犬っ子の恩返し
おねショタが書きたかっただけです。それだけです。
「恩返しをさせてくださいっ」
そうのたまった少年の顔は真っ赤に染まっており、首筋まで赤くなっているのがわかった。対する私はというと、下げられた彼の頭部と臀部に視線を向けていた。
さらさらの黒髪からはぴょこんと犬のような耳が生えていて、ぷるぷると震えている。臀部からは、ひょろりと伸びた細長い尻尾が不安げにゆらゆらと揺れていた。
興味のないふりをしていながら、私の手は“ソレ”に触りたくて仕方が無かった。
そもそもなぜこんなことになったのかと言えば、昨日のことが原因だった。
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その日は、朝に見た天気予報の通りに午後に雨が降り出した。大学の講堂の窓から外を覗いてみれば、傘をさした学生が通りを歩いているのが見える。どんよりと曇った空に気分を削がれながら講堂を後にした。
朝のうちにカバンに詰めておいた折りたたみ傘を取り出すとそれをさす。雨は勢いは弱いが、ジメジメとした空気は気分を下降させるのに十分だった。手に持ったカバン、そしてその中身が濡れないように気をつけながら家路を行く。その途中だった。
「ん……?」
小さく、なにかが聞こえる。機械や物が出すような音ではない、恐らくは……動物だ。興味を引かれた私はその音の元を探し始めた。しばらく探すと、ようやく音の元にたどり着いた。
ずぶ濡れの子犬。それが音の正体だった。首輪や、飼い主の住所などを知らせるためのものがないところを見るに、捨て犬ではないだろうか。ぐったりとしていて、動きは鈍重だ。こんなに濡れていては病気になってしまうかもしれない。私は子犬を抱き上げると持っていたハンカチで水気を拭い、自宅に急いだ。
子犬は寒さからか、私の腕の中で震えていた。シャワーを浴びるために手早く服を脱ぐと、暖かいお湯で子犬の体を洗う。それと同時に子犬の体を温めるのを忘れない。この子は水を嫌がらないのか、暖かいお湯を浴びせても特に嫌がる素振りを見せなかった。
お風呂から上がり、タオルとドライヤーで子犬を乾かしていく。眠いのか気持ちいいのか、子犬の目はとろんと細められていた。やはり動物はかわいい。昔から常々そう思っていたが、こうして触れ合っていると余計にその思いが強くなる。
水気が完全になくなり黒い毛皮がふわふわになるころには、子犬は小さな寝息をたてていた。私は畳んでおいた通販のダンボールを広げてその中にタオルを敷き詰め、その上に子犬をそっと下ろした。
財布を手に取り、なるべく音を立てないように家を出る。目指すは近所のペットショップだ。
人間用の牛乳を犬に与えてはいけないという知識を知っておいてよかった。買ってきた犬用ミルクを飲んでいる子犬を撫でながらそう内心で呟く。小皿に注がれたミルクを一生懸命に舐める姿はとても愛らしい。ふわふわになった毛並みを撫でながらこれからどうするか考える。
このマンションはペット禁止ではないためここで飼うことに問題はないが、私は一人暮らしで、昼間は大学に行っている。ペットの飼育経験がない私が飼うには少し難しいだろう。
「はぁ……」
思わずため息を吐くと、子犬がこちらを見上げてきた。小首を傾げた姿はこちらの悩みを理解しているように見える。その様子がおかしくて、笑みを浮かべた。
「なんでもない。ほら、ちゃんと飲まないと元気になれないぞ?」
見上げてくる子犬の額を突くと、少ししてからまたミルクを飲み始めた。なにか考えないと。目の前の真っ黒な子犬を目にしながら、私は明日からのことを考えるのだった。
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翌朝、子犬に餌をやり周りの片付けをしてから家を出る。子犬を一匹家に残していくのは心苦しいが、できるだけ早く帰るから許してほしいと心の中で謝って大学へ向かった。今日の講義は一時限と二時限だけのため昼過ぎには帰れる。正直なところ、レポートの提出期限が今日じゃなければサボって子犬の処遇をどうするか決めていたところだった。
あの子は怪我もなく体調が悪そうというわけでもなかった。だが、油断は禁物だ。帰ったら用心して動物病院に連れて行こう。そこで獣医さんからアドバイスを貰おう。そう考えて講堂の席に座っていると、声をかけられた。
「おはよ、藤乃」
