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それは、春風のせい

作者: エンジュ

 ひとの生を物に喩えるならば、まるで万華鏡のようだと思う。

 ほんの少しくるりと回すだけで景色は変わり、そのどれもが優劣のつけようの無い、まるで別種の輝きを放っている。

 そして、その中に『同じ模様』は一つとして無い。

 だから幼子は夢中になって万華鏡を回すのだろう。



 1,マーブルならべ

 


 二十歳にも満たない僕には『春』という季節を定義づけることはできない。大人に同じ問いを投げかけても、自信を持って答えられる者は少ないだろう。その理由もおそらく『同じ春』が存在しないからだ。

 

 約束の時間まで、教室で本を読んでいた。安価で手に入れたソフトカバーを数冊机に広げ、時折壁掛け時計を気にしながら。

 斜め読みは性に合わない。だからここにある本を数時間で読破することはそうそうない。昔から、僕は現代文のテストでさえ細かい文まで注意を向けるタイプで。これが悪癖なのかどうかは僕の中ではっきりしないけれど、神経質すぎるのに変わりは無い。

 章の切れ目に簡易的な栞を差し込み、壁掛け時計を見やる。もうそろそろ、と思い席を立った。

 生憎の曇り空のせいで光の射さない廊下は、硬質なリノリウムの鈍色だけを湛えている。暗くなっているその奥から、あるいは上階から、複数の足跡のみがこだましている。数時間前まで生徒でごった返していたとは到底思えないほどの静寂が、そこに淡々と広がっていた。

 僕はひとつ、小さくため息をこぼす。

 

 べつに、このルーティンに不満があるわけじゃない。高校生っぽくないなあ、と思っても、気にして引きずることもしない。それでも時々、長く伸びる廊下の影だとか、足音の数だとか、それらを意識させられると、喉が震えるような感覚を覚える。

 そしてそんなとき、僕は息を吐き出すのだ。

 咲田宏樹、高校二年。一年在校したけれど、僕の生活は今日も変わらぬままだ。


 幼馴染から『部活のミーティングが入った』と連絡が入ったのは、正門に着いておよそ五分後のことだった。長引くということなので先に帰っていてほしいと言われたけれど、もうひとりの友人はもうすぐ来るはず。

 そんなことを思いながら待つと、昇降口の奥から人影が現れた。やがて彼女は僕を見つけると小走りで駆け寄ってきた。

「宏樹くんお疲れー。あれ、玲央くんは?」

「ひなた、お疲れ。うん、ミーティングだって」

 『そっか、じゃあ仕方ないね』と言って彼女は額にはりついた前髪を指で梳かした。いつもいつも、こんな場面で緊張してしまう。

「……えっと、それで長引くから先に帰っていいって」

「うん。新年度だから忙しいんだね、きっと。……それじゃ、行こっか」

 ひなたは僕が返事するよりも先に、正門を飛び出していった。ルンルンと鼻歌さえ聞こえてきそうな様子を見て思う。毎度のことながら、変なところで活力の溢れる子だ。左右に揺れるポニーテールを僕もまた、なんとなく小走りで追った。



 *



 樫見ひなたは、不思議な人だ。

 彼女がこの町に越してきてから、かれこれ四年が経つ。何がどう不思議なのか、と聞かれても積極的に答えることはできないけれど、その『はっきりしない何か』に惹かれたのだ、ということに対して疑いの余地はない。

 小学校を卒業してそれなりに友好関係――僕はそんなに広いわけじゃなかったけれど――も築かれた、という時に現れた彼女は、僕の目には新鮮に映った。それはクラスメイトにも、この場にいないもうひとりの幼馴染にさえも抱かなかった感情で。恥ずかしいこと――それはもう頭を抱えたくなるほど恥ずかしいことなのだけれど、無意識下でもそんな感情を持っていたのだから、この現象は一目惚れということになるのだろう。……いや、本人が隣にいるときに考えることでは無いけれど。

