第一章
第一章
駅前のロータリーで、ぼんやり突っ立っている。九月に入ってから、雨の日が三日も続いていた。
水溜りを覗くと、色のある街を背景に、真っ暗な自分が佇んでいた。
雨水を弾きながら、停留所に循環バスが入ってくる。私はその度に首を伸ばし、目を凝らして、順番に傘を開いていく乗客の一人一人の顏を追った。本当に追っていた。力んでそうしていないと、何だか、彼を見つけられない気がしたから。
分厚い雨雲が街を押し潰している。空が狭く近く見えた。僅かな生息の隙間は雨の中に霞んで、幾分幻想的な光景にも見えた。
私はこうして彼を待っている。
第一章
―九月三日―
「君は小説を書くんだろう?だったらいい話があるよ」
三日前に電話があった。相手は私の通う大学の院生で、典型的な秀才タイプの人間だった。教授のアシスタントとして、授業中によく見かけた。ただ、個人的に電話するような関係ではなかった。「ごめん、ちょっと家出れなくなっちゃってさ、今からメールするから、悪いんだけど、バス乗ってこっちまで来てくれる」
携帯に電話。思わず舌打ちしてしまった。駅前のサ店ででも話すと思っていたから。数分で彼からメールが届いた。乗るバス名と停車場、そこからの道程があった。
これくらいの距離なら歩こうと思った。地図を見たら、要するに環八を伝って行けばいいのだろう。雨はいとわしかったけど、しばらく線路沿いの道を歩いた。付近は私鉄の機関区で、右手には何本もの線路が整然と並んでいる。左手にはどれも築年の古い大きなマンションが立ち並でいて、巨大な灰白色のモルタル壁から、黒ずんだ雨だれの痕跡が幾筋も根っこのように流れていた。
二十分あるいて、彼の住むマンションに辿り着いた。ズボンの裾が濡れて踝にまとわりついていた。
彼の住むマンションは、タイルレンガを張り詰めた、周辺の建物より割合に新しい建物だった。エントランスの奥は、吸い込まれるように暗くて何も見えなかった。生暖かく湿った風が、辺りを徘徊して吹いている。
彼の部屋は四階にあった。
「ごめん、水道屋が来んのすっかり忘れちゃってて」
部屋の扉が開くと、背の高い彼の影が、覆いかぶさるように現れた。
「もう済んだんですか?」
「うん、たった今帰ったよ。まあ、入って」
それでふと、エントランスからこの部屋の前に来るまでに、誰にも会わなかったなと思った。エレベーターは一台きりだったし。
玄関から入ると、明かりの無い廊下が続いていて、先には擦りガラス越しに、薄っすらと外の光が見える。私はスリッパを履くと、彼の後について奥の部屋に進んでいった。
廊下では聞こえなかった雨音が、今思い出したように耳に付いた。普通の学生が借りるワンルームの部屋よりは随分広く感じられた。南にとられた窓からの光りで、廊下よりは幾分明るい。床のフローリングがぼんやりと白く見える。窓にはレースのカーテンが床まで届いていた。薄いレース越しには、雨に濡れた街の影が黒っぽく煙っていた。家具らしいものはほとんど無くて、大きな窓の片側に、小さな黒い机と、華奢な椅子が置かれ、反対側には、背もたれのある黒い合成皮のソファだけがあった。
「本当に来るとは思わなかったよ」
私がソファにもたれると、彼はすぐに言った。
「へ?だって…」
私は座りかけた椅子から腰を浮かせたまま、それ以上言葉が出なかった。
「ふふ、冗談。まあ座って」
彼の、肩に届くほどの黒くて長い艶のない髪が、小気味よく揺れた。長袖の黒いシャツは首から二つまでボタンを外し、鎖骨がくっきりと影を見せていた。
「怒った?ごめんごめん、僕から誘ったのにね」
ちょっと眉間に皺でも寄っていただろうか、黙っている私に彼が言った。
彼は笑いの余韻を残したまま、一度廊下の流しに行くと、しばらくして両手にカップを持って戻ってきた。
「ま、機嫌なおしてよ」
「いえ、別に怒ってません…」
カップからは湯気が立っていた。私はずっと歩いて汗までかいていたから、出来ればアイスコーヒーでも飲みたかった。
「まだまだ暑いと思っていたけど、こう雨が続くと涼しくなっていいね」
ハッとして上げた私の額には、大きなな汗の滴が流れていった。
「君に小説のネタを提供しようと思ったのには、大きな意味がある」
彼はマグカップを両手で包み隠すように持つと、少し前屈みの姿勢で話し始めた。
「どうもね、僕の中で不審がある」
「不審?」
「ううん、何ていうか、上手く整理できないんだよね、だから君に小説にしてもらえば、どんなふうになるかなあって思ったりして」「その、話をですか?」
「そう」
