑しそうなんだが、いかんせん口を塞がれている。笑いを爆発させてしまえば、鼻呼吸だけでは酸素の供給が間に合うはずもなく、よじれる腹筋の苦痛と呼吸困難で俺は間違いなく死んでしまう。すでに今、鼻の穴が意志に反してピクピクしている。


 やばい、一旦この部屋から意識を遠ざけないと。海だ、綺麗な海を思い浮かべろ。そう、透き通るように青くて珊瑚が豊かに育つ海。だがよく見ると、珊瑚に無数のプラスチックゴミが絡まっている。そのすぐそばでは、ビニール袋をクラゲと勘違いして食った海亀がなにやら苦しそうだ。この海亀は、きっと産卵のために回遊してここにやって来たんだろう。自分の子が豊かな海で幸せに暮らせるように。だが、どうしたことか。以前は綺麗だったこの海が、人間たちの捨てるゴミで危険な場所に様変わりしている。この海のゴミを全て取り除き、海亀が安心して暮らせる環境を取り戻すことが果たして俺たち人間にできるんだろうか? いや、やらなければならない。地球に住む隣人として、その責務を果たさなければ。だって彼らから綺麗な海を奪ったのは俺たちなんだから。


 世界規模で問題になっている海洋ゴミに比べれば、ここで起こっていることなんて大したことはない。ましてや吉田の小便なんて、大海に落ちる雨の一雫にも満たない些事だ。


「あぁー! 端っこ濡れてんじゃねえか!」


 プリン頭は抜き取ったメモが湿っていると見るや、汚物をそうするように床に投げ捨てた。まあ、紛うことなき汚物なんだが。


「くそ……。なんてこった」


 右腕をピンと伸ばし、メモを摘んでいた右手をできる限り体から遠ざけ、人差し指と親指を何度も擦り合わせている。


「よ、よし。……大丈夫だ」


 プリン頭は左手で右手首を掴み、恐る恐る体に近づける。どうやら、自分の指がしょんべんで濡れていないかを擦って確認していたらしい。


「ど、どうする?」


 しかしこの男の狼狽ぶりはどうしたことか。白昼堂々ヤクザから金を奪おうとしているくせに、たかだか吉田のしょんべんごときに顔を青くするなんて。プリン頭は何度もメモを拾おうと手を伸ばしては引っ込めてを繰り返している。


「こうなったら……」


 プリン頭は人差し指と中指をクロスさせ、「えんがちょ」と一声、不浄を退ける太古のおまじないを唱えた。その表情は真剣そのもので、死語とも言えるその言葉が本当に特別な力を持っているかの様に、印を結んだ手をメモに向けている。


 その呪文で、俺の意識は一気に幼少時代へ誘われる。


 えんがちょ。確か小学生低学年の頃だったか、俺が最後に使ったのは。それもこんな切実さを孕んだものではなく、犬の糞を踏んづけた友達をからかうためとか、そんなことだったような気がする。プリン頭はどう若く見積もっても二十歳前、普通に見れば二十代半ばだ。そんな男が不浄から自分を守るために、厳めしい顔をしてえんがちょを唱えるなんて。


 なぜだか胸をきりきり締め付けられた。俺は中卒で頭も悪いし、パワハラ組長の機嫌にビクつく冴えないチンピラだ。それでも、えんがちょになんの力もないことは知っている。


 小学生低学年にとってそうであるように、しょんべんやうんこはこの男にとっての騒ぐべき脅威であり、それを退けるために思いつく唯一の方法が死語にすがることなんだ。


 オツムと精神の幼さをまざまざと見せつけられたからだろうか。だらしなく地毛の黒髪を伸ばし、荒んだ目をしたこの強奪者をどうしようもなく不憫に思った。きっとこいつは俺なんかよりもひどい環境で育ったに違いない。与えられるべき愛情と教養を与えられなかったから、情緒や知性は未成熟のまんま。過酷な環境を生き抜くことで精一杯だったこいつが身につけたのは、昼間にヤクザから金を強奪するようなオツムの足りない奔放さと行動力だけ。こいつは体のでっかい小学生なんだ。


