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短編集・散文集

ジン・トニック

作者: Berthe

庸介ようすけ莉奈りな

 読んでいたアメリカの犯罪小説家パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーが、冒頭から警察官らしき追っ手の目をくらますために入ったバーで、ジントニックを、と落ち着きはらって頼む姿にみごとに触発された庸介は、ちょうど夕飯の買い物に出なければいけないのをいいことに小説を中途で投げ出して、近所のスーパーへ寄るだけにもかかわらず一応はスウェットをぬぎ捨て外出着にめかしこみ、鏡のまえで前髪を入念に整えてから財布の中身が間に合うのを確かめ、それとスマホをブルゾンのポケットへ突っ込んでドアをでるや否や鍵を忘れたのに心づく。せっかく結んだばかりのコンバースオールスターへちらっと視線をやって口元をわずかにゆがめたものの、時を移さずドアをひらいて玄関に腰をおろすと、律儀に靴紐を解いてぬぎ踵をそろえて並べまでして部屋にあがり、ほどなくテーブルから鍵をブルゾンのポケットへすべり込ませふたたび靴をすばやく結び直し外へでて鍵をしめるのを待たずに手がかじかむので、すぐに鍵をまわしたその手をすっと口元へ持ってゆき息を吹きかけ、ぬくみが冷めないようさっとブルゾンのポケットに突っ込むとアパートをあとにした。歩道へ出てまもなく首周りにマフラーが欲しいと思うそばからどうもこの格好にしっくりくるものがないといつもの思いにとらわれ一瞬肩をすぼめたものの、にわかに姿勢を正して風を切るごとく颯爽と歩を進めながら見慣れた光景を見るともなく見ていると、正面の暗がりから女が近づいてきて、彼のすこしまえでぴたりと足を止め、庸介どこ行くの? と訊くので、買い物、一緒に行く? そうこだわりなく返すと、莉奈は彼が隣に来るのを待ってくるりと向き直りさらさらな横髪をきゃしゃな指でとかしつつならんで歩きながら、うん、行く、じゃあわたしが行ってもいなかったんじゃん。でも莉奈、鍵もってるでしょ、大丈夫じゃん。そうじゃなくて。言ったままこちらを上目遣いに見つめてむっとしているので、冗談だよ。何が冗談なの、笑ってるじゃん。笑ってないよ、とりあえず行こうよ、と庸介がいうと、行く、とそれ以上は追及しない。仕事帰りなのでいつもよりもカジュアル度を抑えたように見える彼女の格好もあるいはコートをまとっているためにそう見えるだけかもしれず、首にやさしくまきつけられた濃紺のマフラーがただでさえ小さな顔をさらに小さくして、肌はいつものようにしかし周りが闇であるぶん一層抜けるように雪を欺くばかりであるのが一定の間をおきながら訪れる街灯のひかりによって知られ、彼はいくぶん満足を覚えながらそのまま足もとをみると、ふたりの呼吸が微妙にことなっており、隣り合っているはずの莉奈が自分よりもほんのすこしだけ後ろを歩んでいるのが、意識された選択なのかそれとも癖になっていて普段からそうなのか可笑しくも健気に思いつつ立ち止まるともなく立ち止まると、莉奈は二、三歩まえに進んだだけですぐに足を止めて、向き直り、どうしたの? 訊くのを、なんでもないよ。そう答えると、彼女は彼をおいて先を行くでもなく、マフラーをまいているのだから暖かいはずなのに肩をきゅっとすぼめつつ彼が自分のもとへ戻って来るのを待っているので、庸介にはそれが今の瞬間とてもいじらしく、この子は年上なのに、ひょっとすると年上だからこそ可愛くてしかたないという感慨にいつもながら、しかし強烈に襲われる。そんな埒もない想いにふけりながらそれはもちろん彼女には言わずにおくうち、何しろアパートから看板がみえるほどの近所なので、まもなく彼らはスーパーにたどり着くと、ウィーンと滞りなくひらくドアにすこしも逆らわずなかへからだをすべりこませるや否や別世界の暖かさに思わずふたりは笑みがこぼれて顔を見合わせる。買い物かごをとってそれほど混みあっていない様子の店内へはいると、莉奈はかごを持った彼を向きながら、総菜にする? それともわたしが作ろうか? と言ってくれる彼女に頼めば疲れをおしてつくってくれるのも重々わかりながら、ちょっと悪いという気持ちとむしろ今日はつまめればいい、だって酒を買いにきたんだから! と、今になってようやく当初の目的をおもいだしたように急にピンと来て、総菜にしよう、でもそのまえにちょっとお酒みたいんだけど。お酒飲むの? わたしも飲もうかな。莉奈はうきうきと、先に立って導くようにすたすた足取り軽く進むのを庸介もべつに止めずにいると、彼女はワインや日本酒、焼酎や蒸留酒がならべられたコーナーを一瞥することなくそのまま通り過ぎてビールやチューハイがならぶコーナーへと足早に消え去るので、庸介はふとしたその場の思い付きから彼女のあとは追わずにするりと目当ての場所へと入り込み、目で探しているうちほどなくいくつかの種類のジンがならんでいるのを見つけ、その中から第一印象で、ボンベイサファイアとタンカレーのふたつをピックアップするかたわら、スマホで『ジントニック ジン種類』と検索をかけサイトをひらいた矢先、ちょっと、と、すこし寂しそうな笑みをうかべた莉奈が両足をそろえてひょっこり姿をみせるので、これとこれ、どれがいいと思う? ボンベイサファイアとタンカレーのふたつを交互にさしながら訊ねると、え、待って、と言ったきり、ちょっと黙ったかと思うと人さし指をぴんと突き出し、水色綺麗だね。