何故か、彼は満面の笑みを浮かべて答えた。
「それから、ちょっと失礼かなって思ったけど、君がこないだ提出した、ゼミの論文読んじゃったよ」
「どれ、だろう…」
「リアリズムの追求とかいうやつ」
「ああ」
思い当たった。近代文学論の授業中に提出したやつだ。内容はよく憶えていなかった。
「別に批評がましいこと思ったわけじゃないけど、何となくね、リアリティを追求する意味、小説の在り方みたいなこと書いてあって、それで、教授に聞いたら、君は小説家目指してるっていうし、これはって思ったんだよね」
彼は空になったマグカップを直に床に置くと、浅く腕を組んだ。「意味わかる?」
そろそろ耳障りにも感じる。何となく、人を小ばかにしたような口調だった。
「意味って?」
「だから、君にネタを提供する理由を、僕は話してんだけどさ」
ああ、きっとこの人を好きになることはないなと、思った。
「よくわかりません」
僕は少し腹立たしさを出して言った。
「そっか、要するに君は、十を聞いて一を知るタイプか」
「へ?十を聞いて…」
ゆっくり加味してるだけ、馬鹿といえば馬鹿だろう。指で十まで数えようとしていた。その意味がわかって、私の顏は真っ赤になっただろう。
「つまりさ、君は小説を書くためには、究極のリアリティを追求するんだろう?」
絶対に馬鹿にしていると思った。だから私は、あからさまな態度
に出して黙った。
「どうしたの?」
彼が私の顏を覗き込んでくる。
「どうしたのも何も…」
私は不機嫌な顏を露骨につくる。
「何か馬鹿にしてませんか?俺、そういうために来たつもりじゃないですし」
「あ、ごめん」
と、まるで別人のような仕草がされた。彼は女性のような手つきで頬に手を充てると、目を合わせずに少し俯いた。
「まあ、いいですけど」
「じゃあ、許してくれるかい?」
「許すも何も…」
どうもペースの狂う人だと思ったが、それは私本位で思うだけで、実は彼にとってはいったて規則的なペースなのかもしれない。
俯いていたと思ったら、その顔は、また必要以上に上がった。彼の形のいいとがった鼻の穴が私を見下ろしている。
「ともかく、君がリアリティを追求するために、そうした小説を創るために、僕はとびきりの素材をもっているんだ」
「はあ、それは…、しかも、十分小説に出来る素材で、それでいて真実ってことなんですよね…」
彼は鼻で笑うと、いきなり、ほとんどソファを蹴る勢いで立ち上がった。心臓が止まるかと思った。
「なんですか、いきなり」
「ほしいかい」
彼は一度僕の目の前に向かいかけたが、そのまま反れて窓ガラス越しに外を見つめ言った。
「ほしいって…、」
「だから、ネタがほしいかって聞いてるんだよ」
金でも出せというのだろうか、だったらこっちから願い下げだ、僕は口を噤んで、視線を合わせようとしない、すらりとした彼の体躯を見上げた。
外に降る雨は単調ではあるが、不規則なリズムをもって大地を鳴らし続けていた。さっきより雨足は強まっていた。
「あの論文によれば、現実と肉薄した場所にしか、リアリティ、つまり君に言わせれば、真の小説は存在しないとか、そんな解釈でいいかな」
「まあ、そんなとこでしょうか」
確かに、そんなこと書いていた気がしてきた。
「だとしたら、僕の話は、それこそ君の小説にうってつけだね」「いや、だけど、」
「ふふ、別に冗談でも、お金なんて言わないよ」
彼はようやく窓から私の方に顏を向けると、手を差し伸べる真似をしながら笑った。
「…」
おそれいった。何だかさっきから、私の頭の中で考えてること、全て言葉にされている気がした。
「でも、そのくらいの価値はあると思うよ」
「あの、でも、別に真実を小説にしようっていうわけじゃなくてですね」
「知ってるよ。あくまでネタだろう。素材を展開させてくのが、君がやりたいことで、でも、素材に真実味がほしい」
「はい」
「結局なさそうで、ありそうなことって感じかな」
「はい」
確かにその通り、勝手に言ってくれ。単調に答えながら、それでも額に汗が滲んでしかたがなかった。
「で、まず君に幾つか質問がしたいんだけど、いいかな?」
「はあ、どうぞ」
いやだと言ったら、彼はどんな態度ででるんだろうか。
「まあ、いやと言っても、こればっかは確認しておきたい」
私は思わず目を見張った。
彼は「ふふ」とだけ笑って、ようやく窓から戻ってくると、ソファに軽く腰を落とした。
「一つ目、絆って言葉から何連想する?」
「絆ですか」
一分ばかり考えた。
「親子とか、恋愛関係かな」
「恋愛は含むの?」
