4
あまりに突然のことで、エルは動けなかった。
何かが、水晶の光とエルとの間に現れていた。
(いつの間に……!)
エルの額に、冷や汗が滲む。
気配はまったく感じ取れなかった。いつ、どうやって、と考えても答えは浮かんでこない。
相手は動かずにじっとこちらを窺っているようだった。武器は鞄の中だったか。部屋に戻ってきた際に、ベッドの隅に置いてしまっていた。
エルはそっと相手を覗き見る。
目が合った。
が、目が合ったというのはおかしい。それには目が無かった。けれど、そう思ったのだ。
目の前に居たのは――影。
人の影のようなものが、エルの顔を覗き込んでいた。
悲鳴は出なかった。驚きが勝っていた。
エルは咄嗟にベッドの隅へ後退る。次いで、鞄の中に手を突っ込み、ダガーを掴みだす。素早く抜き放ち、影へ切っ先を向ける。
すると、影はまるで慌てているように、両手を胸の辺りで振った。そして、どろりと溶けるようにして、影の形が崩れる。遂には床の影と溶け合い、消えた。
エルは警戒を解かずに、辺りを見まわす。
異変は机に起こっていた。机の上に何かが浮かび上がっている。
影で出来た文字だ。
おそらく、先ほどの人影がこの文字を書いているのだろう。そう考えている間にも、文字は書き綴られていく。
察するに、相手はこちらと話をしたいか、何かを伝えたいらしいが――……
「あの、読めません……」
「!」
影で出来た文字が一瞬揺らいだ。
影が書いたのは、見たこともない文字だったのだ。ぐにゃりと文字は歪み、新しい形を取る。
『ごめんなさい、つい』
今度はラーディックスの言葉で書かれていた。
けれど、エルは呆気にとられ、目を丸くした。謝られるとは思っていなかったのだ。
悪い人(?)ではないようだが、ダガーを構えたまま、エルは聞いた。
「……いえ、貴方は一体何者なんですか?」
『驚かせて申し訳ありません。わたしはポー、このお屋敷の使用人です』
使用人と聞いて、少し肩の力が抜ける。
ふと、エルはあることを思い出した。
貴族の屋敷には、外から侵入できないように魔法で結界が張られている、そう習ったことを。
『嘘ではありません、安心してください。それに、影人であるわたしに刃物は刺さりません』
――万が一、ということも考えられる。敵対する者が〈盾〉を始末しようとすることもあると聞く。だが、始末する気があるなら、会話などせず、すぐ済ませているはずだ。捕まえるにしても、エルが気付く前に出来ただろう。
ふっと息を吐き、エルはダガーを仕舞った。
「ポー、さん?」
名前を呼ぶと、部屋の中の影が笑ったような気がした。
「その、影人とは……?」
様々な人種がいることも習ってはいた。けれど、影人という種について、エルは聞いたことがなかった。
『知らないのも当然のこと。今はもう、わたしたち以外いません』
「それは……」
思わず、言葉に詰まる。
彼らのことを何も知らない自分が、悔みや慰めの言葉を口にするのは軽々しいのでは、とエルは思った。
エルは、まだ家族を失ったこともなかった。
居たのかもしれないが、覚えていないものはどうしようもなかった。けれど、家族を失って修道院へやってくる子供を見ると、その悲しみの深さがわかった。
家族、友人一人いなくなっても、襲ってくる悲しみは途方もないというのに、一族、その種皆ともなるとその悲しみは想像を絶するものだろう。
何も言えずに、じっと机の文字を見つめる。そんなエルに、影は小さく笑った
『気を使わないでください。ずっと昔のことだから、大丈夫です』
逆に気遣ってくれるポーに、申し訳なく思う。
ポーは続ける。
『あなたはエルさん、ですね?』
「……はい。アストゥート様の〈盾〉として来ました」
『その様子では、旦那様はやはり』
「ええ、断られてしまいました」
『……旦那様は、一度決めたことを曲げられることは、滅多にありません』
「そう、ですよね」
先程の様子を思い出して、苦い笑みが浮かぶ。
『旦那さまは……――』
ふいに、ポーの言葉が途切れた。
どうしたのかと思っていると、美味しそうな香りが漂ってきた。下の階からのようだ。
手が止まっていたポーが素早く言葉を書いた。
『忘れていました。食事が出来たので呼びに来たのです。行きましょう』
そういって再び姿を現したポーは、扉の前で手招きした。
塔の一階。
部屋の中央に大きいテーブルが一脚。その周りに椅子が五脚ある。
そして、テーブルの上には、スライスされたライ麦パンに、野菜が入った温かいスープ、チーズが並んでいた。美味しそうな香りが辺りに漂い、エルの空っぽのお腹を刺激した。
部屋の中に、人影もあった。ポーと同じく影人ようだ。
そういえば、先ほど「わたしたち」と言っていた。ポーが一人ではなかったことに、ふっと胸の辺りが軽くなる。
その影の横まですーっと移動し、ポーは壁に言葉を綴る。
『これはモー。料理人です』
「モー、さん」
モーと紹介された影人は、ひらひらと手を振ってみせた。
『モーは、こちらの言葉を書けません。なので、モーの言いたいことは、わたしがお伝えします。反対にわたしは実体化が苦手ですが、モーは得意なのです。すみません、部屋に伺った時も、ノックが出来なかったのです。何度か文字を書いてみたのですが……』
「そうだったんですね。いえ、こちらこそ気づかずにすみません」
『いえ、大丈夫ですよ』
モーを見上げた後、エルは頭を下げる。
「エルです、どうぞよろしくお願いします」
するとモーは、エルの周りをくるくると回って、壁に人の笑顔に見える模様を描いた。
『こちらこそ、とモーは申しております』
笑顔の模様に、笑い返したその時、ゆっくりと扉が開かれた。
現われたのは、ニゲルだった。
とぼとぼと歩いてやってきて、空いていた椅子に座る。その顔と雰囲気を見るに、結果は明らかだった。
「……旦那様は急用だそうで、出掛けられました」
『そうですか。元々、今日は食事の準備は必要ないと聞いていましたが』
ニゲルは暗い顔を上げて、エルを見た。
「エル様、大変申し訳ございません。驚かれたでしょう?」
「その、少し」
苦笑いを返し、エルはニゲルへ尋ねた。
「どうしてアストゥート様は〈盾〉を拒否されるのでしょうか」
「それは……」
ニゲルは口をつぐみ、ポーも言葉を書くのを止めた。その傍のモーはじっと動かない。
――どうやら言えない事情のようだ。
きっと、アストゥートの個人的な理由なのだろう。本人以外が語るのは、気兼ねしてしまうような。
(これは聞くのは止めたほうが良いみたい……)
そう思ったのも束の間、沈黙を裂くように、窓の外から声がした。
「うまそうな匂いだ。ちょうどいい時に来たみたいだな」