 曇天の住宅街には風が渦巻き、建物の影でいくつもの花弁が空中浮遊している。

「ひなた、ダンス部って公演近かったっけ」

「あ、うん。来週の水曜だね。新年度だし、一年生に活動を知ってもらうにはいいタイミングだから、頑張らなきゃ」

「場所は中庭だったよね? 玲央と一緒に見に行くよ」

 『ありがとう。時間間違えないでね』と笑うひなたに少しばかり心拍が上がる。

 僕の行動原理は友人二人にあるのだと自覚するのも、一度や二度のことじゃない。たしか僕がひなたと知り合ったのも、出席番号がひなたと近かった玲央が仲介役を担ってくれたからだった。

「そういえば、玲央くんも団体戦のメンバーに選ばれたらしいし、見に行かないとね」

「団体戦か。となると、周りは先輩だけなんだろうけど」

「まあ、玲央くん強いし、活躍するよ。……というか宏樹くん、知ってたの?」 

「知ってたって?」

「玲央くんが団体戦出るの。あんまり驚いてないように見えたから」

「ううん、知らなかったよ。そんな風に見えたかな?」

「えええ……もっと驚いてくれてもいいじゃない」

 語尾と同時に、肩甲骨のあたりを叩かれる。唐突だったので肩が跳ね上がった。僕は昔からこうなのだから、いまさら気にすることでもないだろうに。これくらいのリアクションが普通だよ、と言いながらも内心は違うベクトルだった。

 なんでこんなにもパーソナルスペース狭いのかな。だいたいひなたは玲央のことはともかくとして、僕を異性だと考えていないのではないかと思う。当然、僕を女性だと勘違いしているなど万に一つもない話だし、容姿はどう考えても平凡な男子高校生のはずだけど。

 まるで分からない。僕はいつになったら慣れるだろうか。

 ……来ないだろうなあ、そんな日は。

 年月を経るごとに明確な輪郭を描くこの想いを、僕はずっとしまいこんだままにしている。だからこんな悩みを生むのだ。分かっている。分かっているけど。

 どこか遠くの方から来たであろう花弁が目の前に転がっている様子を見て、詰襟の中で小さく息をついた。自分の意志薄弱さに、とことん腹が立ってしまう。


 まるで分からないと言っておきながら、思い当たる節は確かにひとつある。それは同時に、放課後から僕を悩ませているものでもある。

 生来の性格のせいだ。ひなたは聡い。初対面の時から、この消極的な性格を見抜かれていたにちがいない。たぶん彼女の中には、僕の第一印象がずっと居座っているのだろう。厄介なのは、生来のものであるがゆえに、そうそう変わらないという点だ。

 大げさではなく、丸ごと生まれ変わってしまいたい。

 ある日王様によって城に招かれ、突然勇者になってしまう村人のように。

 


 2,ファイナル・ラップ



 『五時に この教室に来てください』

 翌日学校に来てみれば、こんなメッセージが机の中に入っていた。他でもない、僕の机に。誰かの悪いいたずらかと思い同じクラスの玲央に持ち寄ってみたところ、玲央はメッセージを読むなり大きな声を上げクラス中の視線を集めた。トーンを落とし「わかった。また後でいいか」と短く告げられ、僕も自席に戻った。


 四限までの授業は、ほとんど頭に入ってこなかった。神経質すぎるという性が、今日ばかりは間違いなく悪癖として作用してしまった。メッセージを穴が開くほどに見つめ、自分なりにいろいろなことを推測してみた。

 まず、カラフルな絵柄がプリントされたメモ用紙の上に、整然と並んだ少し丸い文字。おそらく差出人は女子。筆跡から人を判断することは流石にできないけれど、同級生だろう。もっと絞り込むなら、昨年同じクラスだった人だ。部活に属さない僕を新入生が知っていることはないだろうから。

