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我が軛は鋳鉄なれど

作者: 歌島 街

 暑熱がドアから滲んでいた。捲くし立てるような虫の鳴き声が、男の耳を叩く。神様が地球の暖房を消し忘れている。男は現状をそう捉えた。

 ビール腹で視認できない脚が玄関から離れない。昨日は呑み過ぎた、今日はやめるか。しかし、腹回りの肉がスーツのベルトに邂逅を果たし、中性脂肪の数値が学生時代に得たこともない高得点を叩き出した今、やめるわけにもいくまい。

 それに、この服、金かかったし。いつも形から入る男の懐事情は年中寒かった。

 半袖化学繊維シャツは鎖帷子、靴底に空気が内包されているグレーのランニングシューズは鋼鉄のようで、飲み会の時と同じように気分を沈めさせてくれる。蟒蛇(うわばみ)のごとく酒を消費する営業課の中で、誰よりもアルコールに弱い男は肩身が狭かった。でも、昨日はジョッキ半分も呑んだし。過去最高の記録はジョッキの底から指二本の位置(ツーフィンガー)だ。

 やっとの思いで鉄扉を開くと、膨張した大気が入り込んできた。息を止めながら外に出る。恐る恐る外気を吸う。即座に肺が燃焼して、毛穴が覚醒した。

 あ、鍵。

 焼けるドアノブを引き、固く縛った靴紐を解き、机の上で鈍く光る鍵を手に取る。冷風にさらされた鍵が、掌を突き刺した。まるで磔刑だ。貸し部屋据え付けの古いエアコンは、設定温度になっても運転が停まらず、放置していたら時代を氷河期に戻せてしまえそうだった。それでもいいかもしれない。床の隅までカーテンレースの紋様が這っていた。うねるレースがフィラメントのような白光をしているのだ。

 逡巡した男は顔を上げ、外へ飛び出す。腕のホルダーにスマートフォンと鍵をしまい込む。部屋でまとった冷気は、瞬く間に日光に溶かされた。昨夜、後輩で部下の男が路上に残した吐瀉物も、いい塩梅に焦げているだろう。



 袋小路にある男が居を構えるマンションを脱すると、昔懐かしい四畳半アパートがあった。モルタルの壁面には所々亀裂(クラック)が交錯している。アルミサッシの窓から干された敷布団たちは、出立を見送る黄ばんだハンカチーフのようだ。

 湿気が多分に含まれる空気は重い。見えない抵抗を感じながら、男は走る。それは走るというよりも、糊付けされた足の裏を一歩一歩地面から引き剥がす作業のようだった。贅肉で振動する身体は左右に振れ、着地の度に腹が波打つ。アスリート達の誠実さを顕現する金剛石の肉体美を想像し、己の不誠実の塊の肉が憎い。

 曲がり角の先、道路を占有する重機があった。高所作業車の伸縮台が伸びて、浅黒い肌の男が作業をしている。安全帯(ハーネス)鉤爪(カラビナ)を打ち鳴らしながら。ヘルメットには大量の所有資格を表すシールが貼られていた。電柱から広がるコード線が揺れて、空を掻き乱し、雲を分断している。

 数年前に鬼籍に入った父親も、同じような仕事に就いていた。電信柱はな、俺たちが手入れしてやってんだ。俺らは、言わば、白血球だな。電気は、国の血で、赤血球を流す電線は血管だ。ある日、白血病で父は倒れた。

 病床に着いても、父親は学び続けた。死後整理した通信講座のテキストには、試験日まで逆算された日数が記されていた。艶やかな三角コーンを回り込んで、男は前進する。

 硬質な建物が林立する地域を抜け、見慣れた四つ辻に到着し、歩行者用に塗られた白線の内側に男は収まる。街路樹の根が顔を覗かせるアスファルトのひび割れに、脚を取られそうだ。宇宙服のインナーに使用されている素材と同等と言う触れ込みの運動着を掴み、扇ぐ。間髪入れずに肌と癒着した。ひょんな拍子に外れてしまった皮膚が、元に戻ろうとして崩れたまま。そんな違和感に抱かれる。もう帰りたい。帰ろうかな、冷房の効く我が家へ。