確かに、と言うなり彼は黙って、スマホに目を落としながら改めてジントニックにおすすめのジンを調べてみると、どうも緑のガラスがこちらもあざやかなタンカレーのほうがジントニックには最適らしいので、彼女をむいて瞳をとらえながら口角をほんのすこし上げる微笑をみせた流れですうっと向き直り、緑のボトルへ手を伸ばし引きよせ、表をみているかと思うとひっくり返して、度数やら名称やら表でも分かることを再度確認するともなく見つめているうちボトルが買い物かごに吸い込まれる。それにするの? と、童顔とはまた違うもののしかしとことん愛らしい驚きまじりの微笑でいうので、うん、とこちらも微笑でかえしながら、もう足は次の目的地への一歩を踏み出してにわかにボンベイサファイアに目をやり、伸ばした手でつかんでこちらも表をみているかと思うとひっくり返して、何やら頷くと、やっぱりこれだね。買い物かごに入ったタンカレーを彼が一瞥して言うと彼女も、うん、そうしよう、と答えてくれる。庸介が次はビールやチューハイがならべられたコーナーへ向かうのに莉奈もぴったり寄り添い、こんどは置いていかれたくないとでもいうようにブルゾンのひじに近いところを華奢な指先でつまみながら歩いていると、莉奈は何飲むの? 目の前にあらわれたキンキンに冷えたチューハイを目顔でさしながら庸介が訊くのを、莉奈は、わたしも庸介のお酒飲みたいんだけど、だめかな、ちょっぴり不満げな目で返せば、彼は、ほんとに? ジントニック飲む? ジンバックでもマティーニでもいいんだけど、いやマティーニは今日は無理だな、とこれはもう会話なのか独り言なのかわからないそれには構わず莉奈は、ねえ、ジンジャーエールあるよ、あ、トニックウォーターもある、これでつくるんでしょ? ジントニックって。知ってんの? 知ってるよ、すごい? ねえ、すごい? 訳もなくはしゃぎだした彼女に合わせて、すごい、えらい、と返すと莉奈はまんざらでもない様子で、何本入れよっか、250ミリリットルだって。6本にしよう。わかった。返事をするや、ちょうど自分のひらいた手に収まるほどの小ぶりのボトルを、トートバッグは肩にかけたまま両手の指先を駆使して2本ずつ、三往復で指定の数を買い物かごに入れ終わるそばから、お茶も飲みたい、とつぶやいてきょろきょろと目当てのものをすぐさま見つけ彼をおいてつかつか歩いていったかと思うと、2リットルの緑茶をかかえて見る間に戻ってきて彼の持つ買い物かごへそっと置く。氷はあるの? はっとひらめいた彼女に、小さいのがいいな、そう答えると、莉奈は早速行きかけるので、ちょっと待って、おれも行くからと制して、一緒にそばの冷凍コーナーへ寄り、1キロのロックアイスを彼が選びだすうち彼女はかごの中をささっと片寄せてロックアイスの居場所をつくり、彼が獲物をなかに入れたのを合図にふたりは幸せそうに見合わせる。彼らはそのまま真後ろの総菜コーナーを訪ね、食べたいものと値段との調整をあれこれ言い合って楽しみつつ、鶏の唐揚げや焼き鳥やサラダなどを調達したその足でおつまみコーナーへ寄ってチーズとカルパスを一袋。なおも店内を徘徊しながらはじめからそうと決まっていたのかお菓子コーナーにふらふら侵入すると、悩むほどもなく、彼はポテトチップス、彼女はじゃがりこ、ふたりでアルフォートミニチョコレートを選び入れると、そのまま会計へむかう。お金は彼女が半分だそうとしたのを彼が押しとどめて支払い、じゃあ持たせてと買い物袋をもとうとするそれも制して買い物袋を両手にさげて歩きだし、まもなく着いたウィーンと滞りなくひらく自動ドアをひとつめは無事通り抜けたものの、ふたつめでにわかにためらいを覚えて彼女をむくと、それとは知らないマフラーをまきつけた莉奈は、目の前の暗がりを見据えて何やら覚悟を決めた様子。自動ドアのまえにたじろぐ彼を尻目にすうっとひとあし踏みだし、二歩目を踏みしめて、そのまま自分の周囲にはなんの障害も存在しないかのごとく、颯爽と歩きだしてくるりと振り返る。どうしたの? その声を合図に庸介はようやく決心がつくとともに外界への一歩をそっと踏みだし、二歩目を踏みしめて、ほどなく莉奈のとなりにたどり着く。今や莉奈を観察する余裕もない庸介は足早に歩きながらしきりに後ろを振り向けば、彼女はいつでも二、三歩うしろを嬉しそうにすっすっとついて来てくれるので、いっそうすたすた駆け出すうち振り向くと、莉奈もちゃんとついて来てくれている。やがてアパートへ無事たどりつき部屋のまえまで来ると買い物袋をしたにおき、むしろゆっくりと鍵があるほうのブルゾンのポケットへ手をいれ、いちどぎゅっと握りしめてからおもむろに取りだして鍵穴にすっと挿しくるりとまわすやガチャンと確かな響きが耳を打ち、にわかに身内に安堵がながれたその余韻を、味わういとまもなくドアノブをまわし彼女を先になかへ入れ、自分も続いて入るやふーっと思わず息がもれたその顔を、ちょこんと腰をおろした莉奈が上目遣いに見つめていた。

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