二十日鼠とアルビノマウス
天候設定は「月夜」だった。
今まで眠っていたという感覚ではない。突然に僕がこの世界に出現した。そう、「僕」が。記憶をたどる。仕事、シロ、孤独、仮想敵、衝突。僕自身に改変は見られない。そのはずだ。確証はないけど。思わず顔に触れてみる。髪の毛を一本引っこ抜いて色を確かめる。ネズミ色。異常なし。
辺りを見回してみる。滑走路から外れた草むらには黄色いタンポポが多い。ブリーフィングルームは滑走路の向こう側に見えた。シロも遠くで散歩しているようだ。ここから見渡す限り、特別に気になるものはない。
なにが変わった?
ブリーフィングルームに行けば何か分かるかもしれないと思った。というよりも、行くところは他にない。滑走路を横断。飛行場唯一の建造物へ真っ直ぐ向かう。その間も、以前との間違い探しに徹していた。ラインの色が変わったか、これも違う。塗り直されたように綺麗になったか、変わりなし。
滑走路の四分の三を渡ろうかとしたときにピタリと足を止めた。まず一つ発見。今までの滑走路の幅は、今僕が立っているところまでだった。つまり、四分の一ほど幅が広くなっている。……なんのために。首を傾げざるを得ない。
さてお次は。僕はまるで探索するかのようにブリーフィングルームに踏み入った。だが、室内に入るなり視線があるものに釘付けになる。
それは椅子。
その上には白猫。……猫?
初めて猫を見た。ちょこんと腰を下ろした白猫は目を細めて僕を見上げている。いや、それよりも重大な問題がもう一つ。
椅子が、二つあるのだ。
モニターの前には通常、僕の椅子が一つだけのはずだ。誰のための椅子なのだろうか。慣れ親しんだ場所であるはずなのに、別世界に迷い込んでしまった感覚、と言う例えは大袈裟だろうか。何かが、走ってくる。回れ右をして身構えた。出入り口の左の方からだ。見えたのは黒い毛の塊。シロだった。
「なんだよ。シロか、驚かすなよ」
言い切らないうちにシロが右に消える。左側から追うように現れた何かに掻っ攫われた。妖怪の類いか。そう言いたくなるほどの早業だった。
「捕まえだぞぉぉ! お前は何者だぁ!」
シロに抱きつくようにして、黄色い妖怪は騒いでいる。妖怪は女性のようだ。僕は部屋から飛び出してシロのもとに急いだ。
「犬は初めて見たぁ。何て名前つけようかなぁ」
僕は声も出せなく、ただ立ち竦んでしまった。シロの頭をなでている彼女は、黄色い繋ぎの飛行服を着ている。その顔を上げた時、いつかの紅い目が僕を見つけた。こちらと同じように固まる。以前は確認できなかった白い頭髪は、その大きな瞳の前でゆれている。僕か彼女、どちらかが息を吸い込んだ。それを合図にしたかのように、お互いに指を差して同じ言葉を叫んだ。
「……仮想敵!」
これが今まで、何度も相手をしてきたテストパイロット。もう一人の自分。これが?