 背後に何かを察知した時、破裂音と共に車が通りすぎ、前傾していた男の背筋が弓のごとく反れた。厚いバンパーに見え隠れするタイヤが道路を舐めつつ去り行く。

 さ、最近の車は、ずいぶんお行儀のいいことで。

 心臓が高鳴る男を、麦わら帽子をかぶった夫婦と思わしき老人二人が、仲睦まじく追い越していく。骨と皮ばかりの手に持ったペットボトルの中で、太陽の子供が泳いでいた。



 住宅街の一角にポツンと時代に取り残された神社があった。男の肩より低い苔の()す玉垣は、常世と此の世の境目だ。境内には線香花火を逆さにしたような穂の草が芽吹いている。鳥居が敷石に影を落とし、年寄りが賽銭箱にむかって礼をしていた。

 そんな厳かな空間の真反対では怒号が飛び交っている。マンション建設予定らしい。腰を九十度曲げたキャラクターの立て看板がある。粉塵防止の囲いの中で岩石を砕く音がしていた。都会はすぐにコンクリートが生える。空地は存在を許されていないようだ。水道管工事のために切除された道路から、オイルの臭いが立ち込めていた。

 時間が経過し、男の動きは泥濘に足を深く突っ込み、引き抜くのもやっと、という有り様だった。モノクロの映画で観た、軛で繋がれた二頭の牛を男は想起した。

 頂点の座を退いたはずの日輪は、皮を焦がすだけでは飽きたらず、体の内側まで侵入してくる。汗の衣が男の輪郭と一体化し、真横から見れば舟の帆だ。おまけに、臀部の渓谷に流れる汗にて両山が結合。ひたすら不愉快。

 緩やかな上り坂に差し掛かかり、男の獣性はなおさら強調された。イメージが豚ではなく牛なのが、せめてもの救いか。できれば馬になりたい。発汗で体温を調整できるのは、地球上で人間と馬だけらしい。首筋を撫でると、粘性の液体が掌全体にへばりつく。汚い。


 ふと、猿のような、黄色い声が聞こえてきた。坂を先行して歩く、制服を着た女子三人組の声だった。

「タピめっちゃ余ってっし、きんもっ!」

「マ? それ、マ? つか、ストロー逆じゃね?」

「どーりで吸えねと思ったぁ。ベロいてぇし。かれぴとちゅーできねぇ」


 彼女たちの手には円柱型の入れ物があり、底部に黒玉が敷き詰めてある。だがそんなものには用はない。

 汗で肌着同然のブラウスは背骨の起伏すら正確にトレースし、彼女たちの秘め事を白日の下にさらしている。さらに、短いスカート――藍色の縞模様プリーツが軽やかに揺れて、灼熱の昼下がりに不可思議なる極光(オーロラ)が現れていた。その幻想の下には白亜の(ひかがみ)。さながら肌色の氷塊である。地獄に女神とはこのことか。牛よりも遅い男の足運びはさらに低下し、ピッタリと女子たちの後方斜め位置に陣取る。後ろから少年の駆る補助輪をつけた自転車がベルを連続で鳴らし、男を避けていく。

 ああ、納涼だ。うおっ!?

 オーロラが翻り、氷塊が伸びる。静脈は青天の霹靂だ。あれは何だ。男の虹彩が拡大する。決定的瞬間を見逃さないよう。たとえこの目玉が焼かれよう、と、も?