 もう、好きなようにすればいい。


 ついにメモを拾い、顔面蒼白で金庫のダイヤルを回すプリン頭を見ながら、俺は塞がった口でそう呟いた。吉田とプリン頭に感情を弄ばれすぎて、心が誤作動を起こしているのかもしれない。


「……よっしゃ。ひ、百万はあるぜ」


 金を盗られた後はどうしよう。ヒロシだけは捕まえておかないと、今までの苦労が全て無駄になってしまう。そうだ、ヒロシさえいればどうとでもなるんだ。盗られた金は、ヒロシに上乗せして借りさせよう。ここにいるやつらが漏らさなければ、金を盗られたことはそうそうバレやしないし、自分のヘマを進んで漏らすやつなどいないはずだ。


「これでよしっと」プリン頭は懐から出した袋に札束を入れ、ひと心地ついた表情でこっちを振り返る。「こっちのドア、外に繋がってんのか?」


 このスタッフルームは、フロアに繋がるドアの他に、地上へ直接出るための階段がある。何かあった時の避難経路で、ちょうどプリン頭が指差すドアの向こうだ。


 逃げる時にフロアで暴れられたら厄介だ。俺は力強く頷いた。

「サンキュー。その糸、そのうち崩れるからよ。それと、こっちの兄ちゃんな。こりゃダメだ。ヤクザなんか辞めさせた方がいいぜ。まあ、どうでもいいけどよ」


 それは俺が一番よく知ってるよ、いいから早く行っちまえ。


 プリン頭は自分のスマホを弄った後、「じゃーな」と言い残して階段に繋がるドアの向こうに姿を消した。


 目の前からやつがいなくなり、なぜだか少しホッとした。


 さあ、これからだ。気持ちを切り替えろ。しょんべんたらして放心している吉田は役に立たないぞ。俺がやらなきゃ誰がやる。


 まずはどうにかフロアの見張り役と話をしないといけない。幸い脛から下は自由に動くから、フロアに通じるドアに向かってペンギン歩きを敢行する。口を塞がれ、体の自由を奪われてのペンギン歩きは想像以上に息苦しい。知らなかったし、できれば知ることなく生きていたかった。股を開けないからほんの少しずつしか前に進めないし、バランスも取りにくい。


 この状態でどうやってドアを開けよう? そうだな、倒れ込んでドアに体当たりをすれば、それなりの音が出るはずだ。フロアのやつらが気付いてくれるかもしれない。


 普通なら五歩でおつりがくる距離を汗だくになりながら進み、ようやくドアに辿り着いた。つま先と踵に交互に重心を移動させて、振り子の要領で可能な限り大きく反動をつける。バランスが崩れる一歩手前、大きく後ろに背を逸らして、上半身から体をドアに投げ出した。それと同時に急にドアが開く。ちょっと待て!


 開いたドアがカウンターとなって俺の顔面を強打する。物凄く痛い。歯は……よし、大丈夫だ。


「恒川さん! ディーラーのやつが……。つ、恒川さん、その格好どうしたんすか?」


 肩からドアにぶつかる計算だったのに、見張り役がフロア側からドアを開けたらしい。なんてタイミングだ。


「いってえだろが! ディーラーだと?」


 無意識にのどを震わせる。あれ? 今、普通に話せたぞ。ドアにぶつかった衝撃で口を塞いでいたものが崩れ落ちている。ものすごく痛かったが、今日一番の幸運だ。


「あ、はい。ディーラーが突然逃げ出して……」


 見張り役の報告でようやく全てに合点がいった。プリン頭とディーラーはグルだったんだ。さっきプリン頭が逃げる前にスマホをいじっていたのは、多分ディーラーに逃げる指示でも出していたんだろう。ヒロシをカモろうとしていたのに、まんまと俺たちがカモられたというわけだ。


「ヒロシはどうした?」

「原口が見てます。……恒川さん、それどうしたんすか? それに吉田さんも」

「うるせえ、後で話す。奴隷はもう帰していいから、ヒロシのやつを絶対逃すな。奴隷を帰したら、フロアでそのまま仕事だ。お前たちでやれ。あ、それと原口のインカム、俺に寄越せ」


 俺は人形のように床に転がったまま、あれこれ指示を飛ばした。パチンコ屋からこっちに来て、嘘みたいに色々起こった。だが、どうにか目的は達成できそうだ。


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