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建国されて、千と五十八年になるラーディックス。
かつて、この国を造り、守護者と呼ばれた英雄たちに倣った契約がある。
契約によって、〈剣〉である貴族は魔法を唱えるのに必要な魔素を兵士から補い、兵士は本来使えない筈の魔法の武器を操れるようになり、〈盾〉となって魔物を倒していた。
けれど、魔物が恐れられていたのは、もう数十年も前のこと。
魔法の発展により、魔物は数を減らし、脅威は少なくなった。だが、今なお『守護者制度』は続いていた。
魔法の使える貴族、使えない兵士。
貴族を守る〈盾〉だった兵士は、今では僕としての役割が強くなった。
主たる貴族に付き従い、戦いがない時は主の身の回りの世話をする。
貴族が〈盾〉を希望すると、国は必要性があるか審査したのち、〈盾〉を育成している施設で探す。適合者がいない場合は、市井へ募集をかける。
市井に募集があると大勢の人が殺到する。
〈盾〉に選ばれることは名誉であり、そのうえ、大金が支払われるからだ。
雪が降り積もる三の月の初め、〈盾〉の募集が出た。
今回、〈盾〉を希望する貴族の魔素の性質と一致したのは、エルただひとりだった。
眩しさと体の浮遊感が無くなり、足が地へ着く感覚に、エルはそっと菫色の瞳を開いた。
羊皮紙がひしめき合っていた壁は消え、白い壁が現れていた。
(本当に一瞬だったな……)
そう思いつつ周りを見渡すと、自分が立っているのは、どこかのお屋敷の玄関広間のようだった。
玄関広間は吹き抜けになっており、高い天井の中心には大きな水晶が浮かんでいる。水晶は淡い光を放ち、乳白色を基調とした室内を照らしていた。
壁には細やかな模様が施され、足元の床には魔法扉が彫られている。飾られている絵画や花の活けられている花瓶も、高価なものに見えた。
エルは、肩に届かないくらいの長さの髪を手で梳き、改めて服に埃がついていないか確認した。
鞄の吊り紐を握り締め、大きく深呼吸をする。
「御免下さい」
と、声を張り上げた。
けれど、答えてくれる声はなく、エルの声は空しく響いた。
再び玄関広間を見回して、首を傾げる。
使用人の姿が見当たらない。というより、人の気配がまったくしないのだ。
しん、と静まり返っている屋敷に、エルは不安を覚えた。もう一度屋敷の奥に向かって、更に声を張り上げる。
「すみません! どなたかいらっしゃいませんか?」
言い終えた途端、右手の廊下の方から、なにか飛び出してきた。
垂れ耳、白い口髭、黒く丸い瞳。
飛び出してきたなにかは、黒い犬だった。
黒い犬(よく見ると黒だけではなく、灰色の毛も混ざったような色合いだった)は、エルのひざ程の背丈しかなく、上質そうな白い服を着ている。
犬は二足歩行でエルの前までやってきて、深く礼をした。慌ててお辞儀をする。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません――エル様」
穏やかな老人のような声で自分の名が呼ばれ、エルは更に硬直した。
「お待ちしておりました。私、この屋敷で使用人をしておりますニゲルと申します。同じ主に仕える仲間として、これからどうぞ宜しくお願い致します」
「……え? はい、どうぞ、宜しくお願い致します」
エルは慌てて硬直を解き、もう一度頭を下げる。
驚いている様子のエルに、不思議そうな顔をするニゲルだったが、合点がいったように前足をぽん、と叩いた。
「ああ、驚かれましたか? 私、この通り、年老いた獣人でございます」
この辺りでは珍しくないのですよ、そう言ってニゲルは微笑む。
獣人――強靭な肉体と高い身体能力を持ち、好戦的な彼らは普段山奥で生活している、と聞いたことがあった。
しかし、目の前のニゲルは穏やかな笑みを浮かべ、可愛らしく首を傾げている。正直に言ってしまうと、彼の見た目は普通の犬とそう変わりがないように見えた。
ニゲルが言葉を続ける。
「旦那様は外出中でございます。戻られましたら、改めて挨拶としましょう」
こちらです、と促すニゲルの後を追って、玄関から右の渡り廊下へ。開かれた扉から、白い塔のようなものが見えた。彼は塔の方からやってきたのだろう。その足元を見れば、靴は履いていない。爪が床に当たる音が聞こえてもよさそうなのに、今も何も聞こえてこない。彼の足を見ながら、何故だろう、とエルは内心首を捻った。