 ……なんて、無意味な推論で精神を安定させようとしている。

「それで宏樹、例のやつ見せてくれ」

 そう言いながらも、素直にメモを渡す。

「なんで君が食いついて来るの。……あのさ、僕の自惚れじゃなかったら、これって」

 うんうん、といった感じで、二度三度頷く玲央。

 もう一度言うが、これが僕の自惚れじゃなかったら、つまりはそういうことになるのだ。

「誰の字なのか俺には分からないけど、まあ間違いなく」

 ――告白、だろうな。典型的な。

 ニヤリ、と形容すべき表情を作る。はっきり言わなくてもいいじゃないか。こいつはどうして、こう、ズバズバ切り込めるのかな。


 織部玲央。僕にとって数少ない、幼馴染のひとりだ。ひなたとはそれなりの付き合いだが、彼とはもっと長い。小学一年の頃からだ。

 その性格は、一言で表すならば明朗快活。リーダー気質という言葉が良く似合う。バドミントン部でも活躍し、校内でも人気があるようだ。

 僕が彼に相談を持ち掛けたのは他でもない。彼ならば同じ経験をしたかもしれない、と大真面目に思ったからだ。まあ実際、その通りだったようで。

 窓際の後ろから二番目、玲央の机を挟んで相談を持ち掛けた。

「あ、でもわかんねーぞ。字の丸い男だっていくらでもいるわけだし。呼び出されて恐喝とか?」

 うわ、こわーい。と、楽しいという感情を前面に押し出した裏声を出される。

「……質の悪い冗談は止めてよ、まったく。だいたい、なんで僕なんだろうね。もっといいやつがいるだろうに」

 突っ込んだら負けだと理解しているので、正面から向かわない。代わりに皮肉を返しておいた。彼には、言葉を惜しまない方がいい。

「……どうだろうな。でも、あんまり自分を卑下すんなよ。少なくともそいつは、数多といる男子生徒の中からお前を選んだんだからさ」

 誰かも知らないその子を気遣う余裕のある玲央と、自分の置かれている状況でいっぱいな僕。その差は、単に経験の違いからのものではないだろう。少しだけそう思った。

「……大げさな」

 もし仮にそうだとしても、僕は受け入れることはしないだろう。ついでに、できればひなたには知られたくない。

「大げさじゃない。

 と、まあこの話は置いとくとして、絶対その約束は守れよ。失礼になるからな」

 もちろん、それは守るつもりだ。後々問題になったらたまったものではない。

「ありがと、玲央」

 メモを制服のポケットに押し込み、踵を返す。

「頑張れよ」

 振り返った。いつになく真剣な面持ちの玲央。その目は僕をじっと見ている。

「何を頑張るんだよ、まったく」

 ――頑張るのは、僕じゃない。

 玲央はふっと目を逸らし、窓の外へと目を向けた。

 なんで、そんな表情をするんだ。つられて外を見ると、斑になった曇天が広がるだけだ。心なしか、ひなたと帰った住宅街より、暗く濁っているように見える。

 まるで、雨でも降りそうな。



 3,桜流し



 約束の時間まで、図書室で本を読んでいた。手には今日もソフトカバー。ただ、今日はどの本の内容も入って来なくて。仕方なく本を伏せて、それから何をするわけでもなく、ただただ待機に徹した。約束の十五分前になって、もうそろそろ、と思い席を立った。


 吸い込まれるように、いつの間にか教室の前に来ていた。横開きの、硬質なドアが目の前にそそり立っている。あの時と同じく震える喉で、呼吸を整える。

 そして、ゆっくりと、扉の内側に足を踏み入れた。

「あ、ありがとね、来てくれて」

 なけなしの推論は的を射ていたようだ。中にいたのは一年の時のクラスメートだった。瀧本さんは、クラスでも割と話す方の女子だった。おとなしい印象がある。

「うん。時間は、大丈夫だよ、ね」

「えっと、大丈夫。……それで、さ、咲田くんに、ちょっと話があるの」

「……うん」

 ゆっくりでいいから、とは言えなかった。

「あ、あの……去年何度かしゃべっ、て。すごい、優しい人だな、って思って。あんまり、接点なかったけど。ずっと目で追って、ました。クラスは離れちゃったけど、忘れられなくて。