「含むとか考えたわけじゃないですけど、関係っていうより語意が強まる感じですかね」
「恋愛は含むの?」
完全コピーみたいに、全く同じ口調が返ってきた。
「はい」
そう言うしかないだろう。
「じゃあ二つ目、恋愛における絆と、家族の絆、どっちが強固なものかな?」
「それは、ケースによるんなじゃないですかね」
「どっちかな?」
どちらだろうか?彼が求める答えは。「恋愛でしょうか」
「そうだね!」
彼はまたふいに立ち上がって、今度はすぐに力が抜けたみたいに座り込む。
「でも、どうして、どうして君はそう思ったの?」
「そ、それは、あっ、そうですね、家庭っていうのは、既に出来上がっちゃってるもんだから、もしかしたらあんまり絆って意識しないもんで、でも恋愛は何もないとこから創りだすわけだし、意識としては、強いんじゃないかなあ、なんて…」
我ながらよく言った。彼は芝居がかった調子で、何度か深く頷いた。
「そうかあ、やっぱりそうか。確かにね。面白いもんだよね。一見普遍的に見える家庭ってのは、流動的な恋愛が発端なんだから」
それは独り言みたいだった。彼はそうしてしばらく、何度か首をこくりこくりして、自分の考えを玩味しているようだった。
風向きが変わるのか、時折雨が窓ガラスををなぶってカタカタ鳴らしていた。私はようやく汗のひいた顔を上げ、彼の挙動から、次第に眼を離せなくなっていた。
「じゃあ、最後に、もう一つ、君はその恋愛の絆が壊れた時、どうするタイプか、それを教えてくれないか」
なぜだろう、彼の態度にはあきらかに、先鋭な感じが全くそぎ落とされてしまっていた。
「つまり、恋愛が終わったときってことですよね」
「そう、壊すんじゃなくて、壊れる、あるいは壊されるときだよ。あくまで君の場合について聞きたい」
「ううん、俺の場合ですか…」
しばらく考えてみた。彼は、僕が次に口を開くまでゆっくりと待つようで、ソファに深く座りなおすと、顎を突き上げ天井に眼を向け黙っていた。
「また、作ります」
「壊れたものは?」
「あきらめると、思うんですよ」
「え?ってことは、もう壊れたら直らないってこと?」
「いや、修復できる恋愛も確かにあるとは思いますけど、また次もあるかなあなんて、俺はいつも考えちゃいますね」
「なんでだよ!」
私はビクついて思わず部屋を見渡した。その声はまるで幼児のようで、一瞬彼が言ったとは思えなかった。彼は子供のように足をばたつかせて、あげくのはてに穿いていたスリッパを僕の足元に投げつけた。
「何でだ!修復できないっていうのか?」
唾を飛び散らしながら彼は立ち上がる。
「ちょっと、待ってくださいよ」
僕も両手を振りながらとうとう立ち上がった。こいつはおかしい、何でこうも我慢していたのだろう、彼は、どう考えてもおかしいだろう。ちょっと狂っている。
「やっぱ俺、帰ります。ネタはいいですから」「ちょっと待て!」「いや、本当いいですよ、もう」
冷静さを保つのに、なんだか涙が出そうだ。
「待て!話は終わってないだろう!」
リュックを肩にかけ、扉に向かう僕の前に、彼が立ちはだかった。背は十センチは違かった。彼が覆いかぶさるように上体をもたげてくる。私は自然、顎を挙げ体を引いている。
「勘弁してくださいよ」
私は彼の横をさっと通り過ぎた。「だからあ、待てよ!」
彼の腕が肩を掴んだ。この瞬間の戦慄といったら尋常じゃなかった。全身に鳥肌がわさわさ沸いてきて、私は肘を振って彼を押しのけていた。
背後でガラス張りの扉に体を打ちつけ倒れる音を聞きながら、私は走って玄関まで行くと、急いで靴をつっかけた。
「待ってくれ」
構うものか。
「人を殺したんだ」
「はあ、そうですか」
「大変なことしちゃったん」
「そりゃ、大変ですね」
私は振り向きもせず答えると、傘を握ってドアノブに手をかける。そのドアノブの冷たい質感が、手のひらに触覚されたと同時に、また、彼のほとんど叫ぶ声が重なった。
「彼女を、真知子を殺したんだ!」
また、違う声音だ。湿りきった哀願の声だった。
「…」
私の手がドアノブから離れた。とっくん、とっくんと、大げさじゃなく、本当に自分の心臓音が聞こえてきた。振り返ると、真っ黒な彼が、まだ倒れたままで、手を喘ぐように僕に差し向けている。「僕の話、聞いてくれるだろう?」
摺りガラス越しに、ほの白い光が見えた。廊下の壁が、音も立てずに、彼の方へと物凄い速さで動いていくようだ。私は空いている手で額の汗をぬぐった。靴の冷たい感触が、いやらしく私の足をくるんでいた。
続く
第一章