 電気自転車に跨がった中年女性が眼前に出現し、脳が回転し、視界は反転し、心が爆ぜた。

 重力が前後不覚である。舗装は存外に固く、熱い。ロックが弛かったのか、腕ホルダーから外れたスマートフォンが坂道と烈しく接吻しながら滑る。


「あら、あら、あらぁ~? ごめんなさいねぇ~」


 機械の相棒を唸らせて、有閑婦人(マダム)が離れていく。男を一瞥もせずに。

 女神(JK)たちはしかめ面して消える。仰向けになっても自分たちから目線を外さない男を侮蔑しているのだろうか。

 昼の熱を保持したアスファルトが全方位から男を灼く。背中の一部がめくれて露出していた。今ならフライパンに乗る玉子の気持ちが理解できそうだ。

 トラックが地を鳴らした。無機質の翼が織り成す轟音に小鳥の囀りがコーラスを添えている。

 足先に何かが触れた。蓋の開いた容器だ。そこから転がってきたデンプンの玉がハーフパンツに入り込んできた。汚ったね。



 細いタイヤ痕が身体の中央にある毛虫は、両端から抱えきれなくなった荷物を地べたに広げ、息絶えている。

 赤錆がまだら模様の格子が開け放たれていた。鈍重な門構えだった。ステンレスの掲示板が括り付けられ開園時間が表記されている。

 目の細かい網を持った男の子たちが、男とすれ違う。彼らの腰元の透明な(はこ)の中で騒ぐ蝉は、無実を訴える囚人のようだ。

 男は、男性にあるまじきたおやかな乳房を持ち上げた。雫が肌を伝っていく感覚。蝉が無罪なら、俺は暴飲暴食の咎人だな。残念ながら豚を裁く法律はないぜ、神様よ。不規則な凹凸の幹で構成される樹木は、怒れる神が地に突き立てた、緑の雷光だ。樹肌にしがみついた蝉たちが声を枯らしている。

 園内に足を踏み入れ大通りを行く。蓄音機のような蓮の葉が多生している池が見えてきた。背が伸びた葉は(こうべ)を垂れ、黄ばんで、朽ち始めていた。

 池で行水する鴨の親子は、水面を波立たせない。池の縁に座る老人は紙煙草を吹かして釣糸を垂らし、魚の幻影を追っている。短くなった煙草が(ひだ)まみれの口から飛び、湿灰は波紋に連なって拡がり、煙草は一所(ひとところ)に停滞し続ける。有刺鉄線のフェンスに囲われた水質洗浄機のポンプが懸濁する水を吸い上げ、透明にして吐き出す。

 中央広場の剥げた芝生で親子がサッカーに興じている。カメラを回している朗らかな若い男女の集団は、楽しそうに何を撮影しているのだろうか。恐らく大学の映画サークルか。仕事ではないだろう。労働はあのような快活さとは無縁だ。

 ふと、嫌な思い出が男の脳裏をよぎる。いつしか部下と歩く姿をテレビカメラに撮られていたことがあった。顔面が土色の巨躯サラリーマン二人は、家畜の牛だった。社に戻り「ワイドショーに出演」と囃し立てる周囲が、破談になった商い話を嘲笑するように感じ、男は哄笑の遊戯に参加した。社内では小声で流暢に喋るが、取引先では口を開かず、出された飲み物にいの一番に手を付ける部下は、目尻に皺だけ寄せる愛想笑いをしていた。


 人から隠れるようにして男は別道を選んだ。隘路に侵食してきた蔦が脛を打つ。濡れた靴下が臭気を放つ。草葉の影でホルスタイン柄の野良猫が、鋭い眼光を男に向けた。

 繁茂の園で蝉の求愛が降り注ぐ。その間隙に、牧場と聞き紛うほどの、牛の遠吠えがしていた。狭所を抜けると、それは、どんどん肥大化してきた。

 路傍の茂みを挟んだ所で、青年が一心不乱に吹奏楽器を吹いていた。木の葉を貫いた光を吸って、楽器が輝いている。音楽知識など一切持ち合わせていない男でも、その技量が理解できる程の腕前だった。全然、巧くならんヤツだ。

 陽氷の時分から、同じ場所で青年をよく見かけるようになった。トランペットだか、サックスだか、トロンボーンだか、チェロだか、チェコだか、スロバキアだか知らんが、耳障りだ。離れたところで日光浴をしている上半身裸の男たちが、青年を指差し、笑っている。臭う靴で、男はさらに歩を進める。