「ぜんぜん違うじゃないか!」
「な、なにがよ」
なんだか心配して損をした。なにがドッペルゲンガーだ。完全な一人相撲の取り越し苦労と言うわけだ。
「私に、なにか残念なところでもあった?」
「べつに、なんでもない」
ため息をついた僕に彼女はむっとした顔で立ち上がる。そして、僕の近くに来て頭の上から飛行靴の爪先までジロジロ見たあと、お返しのようにため息をついた。
「あなたってさぁ、髪も目も普通のハツカネズミね」
「だったらなに」
「もっとお洒落なお相手がよかったなぁ。せめて栗毛とかの」
「はぁ。そうですか」
僕は好きでネズミ色なのではない。だが、確かに僕が野生の二十日鼠ならば、白い毛と紅目の彼女はアルビノの実験動物「マウス」であり、テストパイロットとして相応しい容姿なのかもしれない。洒落ているかは分からないけど。シロが僕たちの間に入って来て二人を見比べている。彼女の興味は平凡な僕から、初めて見た犬へと移っていた。
「そうだ、なまえ。……よぉし。お前はクロだ!」
「残念だけども、こいつは僕の犬で、名前はシロだよ」
「はい? シロ?」
そうだ、シロだ。僕は頷くとシロも同じく頭を下げた。それでもこの彼女は合点がいかないように腕を組んで頭を捻る。
「なんで? 黒いじゃん」
「でもシロ」
「おかしいよ。改名しよ? クロの方が誰も納得するって」
「シロ」
もういい、もう疲れた。シロをつれて、このうるさい妖怪から離れよう。ちょっと前まで、寂しさで悩んでいた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「シロおいで」
「なに、怒った?」
「怒ってない」
「どこ行くのよ」
「静かな所」
大股で逃げるように歩き出す。
また滑走路を横断。
タンポポが生い茂る場所に腰を下ろし、足を投げ出して横になった。脇腹の近くにシロがお座りしている。退屈と言う言葉が吹っ飛んだような感覚。仲間がいると言うことがこれ程までに窮屈なことだったのか。僕は、また一つ学習したような気がした。
仮想敵の彼女は、なぜここに来たのだろう。それとも、僕が彼女の所に行ってしまったのだろうか。いや、それは重要な事じゃない。二人を一ヶ所で管理する必要が生じたのだ。単純に考えるならば、担当者の人員の削減。
リストラだろうか。可哀想に、久留米さんはオフィスで煙草を吸いすぎるものだから、それが原因で肩を叩かれたのか。まったく喫煙者には肩身の狭い世の中になったものだ。昔は健康用品として発売されていた煙草は、時代の流れに従い、科学と医学を後ろ楯として、いつしか悪役に姿を変えた。その黒幕は国。国民の健康保安など、大義名分を振りかざして税金を徴収するための恰好な道具となったのだ。差し詰まるところ、久留米さんもそれらの変化に取り残された犠牲者に違いない。だが喫煙者でもない僕には関係のないことだ。健康に気を配る事は悪いことではないではないか。
……誰だ、こんな知識を組み込んだのは。僕は何を考えているのだろうか。そんな事はどうだっていい。思考に雑音が入って集中できない。
彼女の出現が、僕をこれほどまでに狂わせていることに驚きを隠せない。数分前に対面して、会話を五分も交わしただろうか。一時的な交流の中で見た彼女のころころ変わる表情を思い浮かべてみた。表情豊かなあの子は、本当に僕と同じ人工知能で作り物なのかどうか疑わしく思えてくる。
実は、彼女は本当に生き物なのではないだろうか。眠くなると横になって目を瞑り、精神をどこかに沈めてしまうのだろうか。お腹が空けば、口のなかに何かしら放り込み、栄養にしてしまうのかも知れない。
これから、長い付き合いになるのだろうか。そう思うと先が思いやれる。
シロのピンと立った耳が後ろに注意を向けた。犬ほど聴力のない僕は、仰向けにひっくり反えって目を向ける。彼女が猫を抱えてこっちにくる。月光で煌めく前髪の隙間に、紅い光りが二つ。顔は陰になって感情が読み取れない。
少しだけ寂しそうなのは気のせいだろうか。近くまで来ると、僕の右側に腰を下ろした。猫は音もなく地面に飛び降りて、顔のところまで近づいて来ると、あの鋭い目でこっちを睨み付けた。彼女はと言うと、落ち着かなそうに視線が地面を泳ぎ回っている。
「あー……これから同じ所でやっていくワケだしさ、もうちょっと仲良くしたいかなぁ……なんて」
「……かもね」
彼女の声は、さっきと比べて張りがない。僕も思わず声を濁られた。誰かといることは窮屈で、厚かましく、鬱陶しい事かもしれない。だけど、これから行動を共にする仲間との間に軋轢を生むことは、避けるべきだとも思う。もしかすると、彼女も同じ結論にたどり着いたのだろうか。
「その犬、シロだっけ? 貴方のペットなんでしょ?」
「そう、シロ」
僕はわざと、じろりと彼女を見つめた。どういう反応を示すのか興味があったから。彼女はにこりと笑うと両手を伸ばして白猫を抱き上げた。
「シロでいいって。悪かったよ。何かちゃんとした理由があるんでしょ?」
特別な理由はない。
「私なんか超適当、この子『タマ』って言うんだよ? 猫だからタマ、普通でしょ?」
名前の付け方は、まったく同じらしい。だが、僕は黙っていることにした。その方が僕にとって得な方向に作用するような気がしたからだ。
それからしばらく、彼女は黙り込んでいた。タマはシロにちょっかいを出して、二匹で追いかけっこをしている。遊んでいるようにも見えるし、狩りにも見えなくもない。どちらにしろ、僕と彼女だけがその場に取り残された。静かな夜気は、無色透明で昼間設定の時よりも澄んで見える。そんな空気のおかげで、心も穏やかになっていく気がする。
僕は何が気に食わなかったのだろう。
髪の毛、目の色を茶化されたから?