「ん……? ああ、有希子。おはよう」
吉田・有希子。私の大学で出来た最初の友達であり、大学内の時間の多くを共に過ごしている人物でもある。
「心ここにあらずって感じね。なんかあった?」
カバンからノートと筆箱を出しながら有希子が問いかける。
「なんか、と言われると、あったことにはあった」
「へぇ、話してみなさいよ。なにか力になれるかもしれないわよ?」
ここで、力になれるかもしれないという言葉が出る辺り、有希子はよい友達だ。昨日のことなんだけど、と説明を切り出す。
「午後に雨が降ってただろう? その時に家の近くで子犬を拾った」
「子犬? 捨て犬ってこと?」
「多分、そう。首輪もなかったし。それで、雨でびしょ濡れになってたから家に連れ帰ったんだが……」
「なるほどね。今家に一匹でいるその子犬のことが気になってる、と。あんた男らしい割にそういうの好きだもんね」
「最後の一言が余計だが、ご明察。本当なら講義をサボって動物病院に連れて行こうかと思ったんだけど」
「怪我でもしてたの?」
「怪我とかはなかった。念のため。……本当は朝一で行こうとしたんだ。でも、今日提出のレポートがあったから」
「あー……、あれかぁ。今回のレポート出さないと単位もらえないからねー、あの教授厳しいし」
そう、今日のレポートが単位を決めるためのものであるため、これを提出し損ねると単位をもらえない危険性がぐっと高まる。教授と面識があって直談判すればまだ可能性はあるが、その講義の教授とはあいにく面識があるわけではなかった。
「早く終わらないか……」
「そんなこと言ってもしょうがないでしょうが。今日は二限までなんだから、それまで我慢なさい」
有希子の言葉と同時に教授が講堂に入ってくる。多分、今日の講義はまったく集中できないだろう。
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講義は本来の終わる時間よりも早く終わった。具体的にはいつも乗る電車の二つ前に乗れるくらいに。これなら十二時頃には帰れるかもしれない。気持ち早足になりながら急ぐ。
「動物病院が今日やってることは確認済み。けど、予約を入れておけばよかったか。失敗した」
一人暮らしの際に癖になってしまった独り言を小さく呟いた。カバンから鍵を取り出すと、玄関を開ける。
「ただいま」
返事をする人がいないと分かっていてもこうして「ただいま」と言ってしまうのは、やはり長年の習慣からだろう。とはいえ、返事がないのは少し寂しいものだ。せめてあの子犬が小さく吠えてでもくれれば多少はマシなのだが。そう思った時である。
「おかえりなさいっ!」
部屋の奥から、犬耳尻尾を生やした見覚えのない少年が、見覚えのある私のワイシャツを着て現れた。
「――」
絶句してその場に立ち尽くし、手に持ったカバンを取り落とした私を一体誰が責められようか。その場で悲鳴を上げなかっただけでもよく耐えたと思う。いや、実際には、悲鳴すら上げられなかった、の方が正しいのかもしれない。
「あっ! ごめんなさいっ、服がなかったので……その、借りちゃいました」
頬を真っ赤に染めながら申し訳なさそうな表情をしつつ上目遣いで見つめてくる少年。頭上の耳がペタンと伏せられ、尻尾は不安そうにゆらゆらとしている。……なぜ耳と尻尾が可動しているのか。
「――あ、いや。その別に、いい……?」
混乱が口から現れたせいか、言葉尻が疑問形になってしまった。
「ほ、ホントですか……?」
「う、うん。ホントホント。怒ってない、大丈夫」
私がそう言うとぱあっと表情を明るくし、それと同時に耳がピンと天井を差し尻尾が元気よく左右に振られ始める。……かわいい。って、そうじゃない。
「とりあえず……、部屋の方に行こうか」
まずは私を落ち着かせて欲しい。
私が少年から話を事情を聞き出すことができるまでに回復したのは、数分の時間が経ってからだった。
「それで……君は誰? どうやってこの部屋に入った?」
まず知りたいのはその二つだ。いや、他にも聞きたいことは山ほどあるのだが、それは置いておく。どういった事情があってこの部屋に入ってきたのか、とにかくそれを――、
「――え?」
ぽろり、と。
少年の瞳から、涙が溢れた。
「え゛」
予想だにしなかった出来事に、またしても私の思考が一瞬止まる。私がおたおたとしている間にも、少年は溢れる涙を指先が少しだけ出ている袖で拭っていた。