 あの青年は、雑音まみれのこの世界で、何を、どうしたいのだろう。せめて、他者に埋もれないよう、自己主張するのか。少なくとも前よりは巧くなっている。抑揚のない単音を吐き出すだけだった演奏は、連続した音を出し、辛うじて旋律を紡いでいた。


 男は小高い場所にある公園管理事務所の脇に移動した。

 スマートフォンを腕から取り外す。線の雨が降る画面には、なんの通知もない。このスマホ買ったばっかりなのに。Tシャツに視線を移す。猛禽に裂かれたような半袖の破れは肘とサドルの二重攻撃によるものと思われるが過失責任の割合は五分五分だと考え黙っといてやるという結論に至った。太平洋より広く寛大な俺の器に感謝してほしいもんだ。後にして来た蓮池を見やり、男は独りごちた。

 モーターが呻吟する割高な自動販売機にて、スポーツドリンクを購入。糖度の行き過ぎた清涼飲料水が(はら)を経由して全身に浸透し、汗が噴出する。体熱が風に乗っていく。段々腹の間に挟まれた汁だけが、いつまでも残る。

 砂糖こそが、人類史上最も人間を蝕んだ毒物であるという学者の説諭も、一理あると思った。でも全部飲み干すけどな。最後の一滴までペットボトルをしゃぶり尽くす。かえって喉が渇いた気がした。

 園を見下ろせる丘から、下界を眺める。斜光の射す走行者用コースには、色彩豊かなウェアの人々が溢れていた。無数の蹴り脚が、(うた)た寝した熱を叩き起こしている。男は鼻白む。人熱(ひといき)れの渦か、俺は馴染めなさそうだ。

 そんな濁流の中に、(とろ)があった。

 アンティークショップから抜け出してきたような舶来人形――道幅を奪うゴシックファッションの女を、ランナーたちは迷惑そうに避けていた。ブラックフリルな傘とフレアスカートの出で立ちは、屋根の傾いた二重の塔のようだ。

 気合い入ってんな若者よ。いや、若くもなさそうか。

 女の、年齢を覆い隠す厚化粧には脂汗が浮いていて、露出した鎖骨には白粉(おしろい)溜りが。見知った人物の気がした。

 いつかの、テレビカメラに自分が映っている事を教えてくれた事務の女に似ていた。愛嬌がなく、要領が悪く、小太りの、未婚で、笑顔も事務的な女だった。

 始終謝り続けるその女は、お局に眼をつけられ、イビられ、他社から届いた中元の菓子も回して貰えず、何時の間にか会社から消えていた。

 園内の調和を乱す黒一色の女は、彼女に酷似していた。男は更に凝視する。

 黒傘の下には、人工的な睫に縁取られた濡れ瞳、不均整な唇――遅咲きな躑躅(つつじ)のルージュが、妖艶に開花していた。雌蕊(めしべ)のような蠢く舌に誘われて、あらゆる(オス)が、飲み込まれてしまいそうだ。

 息を止めていた男は生唾を嚥下して、目を堅く閉じた。ぐっ、とくる。いや、まあ、ブスなんだけど。口呼吸をする女の顎肉がミルフィーユになっていたことを考えて、昂ぶる気持ちを抑える。でも、もう少し見てようかな。あっ!?

 女は背を向けていた。なびくスカートの裾が別れの挨拶をしている。さ、さようなら。男も手を振った。背面の今にも羽ばたきそうな蝶結びのコルセットベルトが、男の未練を引っ掻き回す。もし、あの封印を解いたら、女の肉はどう弾けるのか。気になる。すごく気になる。

 カラフルな人流れに迎合することなく、黒い女は背筋を伸ばし歩いていく。少なくとも会社に居た時よりは溌剌としていそうな彼女だった。本人かどうか、定かではないが。

 男は半透明の筒を握り潰し、プラスチックを嘔吐しているゴミ箱の横に置いた。早く回収に来いよ。靴紐が弛かった。足を伸ばしたままだと手が届かないので、尻もちをついて直す。汗を吸った紐は温く、蚯蚓みみずのようだった。あっ、まだタピオカ付いてやがった。脛毛に絡み付く黒糖の玉をまとめて雑草の中に投げ棄てる。

