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ルプスの盾  作者: 深縹 あき
第1章 契約
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6


 薄暗がりの中、鳥たちがまだ起きていないことに気づいたのは、森に入って少ししてのことだった。聞こえるのは、自分の足が土と小石と落ちた葉を規則的に踏む音と、風でささやくように揺れる木々の音だけ。

 そして進むほどにひんやりと冷たくなっていく空気に、エルは自然と顔を上げて歩いていた。


 アストゥートの屋敷を取り囲んでいる森の中に、エルはいた。

 屋敷での初めての食事を終えた後、明日訓練をしたいのですが、と恐る恐る言ったエルに、ニゲルは「でしたら、裏手の森はいかがでしょうか」と微笑んだ。大まかな地形と距離、出歩いてよい範囲もニゲルは教えてくれた。エルはその範囲から出ないよう、屋敷と使用人塔に音が届かないであろう場所を目指していた。


 エルの居た聖ルウ=カネレ大修道院も、山深い場所にあった。

 鳥の歌声も、木々の葉の色も、空気の匂いも知っているものとは違う。けれど、不思議と慣れ親しんだ場所に帰ってきたという気がした。


 やがて丸く開けた場所に出た。苔に覆われた木が数本倒れているだけで、訓練をするには良さそうな場所だった。後ろを振り返ると、木々の隙間から見えていた使用人塔の姿も見えなくなっている。よし、と両手を握り締めて、エルは走り出した。


 しばらく走り込んだ後、体術と剣術の型の練習に移る。

 エルが修道院に居た時から続けている習慣だった。平凡な自分ができるのは、少しでも多くの練習を重ねることだと考えていた。

 練習で出来ていないのなら、本番なんて尚のこと、と言っていたクレアさんの言葉は胸に深く刻まれている。

 基本の型。

 目の前に敵が居ると想定しての動き。

 ひとつひとつ、丁寧に、動きの精度が悪ければ、すぐに見直し改める。その繰り返し――





 ふと、鳥の声が聞こえ、エルはダガーを振るう手を止める。つうっと額から汗が流れ落ちた。気づけば、空が明るみ始めていた。


 乱れた呼吸を整えるように歩き、使用人塔までエルは戻ってきた。きょろきょろと辺りを見回すと、塔のすぐ傍に小さな井戸があるのに気づいた。


 井戸へ向かう途中、改めてエルは屋敷を見上げた。

 屋敷の白い外壁には、規則的に窓が並んでいた。その上には爽やかなブルーの屋根。品のある佇まいだけれど、貴族のお屋敷というには小さいような気がした。修道院にやってくる貴族の話で聞いて想像していたお屋敷とはだいぶ違うな、とエルは思った。

 広大な領地、たくさんの使用人に囲まれた豪華なお屋敷で優雅に生活――そう暮らしていると語っていた。


 アストゥートには内乱を治めた功績と数々の戦歴があるはずだ。

 あの貴族たちのように暮らせるだろうに、この穏やかな場所で暮らしている。そのことを思うと、なんだか好ましく思えた。


 屋敷から視線を動かし、庭の方を眺める。

 庭の中で一際目を惹いたのは、整えられた小さな庭園だ。蔦の絡まったアーチと緑の塀の先に、色ごとに分けられ沢山の花々が咲いていた。その上を蝶が数匹、ひらひらと舞っている。隅には小さな白い四阿も見えた。詳しくないエルでも、よく手入れされているのが見て取れた。


(……――きれい。凄いな、ロッティさんは)

 柔らかな花の香りに、笑みが出る。そこで、エルは自分の足が止まっていたことに気づき、再び井戸を目指した。

 

 井戸を覗き込むと、丸い水面に自分の顔が映っている。

 眉は下がり、表情も固く、どことなく疲れているように見えた。

 いつの間にかそんな顔になっていることに気付いて、エルは頭を振った。意識して、少し口の端を上げる。が、つい溜息が出てしまう。

(ニゲルさん達の力になれたらな……)

 エルは昨日の会話を思い出した。








「……その、どうして〈盾〉を? それに権力の誇示、と旦那様が仰っていたはどういう意味ですか?」

 話し合いが終わった後、エルは気になっていたことを尋ねた。

 アストゥートが〈盾〉を拒否する理由は難しくとも、彼ら自身が〈盾〉を望む理由と自分が知らない〈盾〉についてのことなら、教えてもらえると思ったのだ。


「それは……」

 ニゲルは一瞬言いよどんだが、話してくれた。

 戦いが少ない年月が長く続き、一部の有力者しか所有を許されなかったことで、〈盾〉は有力者の象徴に変わってしまい、ある程度の地位があれば、〈盾〉がいて当然と言うような風潮だと。


「そう、なんですか……」

 驚きを隠せなかった。

 使用人のような役割が多くなったとはいえ、〈盾〉とは英雄ベルンハルト様の意志を継ぐものであり、国を守るためにに必要な存在、輝かしい者――そう聞かされていた。


(そうだったはずなのに……)