待ってくれ、待ってほしい、待ってください。
そんなに私は彼の心を傷つけるようななにかをしてしまったのだろうか。
「ご、ごめんっ。でも、私はほんとに君のことを知らなくて……」
「き、きのうっ」
彼はつっかえながら喋りだした。
「きのう、たすけてもらって、それで、いっぱい、めんどうみてもらって……」
ひっくひっくとしゃくり上げる音がとてつもなく罪悪感を湧き上がらせる。少年の言葉の意味を頭の中で考える。昨日助けてもらったと言っていたが、昨日私が拾ったのは犬で……。と、そこまで考えて、彼の頭に目が行った。黒く、さらさらとしている髪の毛と、それと同じ色の犬の耳。それを見てから、部屋を見回す。
朝には子犬の入っていたダンボールの中が、空になっている。部屋の中にも、玄関へと通じる廊下にも、子犬はいなかった。そして、目の前には昨日私に助けてもらったという犬耳を生やした少年が一人。私の中で一つの仮定が浮かび上がった。
「もしかして……昨日拾った、子犬?」
ピタリと、少年が動きを止める。真っ赤になった目がこちらを見た。視線が交わったと思えば、彼の表情が途端に明るくなった。
「そうですっ! よかったぁ、忘れられちゃったのかと思った……」
泣いた烏がもう笑う、というのだろうか。笑顔に戻った少年に、今この場を乗り切ったことを確信する。だが、問題はまだある。
「その、聞きたいことがあるんだけど」
「? はいっ。なんでも聞いてくださいっ」
「君、昨日は……犬、だったよね?」
自分で言っていてなんだが、何を言ってるんだこいつは、と思っている。確かに、昨日拾った犬が部屋にいないで、代わりに同じ毛色をした犬耳尻尾の少年がいる。だが、犬が人間に変身するわけがない。そのはずなのだが。
「えへへ……。昨日は山から人里に下りてきたばかりで、お腹がすごい減ってたんです。だから、途中で倒れちゃって。そこをあなたに助けて頂いたんですっ」
違う。私が聞きたいのはそうじゃない。
「でも、今は人間だよね?」
「? はいっ、そうですよ」
「なんで、犬が人間になってるんだ?」
少年はきょとんとした顔でこちらを見つめてくる。やがて、私の言っていることを理解したかのように、ポンと手を叩き合わせた。
「忘れてましたっ! 普通の人はボクたちのことを知らないんでしたねっ」
「……どういうこと?」
「はいっ。ボクは、賢狼の一族という一族の出身です」
そうして、少年の説明が始まった。
賢狼の一族というのは、所謂、獣人のような特性を持つ生物らしい。古来から日本に住んでいて、表社会に出ないように暮らしていたそうだ。人間の姿と犬……ではなく狼の姿になることができるのだが、どちらが本当の姿だというのはなく、どちらもその者の姿なのだという。近年になってから人間社会にも適応するようになってきたようで、今では
彼らは普段山奥で集落を作って暮らしており、ある一定の年齢に達した子供は人里に出る。そしてしばらくの間そこで過ごすことで、表社会の常識などを学ぶ。その時には人里に暮らしている賢狼の一族を頼るそうなのだが……。
「あの、道に迷っちゃって……」
恥ずかしいのか、顔を伏せてか細い声でそう告げた。伏せられた耳と所在なさげに揺れる尻尾が、如実に彼の心境を示していた。
「そういえば、なんでいぬ……じゃなくて狼の姿で町に? 人間の姿でいれば良かったんじゃ?」
素朴な疑問を投げかけてみると、少年は目をぱちくりとさせて答えた。
「そう言われてみると、そうしてみたほうが良かったかも……」
どうやら考えてもみなかったことらしい。少年はどうやらちょっと、いやかなり抜けている性格のようだ。
思いついたことに、あ、と声が出た。
「そういえば、まだ君の名前を聞いていない」
「そ、そうでした。あっ、ボクもあなたの名前を知らないですっ」
しばらく二人で見つめ合っていると、自然と笑みが溢れた。
「私は、吉宮・藤乃。君の名前は?」
「ボクはナナミ・コウですっ。コウって呼んでください」
さて、一通り聞きたいことは聞けた。あとは、彼がこのあとどうするかなのだが。
「コウ、君はこれからどうする? さっき言ってたこの付近に住んでいる賢狼の一族を頼るのかい?」
「そうですね……」
コウは少し悩んだような仕草を見せると、何かを覚悟したような表情で口を開いた。
「恩返しをさせてくださいっ!」
顔を真っ赤にした犬っ子が、恩返しを申し出たのだった。
続きが思いついたら更新する……かも。