 ……私、咲田くんが好き、です。付き合って、ください」


 たどたどしく、それでも本心から述べられた言葉。僕は終始、頷きながら聞いていた、はず。

 それでも。

 それでも僕は、申し出を受けることはできない。

「……ごめんなさい」

 俯きがちだった頭が、上がって。

 朱に染まった表情が、驚愕の色を浮かべて。

 僕を、見ていた。

「僕には、好きな人が――――」

 その瞬間。その表情を見たとき。今までにないくらい喉が収縮した。上下の歯がガチガチとぶつかり合って、言うことを聞かなくなった。視界はぐわんぐわん揺れて。

 ……どうにか。

 どうにか、しなくては。


「好きな人が、僕にはいて――」

 無理だ。

「も、もちろん、瀧本さんが嫌いだ、とかじゃなくて」

 僕には、どうにもできない。

「だから、と、友達になれれば、と思う」

 ――どうすることもできない。


「もう、いいよ……」

 少なくとも僕だけだった世界に、瀧本さんが突然現れた。

「わかっ、た。わかったから……」

 彼女はもう、目の周りを赤くしていた。

「ありがとね、きてくれて。部活、頑張ってね。あ、入ってないんだっけ。……えっと」

 ――じゃあね。


 逃げるようにして、彼女は出て行った。

 その背中を追う資格を、僕は持ち合わせていない。


 もぬけの殻になった教室に、バシバシと音が響く。

 雨粒だ。

 今日、この町に桜流しが降った。



 4,後悔の色、誓いの色



 初めて、告白をされた。そして、それを断った。

 文字に起こせばたったこれだけのことなのに、罪悪感は僕を蝕んで離さない。心のどこかにある、得体のしれない力に振り回されて、どこか余裕のあった精神は四散してしまいそうで。

 がたがた揺れる窓ガラスから少しずつ逃げるようにして、昇降口まで歩いた。

「何だよ、こんなところにいたのか」

 手提げ鞄の取っ手に指を引っ掛けて、外履きを取り出したとき、彼は現れた。

「……部活はどうしたの」

「階段往復終わって切り上げたさ。天気も天気だし」

 いつもと変わらない口調に、先ほどの彼の言葉を思い出す。『頑張れよ』という、彼のせめてもの忠告を僕は理解しようとしなかった。否、歯牙にもかけなかった。そしてこんな時ばかり頭に浮かぶのは、謝罪の言葉。玲央に謝っても何にもならないというのに。

「あのさ」

「いや、いい。……どうせその後は謝罪だろ?」

 はは、なんでもわかるんだね。

 そんな風に、どこか他人事のように思っている自分がいた。打てば響くような会話も、今日ばかりは全く続かない。

「……俺さ、最初から決めてるんだ。『宏樹相手には我慢せずに意見する』って。だから言うわ。

 ……振ったんだろ。その相手の子を」

 ほんの数枚の白い花が、あてもなく黒い地面を流れていく。今年の春は、薄紅色の季節は、どうしてこんなに苦しいのだろう。

「見てたん、だ」

「やっぱりか。……盗み聞きなんて、そんな野暮なことはしないよ。俺が聞きたいのはここからの話だ。

 そんな顔するぐらいだったら、どうして振ったんだ?」

「だって――」

 その先に続く言葉を、反射的に飲み込んだ。そのとき、それを紡ごうとした自分の口に恐怖を覚えた。


『仕方ない』


 本当にそんな言葉を言えるだろうか。僕にその資格はあるだろうか。

 そもそも玲央の言う『そんな顔』とは何だろう。きっと、負の感情に歪んだ顔だ。もしそうだとしたら、いったい僕は何によってこんなことになっているんだ。

 瀧本さんの勇気を突き放して傷つけたことの罪悪感か?

 彼女の、涙を堪えた表情が脳裏に焼き付いて離れないからか?

 友人の精一杯の忠告を受け流した挙句、混乱に陥った自分への不甲斐なさか?

 ……どれも、違う。

 僕にはもう、すべて分かっている。


 僕は瀧本さんの姿に、他でもない自分自身の姿を投影したんだ。想いを寄せるあの子に避けられ玉砕する、その姿を。そのイメージは頭をよぎり、痛々しいあの状況から逃れたいという感情を生み出した。その結果が、あのどうしようもない混乱だ。

 結局僕は、臆病なだけなんだ。神経質だとか悪癖だとか、それ以前の問題だったんだ。目の前にある安穏な日々を甘受する一方で、心の奥の本質はずっと見て見ぬふり。

 自己中心的な、エゴイストなんだ。


 昇降口のガラスの向こうに広がる空は、すぐそこまで迫って来ているように見える。重量を増した厚い雲が、地に堕ちるような気さえした。

「……お前には好きな人がいるんだし、受けるわけにもいかなかったんだろ? だからそいつ、相手の子には申し訳ないけど――」

 ――仕方ないんじゃねえの?