 エルの中の〈盾〉の像が崩れていく気がした。

 自分の表情が硬くなっているのがわかった。そして、寂しいような、苦いような気持ちが胸に広がっていく。

 そんなエルの手に触れるものがあった。

 ニゲルの小さな手だった。真っ直ぐ見つめてくる彼の黒い瞳を見つめ返す。


「エル様。私たちが契約して欲しいのは、そういった理由ではありません」

 ニゲルは、はっきりと言い切った。


「魔物です――」

 呟くように言ったニゲルに、エルは拳を握りしめる。数が少なくなったとはいえ、未だこの国を脅かす存在。


 すべては邪神フォルズから始まった。


 ラーディックスの神話に描かれているフォルズは、数多いる神の中で最初に生まれた神だ。

 智恵の神であるフォルズは、人に知識を与え、その営みを長く見守ってきた。けれども、だんだんとその愚かさに辟易し、憎悪するようになったのだ。

 遂には、フォルズは人を滅ばそうとした。

 しかし、その兄弟神たちはフォルズを止めるために戦い、人にも手を差し伸べた。

 この国の守護者である英雄ベルンハルトと聖女シシィも神から力を与えられた人間であり、そして、見事フォルズを倒したのだ。


 かくして、フォルズは死んだ。

 けれど、その死体から生まれたものがあった。

 それが魔物だった。

 魔物が人を襲うのは、フォルズの憎しみがその体の中にあるからだと言われている。

 ニゲルは続ける。


「旦那様はその討伐を率先してされるお役目。旦那様は優秀です。天才と言ってもいい。けれども、ひとりの力には限りがあります。旦那様もそれはご承知だと思います。ですが……」

 ニゲルは一度口を噤み、エルの目を見て言った。


「ここに居るのは、皆、旦那様に命を救われた者」

 ニゲルの言葉に、ポー、モー、ロッティが一様に頷く。


「エル様、私たちは貴女様に旦那様を支えて欲しいのです」









 井戸から水を汲む。手で掬うとその冷たさに手のひらが赤くなった。

 エルはごしごしと顔を洗い、さっと布で顔を拭う。


 屋敷の方を見ると、昨日と変わらず真っ暗だった。まだ起きるには早い時間だからと、そう思った刹那、僅かに屋敷の中から光が零れた。


 玄関広間の辺り。おそらく旦那様が帰ってきたのだろう。

 昨日、エル自身が話をしても難しいだろうと、ニゲルに返されたことを思い出す。

 再び視線が井戸の底に落ちる。変わらず暗い、自分の顔があった。ふっと視線を逸らし、使用人塔を見る。

 ふいにクレアの顔が浮かんだ。

 いつも自分を信じてくれる彼女の顔が。エルは自分の頬を叩いて、屋敷へ向き直った。

(難しいかもしれない。けど、やれるだけのことはしたい)

 エルは屋敷へ向かって走り出していた。






「おはようございます、アストゥート様」

 その一言をいうのに、ひどく勇気が要った。


 昨日はニゲルがいた。今は一人。

 アストゥートは貴族で、しかもその優秀さから、国中の人から敬われ、畏怖されている人だ。ただの孤児だったエルにとってただ話しかけるだけでも、ひどく緊張した。その上、昨日のこともある。


「……君は」

 エルか、とアストゥートは冷めた蒼い瞳でエルを見下ろした。途端、体が強張る。

 けれど、エルは口を開いた。


「あの、アストゥート様、少しお話を聞いて頂けないでしょうか?」

 少しの間の後、彼は静かに頷いてくれた。

 思わず、笑みが浮かぶ。昨日と同じように、必要ないと切り捨てられるかと思っていた。


「〈盾〉が必要ないという考えにお変わりはないですか?」

 すっと目が細められた。再び体が強張る。


「……変わってはいない」

「――その、理由を聞いてもよろしいですか?」

「語る必要が……?」

 想像以上に冷めた声が返ってきて、エルは息を飲んだ。そして、視線が地面へと落ちる。刹那、昨夜のニゲルたちの顔が浮かんだ。彼らの言葉も。

 エルは唇を結び、顔を上げた。


「……その、こんな私ですが、〈盾〉にして頂けたら、魔素をお渡しすることも出来ますし、それに本当に盾になるくらいは――」

「――それだけか」

「え?」

 言葉が遮られたことに驚き、エルは目を見開き、彼を見上げた。

 氷のように冷たい眼が、エルを見据えていた。

 短く息を吸い込み、エルは体を強張らせた。言葉が喉の奥へと落ちていくような気がした。そんなエルに、再びアストゥートが言葉を継いだ。


「言いたいことはそれだけか」

 一層冷たい声に、体が更に凍り付く。

 目の前のアストゥートが、静かな怒気を放っているように見えた。

(――怒ってる? 何が、良くなかったの? なにか気に障ることを言ってしまった? やっぱりしつこかったかな? それとも……)

 何が原因かわからず、エルは戸惑いの目をアストゥートへ向けた。

 エルが理由を聞く前に、アストゥートは告げる。


「〈盾〉は必要ない。その考えが変わることはない。……エル、帰る手配が整うまで、君は客人として過ごすと良い」

 ニゲルには伝えておこう、そう言い残して長い髪を翻し、アストゥートは去って行く。


「ア、アストゥート様、待って下さい……!」

 思わず、後ろ姿へ手を伸ばす。

 が、アストゥートは振り返ることなく、伸ばした手は空を切り、だらりと下へ向けるしかなかった。


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