 傍の木から蝉が飛び立つ。体液で空に逆さまのアーチを架けて。敷地の隅で、金管楽器が独りで吠えている。

 半端な生命など薙ぎ倒されてしまう時節に、皆何をしているのだろうか。俺も。



 紫陽花(あじさい)の花弁より濃い色が空を支配し、落陽が男を追い立てて、影が夕闇と手を繋ぐ。乳酸の蓄積した筋肉が疲弊を訴える。汗が引いた腕の表面は塩で覆われている。胡椒をかけて焼けば、酸味も相まって立派なポークソテーになれるだろう。

 帰路は、往路よりも人通りが少なかった。高架と並列して走る道には排気ガスの匂いが満ちている。古い外灯が等間隔にある道で、夥しい蛾が灯りに群がっていた。鱗粉が照らされ、火花のように夜に舞い、闇に飲まれていく。

 しばらく進むと頼りない人工光の元で、赤ん坊を前掛けにした女が、しゃがみ込んだ少年を睨んでいた。後ろ髪を汗で撫でつけた少年は口を尖らせ、反抗を表明している。癇癪おこした子供か。大変だなぁ、お母さん。不和な家族と十分な距離をとって迂回し、男はその場を通り過ぎる。


「コラ! 停まりなさい!」


 急な、怒気を孕んだ声に、男は委縮した。先ほどの少年が視界を横切る。母親らしき女は、鬼の形相。男も逃げたくなる。

 少年はソールが光る靴を履いていて、可愛らしい音を立てながら加速していく。再度、怒鳴り声。少年は加速度的に遠ざかる。行く先には横断歩道があり、信号が設置された柱には『交通事故多発注意!!』の立て看板が。今も、走る大型車が深紅のテールランプで警告をしている。

 まずいだろこれは。男も重い腿を跳ね上げる。昼間の牛歩ランナーではなくスプリンターのイメージで体を動かす。なんでなんで? おれのせい!?


 前を走る子供の服がはためき、薄明りを乱反射させた。街灯が作り出すスポットライトは惑星のようだ。間の(そら)を、遊星となった少年が星間飛行していく。星の屑で軌跡を残しながら。その瞬きに惹かれるように男も追随する。

 鼻と口から燃える二酸化炭素を吐き出し、温い酸素を取り込む。空気と混合された血液を、鼓動が早まる心臓が循環させる。筋繊維が引きちぎれ悲鳴をあげる。毛先から汗が飛び、地面で砕けるその前に、肉体は彼方へ向かう。小さな背との距離が徐々に縮まる。

 もう少しだ――んなっ!?

 追い付きそうになって、西瓜の断面みたいなマンホールに足を取られた。(からだ)が凭れる。一瞬振り向いた少年が、恐怖と焦燥と不安の入り混じる目を見せた。息巻いた中年男が接近してくれば、その反応は当然だろう。少年の靴が鳴るストロークは短くなった。先の道路を行くトラックのライトが男の目を貫く。地獄への直行便か。地踏鞴(じたたら)を踏んで転ぶのを防いだ男は、意識を集中する。五輪決勝の優勝者のパフォーマンスだ。

 肘を曲げた上腕を膂力任せに後ろへ引く。対角の足が反発するように前へ出て、足裏が大地を掴む。土踏まずが荷重を分散し、重心が進行する。これが走るということか。正確なフォームが導きだす推進力は、贅肉が垂れる暇も与えまい。

 馬よりも速く、星よりも光速で、疾駆しろ。驚くことに、男の靴は主の想いに応えた。エアーソールが着地の衝撃を吸収し、変換されたベクトルが跳躍を促進させる。

 月面のような浮遊感がある。意識を置き去りにして、尖鋭化した感覚が前進を命ずる。思考は必要ない。あらゆる観念は不要だ。理屈の一切が、衝撃の度に肉体の檻から排撃され、体が灼熱を帯びる。小さな存在はもう目の前に。

