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玄関広間に、男性がひとり立っていた。
まず、目を引いたのは青みがかった白く長い髪。長身で均整のとれた体に、髪とは対照的な黒い上品な服を身に纏っていた。
こちらの足音に気付いてか、男性がこちらを振り向いた。
その顔を見て、エルは息を飲む。
(アストゥート様だ――……)
と、エルは思った。
彼の蒼い瞳は、いつか見た暗い空を裂いた雷を思い出させた。彼は切れ長の瞳を眇めたかと思うと、片方の眉を上げた。
その視線はエルに向けられている。エルは自分の体が強張るのがわかった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
恭しく礼をして迎えるニゲルに続いて、深く頭を下げる。
「ああ……後ろにいるのは、新しい使用人か?」
心地の良い低音が降ってきた。
新しい使用人、という言葉に引っかかりを覚えつつも、エルが挨拶をしようとすると、ニゲルが先に答えた。
「……いいえ。〈盾〉です。旦那様」
その返答に主人は眉間に皺を寄せ、鋭い視線を放つ。剣先を向けられているような感覚に、エルの体が凍りついた。
「どういうことだ、ニゲル」
一階の応接間。
品の良い椅子に座り、エルは主人と机を挟んで向き合っていた。
その冷ややか視線にさらされ、エルは落ち着かなかった。冷たさを感じさせる整った容姿も相まって、恐ろしい迫力だった。
同じ視線を受けているにもかかわらず、隣に座るニゲルの表情は変わらない。
塔を出る間際にニゲルの呟いた言葉の意味が、ようやくわかった気がした。
今までの会話を聞く限り、主人の許可を取らず、ニゲルが〈盾〉を手配したらしい。そして、目の前の主人が〈盾〉を歓迎していないのは明らかだった。
エルには応接間の空気が、真冬の夜のように感じられた。冷え切った空気の中、話の口火を切ったのは主人だった。
「……私はアストゥート・ルプスだ。君の名前は?」
思っていたより、その声は穏やかだった。そして、やはりとエルは思う。
「聖ルウ=カネレ大修道院から参りました。わ、私、エルと申します」
緊張のあまり、声が震える。
けれど、気にした様子もなくアストゥートは言葉を継いだ。
「エル、か。契約書は持っているか?」
「はい、こちらです」
役人から受け取った羊皮紙を鞄から取り出す。
アストゥートはさっと目を通すと、確かに、と呟いた。書類から顔を上げて、ニゲルを見据える。
「〈盾〉は、必要ないと言ったはずだが?」
「ええ、そのように聞いております」
平然と返すニゲルに、エルはぎょっとし、アストゥートは眉間の皺を一層深くした。
「わかっておられるはずです、旦那様。〈盾〉が必要だということは」
「権力の誇示のために、というのか」
「……それも理由のひとつでございます」
「では、他の理由も聞かせてもらおうか? 主に断りなく〈盾〉を呼んだ理由を」
会話の内容に、いくつもの疑問がエルの頭を過るが、二人のやり取りに割って入る余地はなかった。
その上、二人が言葉を交わすたび、部屋の空気が冷えていく。エルはいたたまれなくなり、床へ視線を彷徨わせた。
「これはジェロジア様のご意向でもあります」
「……伯父上か」
そう呟き、アストゥートは机に視線を落とした。
「アスト様」
ニゲルは旦那様ではなく、親しさを感じさせる名で呼んだ。黒い瞳で、じっとアストゥートを見つめる。
「ジェロジア様も私も、貴方様が心配なのです。どうかご契約を」
その声はただ静かに、言い聞かせるような響きだった。
アストゥートは答えない。ただ、眉間の皺は消えていた。エルの方に視線を向けると、彼は深く溜息を吐いた。
自室のベッドに座ると、張りつめていた緊張の糸が切れた。
体の力が抜けていく感覚と共に、疲れがどっと押し寄せてきた。
鎧戸の隙間から流れ込んでくる冷気を感じて、エルは毛布を羽織る。
天井へ視線を向けると、屋敷の玄関広間のものと同じだが、ずっと小さい水晶の仄かな光が部屋を包んでいる。
ぼうっと水晶を見ながら、エルは思考に沈む。
――結局、アストゥートは、最後まで〈盾〉を受け入れなかった。
「もうこの話は終わりだ」とアストゥートが応接室から出て行ったことで、話し合いは切り上げとなった。ニゲルはエルを部屋まで送ると、旦那様を説得しに行きます、と言った。なにか手伝えることはあるか聞くと、彼は感謝を述べ、お気持ちだけでと微笑んだ。
必ず納得してもらいます、と彼は主人の元へ行ってしまった。
水晶から目を逸らし、エルは俯く。
(きっと、難しいだろな……)
アストゥートには、絶対的な拒絶しかなかった。
聞いていた通りの、雷帝という名に相応しい言葉と態度。そして、先ほどの視線を思い出すと、少し体が震えた。
出戻りになった〈盾〉の話は聞いたことがなかった。主人が拒否するのであれば、このまま帰されるだろうか。エルにとって、まったく想定外の出来事であった。
エル自身が〈盾〉として訓練されたのは、〈盾〉を育成している聖ルウ=カネレ大修道院に偶然拾われたからである。
初めは、ただ流されて。
けれど、次第に考えが変わった。
魔物は少なくなったとはいえ、脅威は完全には消えていない。〈盾〉となり、主と協力すれば、より多くの魔物を倒せるだろう。
そうなれば、市民を、修道院のみんなを、クレアを守ることにも繋がる、と。
選ばれなければ、ただの兵士になろうと考えていたのだ。
だから、選ばれたことは本当に幸運で、本当に――
(嬉しいこと、だったのにな)
ふっと笑みがもれたその時、当然目の前が暗くなった。