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ひぃちゃん、つれづれ  作者: メラニー
16/25

身近な人の死と向き合う事

 いつも前向きで、強い人で、楽しい事とおいしいものが大好きで、いつも冷静に物事を受け止めて、悲観なんてしなくて、自分の体で何が起こっているのか理解しようとする人で、弱音なんて全くといっていいほど言わなかったひぃちゃんだが、一度だけ珍しくダイレクトに本心を吐露したことがある。


 病院からホスピスへの転院になるかもしれないとなった時、その時点で、少なくともひぃちゃん自身は自分の命が近いうちに尽きることを感じていたんだろう。

 私たちが思うよりももっと早い段階でそうなると。

 (私たちはなんだかんかだで夏ごろまでと思っていたし。でも本人も退院してしばらくは……とは思っていただろうけれど)


 見知った看護師さんや先生に看取られるのではなく、ホスピスへ移動してしまうと知らない人に最後を預けることになる恐怖や寂しさ、そもそも、ホスピスに行くという事。

 それらを受け入れないといけないことは百も承知の上で溢した言葉だった。

 「家族の負担にはなりたくないけど、本心を聞かれるとお家に帰りたい。猫たちに囲まれて、私は怖がりだから家族に手を握っていてもらいたい」と。

 私は何も反応できなかった。


 自宅介護の辛さを知っている分、その負担をかけたくない気持ちも理解できたし、一人で逝く事……、手を握っていて欲しいというその怖さや寂しさも想像するだけで胸が痛かった。

 なにより、今まで弱音を言わなかった人の、ただ一瞬だけ見せた弱音。本当に一瞬。その後すぐに「良さそうなホスピスを探す」と顔を上げるのだ。


 刹那……


 その刹那の本音というか、ピュアすぎる弱さというか……それが私には辛すぎた。

 目を瞑ってしまったのだ。


 でも、その事を言えばよかったと今はすごく後悔している。

 ごめんね、ひぃちゃん。

 向き合う事が出来なくて。

 私の弱さだ。

 いつも心配をかけないようにしていたあなたが眩しい。



 私は近々で言うと、ここ4年の間に祖母を亡くしている。

 父方も母方も。


 妹を亡くしたのはもっと前の話。

 でも妹は長い間入院ののち一度心臓が止まり、蘇生したので脳死状態でその後も長かった。

 もうかなり覚悟は出来過ぎるくらい出来ていた感じがする。


 その前の母方の祖父の時は肺がんで入院していたのだけれど、妹の入院も重なっていて母がその付き添いをしているので、私は家事と仕事、それに母親に祖父の死に目に傍に居させてあげたいという必死さがあった。

 その日は用事をすべて終えてから、一度祖父の様子を見に行き、すぐに飛び出し、母親と妹の付き添いを交代をしたりで、気持ちがいっぱいいっぱいで張り詰めていて、きちんと向き合っていなかった。

 恐ろしい事に、母親が祖父の死に目に間に合って、達成感すら持っていたと思う。


 父方の祖母は車で行けば2時間くらいの距離なのだが、時間がどうしても作れなくて、最後に間に合わなかった。

 それももう危ないと聞いてからすぐだった。

 あっという間過ぎて、気持ちが追いつかなかった。

 会いに行かなかったことは未だに後悔している。


 ちなみに父方の祖父は、もう記憶があいまいなくらい小さいころの話だ。

 死という概念が分かっているようで、心底理解はしていなかった。


 それに比べて母方の祖母の時は、そうでは無かった。


 近くに住んでいた祖母だったが、痴ほうを患ってかなり重度だったので、同居するようになった。

 痴ほうだけど、人に話しを合わせるのが上手で笑わせてくれた。

 母の事を「私のお母さんか?」と言うくらい徹底的にボケているのに、何となく孫の事は分かるのか、わからないけど合わせているのか、私の事わかる?って聞いても「わかるわかる。」といつもニコニコ。