 少年は確かに速い。だがそれは、子供の軽さ故の速度であった。頭がグラついて、体幹がブレている。肢体の動きが未熟なマリオットみたいに滅茶苦茶だ。覚束ない重心が脚の回転を鈍らせている。

 かつて獣を追って荒野を駆けた男たち。獲物を得た後、彼らは何を望んだのか。疾く在りたいと願うのは、太古に忘我された動物の本能か。振り子運動する上腕から、塩の結晶が分離していく。心臓の鼓動がうるさいほど高まって、世界は恐ろしいほどに静寂だった。全身の細胞が歓喜の賛美を歌いだす。

 よし、間に合った。少年を追い抜いてから余裕を持って反転。両手を広げて進路妨害。男と比べて幾らもない体重の子供が、脂肪のエアバッグに埋もれた。

 もがく男の子を腕で押さえ付ける。遠くから赤子と女性が向かってくる。頭上では、歩行者信号機が青緑色の点滅をしていた。

 母親が男に感謝の意を述べて、立ち去る。柳のように垂れた肢体が反応した。赤ん坊がえづく。母のため息が、産毛の揃わない頭頂部を撫でていく。

 無言で手を引かれていく少年が、何度も振り返り男を()めつけた。駆けっこで捕まったのがよほど悔しかったのだろう。さよならは言わずに両腕を組んで睨み返す。また会おうぜライバルよ。

 三人が点になるまで見届ける。久しぶりに、かあちゃんに電話しようかな。信号機が何度も色を切り替えて、男の影絵が出来ては消えた。



 エレベーターが開き、セメントの通路を虚ろに歩く。上半身と下半身が仲違いをしているようだ。腰を揉みながら、男は自室を目指す。

 突然、腕のホルダーが光を放った。電子画面には『飲み過ぎました、おはようございます』という部下からの通知。いま起きたのか痴れ者め。だが、よく見ればアプリケーションの通知は何件もたまっていた。いつも電波と時間に囚われている。自由なのは走る時だけだ。

『明日は遅刻すんなよ』という返信に、尻をこちらに向けながら犬小屋に潜る柴犬のアニメーションの返しがきた。意味が解らない。汗腺をフル稼働させた中年の自分撮りでも送ってやろうかと思い、やめた。代わりに、真っ赤な顔の牛が鼻息で鼻輪を外し爆走するスタンプで返信しておく。あのアホが。

 食べたカップ麺の蓋を食堂のテーブルに毎回置き忘れるような後輩だが、不思議と人は悪くない。誕生日プレゼントも毎年欠かさずくれる。今年はオルゴールだった。ちょっと気味が悪い気もするが、寝付きが良くない夜に重宝している。今夜も聴くか。

 早くシャワーを浴びて一日の疲れを洗い流したい。切実にそう思う。鍵穴が主の帰りを待っている。焦るな、あせ、る、な?


「あれぇ!?」


 上ずった声がドアに跳ね返って、投函ポストの蓋をバタつかせた。

 ホルダーに入れたはずの鍵がない。地団駄を踏む足首が、焼け付くように熱い。どこで失くしたのか。あれかババアの時か。くそ、やっぱ文句言っとけばよかった。鍵開けの業者は高いんだぞ。ネット検索でサービスを探してみる。傷だらけの画面が見にくい。やはり、夜だと割り増し料金だ。金三万五千円(なり)

 扉の前で鼻息荒く懊悩している男を、一陣の風がくすぐった。秋を身籠った、優しさだった。業者呼ぶ前に交番でも行ってみるか。灰色の踵を返して、また駆け足。


 何処かにある、平凡な街の、よくある通路に夕飯の香り。休日の喧騒が欠伸する幕間。白線を影が塗り潰していく。暗道に小気味良い音がする。男の内に、夏が燻っている。


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