 僕はここでようやく、弾かれたように玲央の顔を見た。いつものいい加減な態度など微塵も感じられない様子で、低い雲に覆われた灰の天を見つめている。その目が何を捉えているのか、僕には読めない。

「宏樹が知ってるかどうか分からないけど。ひなた、あいつ結構人気あるんだよ。告白だって何回もされてるらしい。でもな、全部断ってるんだと」

 あのひなたが? 誰にでも分け隔てなく接する彼女が? にわかに信じ難い話だ。

「それってさ、誰か一人の好きな人がいるってことじゃねえの? 

 そうだったら、うかうかしてられないぞ?」

「なに言って」

 そのまま、黙り込んでしまう。ひなたが別の人の隣にいるというビジョンが、またも僕を掻き回した。

「はあ、なんでそこで黙るんだよ……俺いちおう、お前の背中押してやったつもりなんだけど。いやいや、強く蹴っ飛ばしてやったつもりなんだが……

 とにかく頑張れよ。想いを燻らせるだけじゃ、意味ないんだからな? 今日すぐに、は無理だとして……

 ま、早く行って来いよ」

 俺の大切な友達が、痺れを切らしちまう前に。


「ははは、何だよその言い方。忠告ありがと。本当、僕にもったいないぐらい、いいやつだよ」

「……よし! じゃ、今日のところは帰るか!」

 鞄を二度、三度と担ぎ直す。

 今まで全然自信が無くて、手を引かれるばっかりだった僕だけど。

 いまさらになって自分自身の性格に気づいた僕だけど。

 平凡でも、臆病でも。誰かを想い続けてきた時間と強さには、誰にも負けない自信がある。

 だから多分、僕にもチャンスがあっていいはずなんだ。




 5,一番だった春



 ずっと奥まで連なるソメイヨシノの並木。その隙間から降り注ぐ、どこまでも暖かな陽光。額縁の中のような世界が広がっていた。中学校の門の前から僕たちの自宅の方面、およそ百メートルに渡って続き、今よりも遥かに青かった僕たちを取り囲んでいた。

 入学式を終え、かっちりした制服の集団がぞろぞろと出て行く。僕と、隣にいる先日引っ越してきたという女子もその波に流されていった。

 初めての下校に、イレギュラーが現れた。彼女と会ったのは今日が初めてで、それも幼馴染が仲介してくれたから。こんなときあいつなら、何か気の利いた言葉の一つや二つ出てくるのだろうけれど、当時の僕はそこまで器用じゃなかった。何より彼はいま別の集団の中に紛れていて、この場にはいない。

 お互いあらぬ方向を向いたままで、歩みを進めている。

 だから、そんな時だった。

 一陣の風が僕らの頬を撫でたのは。

「あっ」

 ごく小さな呟きとともに、彼女はローファーを止めた。

「……どうしたの?」

 しばらく声を発していなかったからか、僕の第一声は裏返り気味で――思い出すだけでも軽く頭を抱えてしまうような状況だった。

「えっ? いや、きれいだな、って」

 僕が声を掛けてきたことに驚いたのか、素っ頓狂な声を上げて僕を一瞥し、再び薄桃色の天蓋を眺める。そうだ、桜だ。桜について知ってること……でいいのかな。

「ソメイヨシノって、接ぎ木で数を増やしているから、これ全部、えっと、クローンなんだって」

 今となってはほとんど賭けに近い選択だった、と思っているけれど、当時の僕にはこれ以外考えられなかった。隣にいる彼女は、ずっと桜並木を見上げている。聞いてなかったのかな? 失敗の二文字が頭の中をふよふよと漂っている。

「すごい。……ねえ、どうしてそんなこと知ってるの?」

「へっ?」

 次に情けない声を出したのは僕の方だった。

「うーん……なんとなく、かな」

 我ながら中身の無い返答だった。

 でもこれは嘘だったんだ。なんとなくでも、物知りだからでもない。ただ単純に桜が好きだったからだ。十二歳にもなって花が好きだと言える自分はどこにもいなくて、咄嗟に放った嘘。