犬の名前のセンスを疑われたから?
僕が平凡で、彼女が特別に見えたから?
こんな曖昧な怒りが込み上げてくるほど、僕は人間くさかっただろうか。表情に富んだ彼女からは、人間のにおいがするだろうか。軽く鼻で息を吸えど、嗅覚はタンポポの酸っぱい香りしか感じ得なかった。
「ねぇ。ひとつ聞いていい?」
「うん」
声をかけられて隣人の顔を見たが、相手は視線を逸らして傑作な満月を見上げる。その姿はどこか、白い兎を連想してしまうほど綺麗な横顔だった。
「最後の試験のとき、なんで私を見たの?」
聴力が一瞬で低下した気がした。映像を消音で再生したときのように、あの時の記憶を思い出す。照準器の中に見えた彼女を目を。
「初めて、仮想敵機のパイロットが誰なのか気になったんだ」
彼女は左手を地面につけ、上半身だけを僕に向けてまっすぐに僕を見下ろしていて、その体勢はどこか色っぽかった。真剣な表情は、すでに僕の気持ちを見抜いているように思える。見透かしている、というよりも自分の予想通りであってほしいと熱望しているようにも見えた。
「つづけて」
「僕と同じ奴が乗っていたら、嫌だと思った」
僕は両手の平を枕にするようにして、横になったまま正直に答える。さっきまでトゲトゲしていた心は落ち着きを取り戻していた。
「同じパイロットが?」
「そう、僕が二人ってこと」
その回答は彼女にとって期待はずれというよりも、意味不明だったようで小首を傾げた。無意味な謎かけはやめようと思い、核心を告げることにする。本音を誰かに知られることは、とても怖いことだけれど。
「寂しいじゃないか」
「……え」
紅い瞳が、まっすぐに僕を見据える。それは探し物を見つけた時のように輝いた。何だろう。僕との会話で何を見つけた?
「この仮想世界に僕だけ。いるのはシロくらい。そのうえに仕事仲間まで自分だったら、本当の独りぼっちじゃないか」
「独りが怖い?」
「そんな感情、僕にはないと思ってたから、怖かった」
「……ふーん」
彼女は、何故か微笑む。僕に対しての笑みではなく、安心して満たされたような表情だった。
「何から何まで違う私で、安心した?」
「最初は違ったけど、今はそう思う」
「よかったね。なんか貴方とはうまくやってい行けそう」
「気は合いそうにないけど?」
「さーて、どうでしょーね」
そう言って彼女は勢いよく立ち上がると、僕に手を差し出した。起きろというのか。その手を借りてゆっくり起立し、互いに向き合って目を合わせる。僕の鼻の高さに彼女の目があった。
「私は『イヴ』っていうの」
「アダム」
「あら、私たちにぴったりの名前だと思わない?」
「わざとらしい。誰かの思惑を感じる」
「あはは、かもね。とにかくヨロシク、アダム」
また差しのべられた手に従って、握手を交わした。
その瞬間、月が太陽に切り換わる。夜が消えて昼間が現れた。それらは、新しく任務が入った事を意味している。
「さ、仕事仕事」
ブリーフィングルームに向かうため、手を離そうとした。しかし、イヴにしっかり連結された僕は、むしろ引っ張られるように、手を引かれて走っていた。
悪い気はしない。
凍てついていた心の一部が、とても温かくて心地よかった。もしかすると僕の心は、イヴに握られた右手の中にあったのかもしれない。