 攻撃性も無く、のほほんとしたボケ方だった。


 入院しなくてはいけなくなり、意識はあるけれど食べられなくなった祖母の延命をどうするかという決断を迫られた祖母の子供たちは、苦渋の選択で延命治療を選ばなかった。


 もう胃からの食物の摂取ができないし、どこもかしこも老衰だった。呼吸も浅く、呼吸器をつけていた。咳も出来ないから痰もたまる。肺が溺れていく。

 点滴で栄養をいれると、延命が出来るけれど、それが苦しみを長引かせることは明白だった。


 水分は入れないと人道的ではないと、点滴で水分だけは供給される状態で、1週間だと告げられた。


 決断された日からお別れまでの一週間、私は毎日のように病院へ通った。

 もうどこまで理解しているのかわからない祖母に顔を見せに。

 いつも、ニコニコしてくれた。


 もう命が短い事が理解できるのかどうかもわからない。

 でも、もしわからなかったとしても、私の悲しい気持ちが投影されて、辛い気持ちにはさせたくないと思っていたので努めて明るく接していた。


 しかし、もう明日は言葉が届かないかもしれないと思った日、「あのこと覚えてる?祇園祭の巡行の日、昼過ぎてから出かけて暑くてかき氷を買ってくれたこと。」まだ私が保育園の頃の話だ。

 今思えば、まだ山鉾がそのままかもしれないと、混雑を避けて連れ出してくれたんだろう。(粽を買いに行っただけかもしれないけれど)

 でも、私はその日山鉾を見たかどうか覚えていない。興味が無かったから。

 それよりも、暑くて歩くのも嫌で、景色がすべて陽炎で歪んだアスファルトと電柱だった。


 でも、買ってもらったイチゴのかき氷だけ、鮮明に残っている。

 話すと、どこまで本当かわからないのだけれど「うんうん」と祖母は言葉を出せないので、目線や小さな動きで肯定を伝えてくれた。


 そして私は、祖母と二人っきりなのをいいことに「いつもご飯を作りに来てくれて、ありがとう」「買い物にも映画にも連れて行ってくれてありがとう」「おばあちゃん、大好きやで」と話すと……、私はきっと泣くのが我慢できないという顔をしていたんだろうと思う。

 祖母が理解したのか、やはり私の気持ちに共鳴してしまったのか、泣いてしまった。

 ごめん、大丈夫、と何度も言って謝った。


 それから数日後、祖母は静かに、親族に見守られながら息を引き取った。

 告知から一週間と二日だっただろうか。

 きっと初めてきちんと、身内の死と向き合った看取りだった。



 祖母は親族に囲まれていったんだなぁ、という気持ちと、死と向き合って受け入れる心構えをすることと……

 ひぃちゃんの話を聞きながら、心の中がごちゃごちゃだった。



 自宅介護は本当に大変。

 看護体制はは24時間体勢なのは当たり前の話だけど、病院だと医師や看護師、補助する方など数人でカバーする事を一握りの家族……最悪の場合、一人がそのすべてをすることになる。


 胃ろう(直接胃に栄養のある食品や水分を流し込む)や気切(喉の下あたりを切開して、そこから呼吸できるようにする)をしていたら、なおの事。

 胃に流し込むのも、急激に流し込むと血糖値が上がり過ぎるから、流し込まれる速度を調節して何時間もかかったりすることもある。


 気切だと、痰や唾液がたまるのを自分ではどうする事も出来ないので、頻繁に気切からチューブを差し込み吸い出さなければいけない。


 寝返りができない人だったら褥瘡じょくそうが出来ないように定期的に、圧力がかかる場所を変えてあげたり、褥瘡が出来た人には、薬(といっていいのかわからないが、妹は医療用の黒糖だった)を大量に塗ったり、血流が良くなるようにマッサージしたり。


 気切の入り口部分の気圧の管理、血中酸素を常に気にして……

 おしっこや大便の処理も、お風呂のことも全部だ。

 着替えだけでも簡単にはいかない。

 体が大きい・重たいの他にも管がいっぱいついているのだ。


 自分で出来ることの多い人の介護はここからある程度楽にはなって来るけれど、それでも気が休まるものではない。

 その苦労が分かっていて、将来的にそうなるかもしれないと想像していて、それでも家に帰りたいという葛藤。

 辛かっただろうな。


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