「ええ? 普通なんとなくでそんなこと知らないよ」

「……そう、かな」

 彼女は怪訝そうな視線を送ってきたが、いちおう信じてくれたらしい。

遥か後方で、小学校からの友人とじゃれ合いながら練り歩いているだろう幼馴染の顔を浮かべる。思えば彼も同じようなことを言っていた。正反対の性格だったから、互いの性質が珍しかったのかもしれない。

「じゃあ、さ」

 ふと彼女の声が聞こえて、とりとめのない思考を慌てて宥めた。

「これは全部、家族なんだね」

 初めてだった。僕の話を真面目に聞くばかりではなく、自分から意見を出した人は。

 僕はこのとき、どう返せばいいかわからなくて。後に有性生殖だとか無性生殖だとかを学んで、ソメイヨシノがその無性生殖の代表例だと知った。でもおそらく、彼女はそんなことが言いたいんじゃなかったのだろう。

 僕は割合早熟だった頭を捻ったけど、やはり返答に困っていて。一方彼女はというと、自分が今しがた問題を出したことなどすっかり忘れているようで――いや、僕が勝手に『試されている』と勘違いしただけかもしれない――、またも桜を見ている。ただ一つ違ったのは、その横顔だった。

 春風に臨む彼女の顔は、この上ない慈愛を帯びていて。

 比喩表現でもなんでもなく、僕は固まってしまった。

 

 僕が万華鏡を手にしたのは、この瞬間だったのだろう。



 6,カレード・スコープ



 桜が散ったのなら、来年まで待てばいい。今までなら間違いなくそうしていたにちがいない。

 でも今年は違う。桜流しの洗礼を受けようが、先延ばしにするつもりはもうない。


 今年一番の春の嵐だ、と大々的に報道された昨日までの灰色が幻だったかのように、眩しいほどの快晴に見舞われた。それに上乗せして、ジャケットを着ると暑ささえ感じるほどの気温で、僕の視界には白と黒が混在している。

 西日の差す正門で、今日も僕は親友を待つ。ぞろぞろと帰路につく在校生を尻目に。しばらくするとダンス部の三年生が現れたので、二度三度肩を上下させて鞄を担ぎ直した。一番大きな集団から五メートルほど後ろに、見慣れた親友の姿が見えてきた。

「あ、宏樹くんお疲れ。今日も玲央くんは練習かな」

「あー、うん。七時までかかるらしい」

 大会が近い玲央は昨日の分を補うために自主練に励んでいる。追い込みをかけるタイミングならあまり気を遣わせない方がいいだろうと考えているので、僕もひなたも、陰ながら応援することに徹している。

「よし、じゃあ先に行こう」

「うん。……そう、だね」

 いつまでも変わらない日常が、春の大気に染まっていく。



 *



 橙色の光は連なる建物にことごとく遮られ、僕たちの右半身を明滅させている。僅かに雨の匂いが残る町にはいま、視認できる範囲では僕たちしかいない。音といえば遠巻きに聞こえるバイクや自動車の音だけ。

 そう、今日はひなたが静かだ。

 沈んだ、わけでは無いようだ。笑みと悲しみの中間のような、形容し難い表情を浮かべている。大好きな桜が散ったのを惜しんでいるのだろうか。

 僕の方は、と言えば。この後言おうと思っている言葉を考えては反芻して、その繰り返しだった。

 最後のT字路が見えたところで、やがてそれも止めた。

「宏樹くん、お疲れ様。じゃあ、また明日――」

「ちょ、ちょっと待って」

 踵を返そうとした彼女を、僕は引き留めた。もう、ここしかない。四年前のあの日以来久しく見ていない、きょとんとした顔が現れた。


 僕たちをめぐり逢わせたあの春風が、ここにも吹き込んできた。記憶が竜巻のように舞い上がる。

 はは、何だろう、これ。

 体は真夏のように熱いのに、汗は一滴も垂れない。

 喉は尋常じゃないほど渇いているというのに、どこか清々しい。

 想いを燻らせるだけじゃ、意味なんてない。

 三つ四つと息を弾ませて。五回目の息で切り出そうと、僕は心に決めた。


 きっと後にも先にも、これ以上に色付いた春を僕は経験しないのだろう。万華鏡をくるくると回し、僕はそんな模様にたどり着いた。

 それでも――と。

 また別の鏡面世界を信じて、ゆっくりと傾けた。





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