短い渡り廊下を進み、塔の扉に辿り着くと、ニゲルは小さな体を伸ばすようにして扉を開けてくれた。
「さあ、どうぞ」
二階建てに見えた屋敷より更に高く白い塔は、内装まで白かった。
使用人の住居だというその塔の螺旋階段を上り、三階の部屋まで案内された。
貴女の自室です、として紹介されたその部屋は、扉から正面に窓があり、濃紺の窓掛けが風に揺れていた。窓の右側に清潔そうな寝台が、左側にはドレッサーがあり、部屋の中央にある丸い机には可憐な白い花が飾られていた。ニゲルに勧められ、椅子に腰を下ろす。すると、彼は少々お待ちください、と言って出ていってしまった。
相部屋ではなく、個室。
寝台があと二台は置けそうなのに、一人で使ってしまっていいのだろうか。こんなに広くて綺麗な部屋は自分には勿体ないくらいだ、とエルは思う。
窓から見える屋敷をぼうっと眺めていると、扉の方から声が掛かった。
「どうでしょう、気に入っていただけましたか?」
戻ってきたニゲルだ。
「はい、とても」
「それは良かった。エル様、良ければ、林檎酒でもいかがですか?」
陶器のカップを掲げてみせるニゲルに、エルは笑って頷いた。
「さて、エル様。お仕事の内容は、ご存知でしょうか?」
林檎酒で一息つくと、向かいの椅子に座っているニゲルが口を開いた。
「はい、最優先で戦闘の補助。それがなければ、主様の仕事の手伝いや家事、ですよね?」
ニゲルはにっこりとして頷いた。
「はい、その通りです。〈盾〉である貴女は旦那様に合わせての行動となります。また旦那様から指示があれば、そちらを最優先して下さい」
それからニゲルは、一日の時間割や家事の内容などを一通り説明してくれた。
エルは説明を刻みつけるように頭のなかで繰り返した後、聞きたかったことをニゲルに訊ねた。
「あの、旦那様はどんな方なんですか?」
「おや、何もご存知ないのですか?」
「はい……」
誰も教えてくれなかっただけだが、何も知らないことが恥ずかしく、エルは思わず視線を机に落とした。けれどそんなエルを見て、ニゲルはただ微笑んだ。
「そうでしたか。旦那様は、とても優しく立派なお方です。騎士として女王陛下にお仕えされていて、この国の為に尽力なさっています」
そう言ってニゲルは、黒い瞳を細めた。
やっと知ることができた主の情報だったが、「女王陛下の騎士」と聞いて、エルは言葉を失った。
今、女王陛下直属の騎士は三人いる。
三年前、現女王陛下は軍を率いて、前宰相が起こした内乱を終結させた。前女王陛下は内乱の際に身まかられ、その後を継いだのは妹であった現女王陛下である。そして、軍の中で特に活躍をした三人は、現女王陛下直属の騎士として選ばれた。
聖風のファイク、焔妖のシャグラン、雷帝のアストゥート。
その内の誰かが、エルの主なのである。
旦那様、とニゲルは言った。だから、主は男性なのだろう。そうなると、ファイク様かアストゥート様のどちらかになる。
エルは戦闘、座学、どちらも修道院内で飛びぬけて出来るわけではなかった。自分より成績が良い人は沢山居た。だからといって下位というわけでもなかった。
そんな自分が優秀な主の助けになれるだろうか。そう思った途端、更に不安がのしかかる。
ニゲルが更に主について語ろうとすると、鐘が鳴った。時刻を知らせる鐘でない。
「おや、まだ時間ではないはずですが……旦那様が帰ってこられたようです。一度、お屋敷に戻りましょう」
「はい……!」
扉へ向かうニゲルに頷き返し、エルは緊張しながら立ちあがった。
ニゲルは扉の前までくると、振り返った。どうしたのだろう、と思っていると、真剣な顔でニゲルが言う。
「大変申し訳ございませんが、ひとつお伝えしたいことがございます」
「はい、なんでしょう」
同じように足を止めて、ニゲルの真剣な眼を見つめた。
「旦那様に何を言われても、私がどうにか致しますので、ご安心ください」
「えっ?」
あまりにも唐突な内容に、ぽかんと口を開いてニゲルを見下ろした。
「本当に申し訳ございません。本来こちらでお伝えするはずが……とにかく、ついてきてください」
「わ、わかりました!」
ニゲルに続いて、エルも階段を駆け下りる。
(どうにかする? 優しい方じゃなかったの? 一体、どういうことなんだろう!?)
心の準備ができないまま、エルは屋敷への道を急いだ。