Log.7 その後
和美が来ている。先週の誕生パーティ後の成果の報告らしい。
『あの後でね、ちょっとお洒落なショットバーに連れて行ってもらったのよ』
『それで、それで』
『うん、結構いい雰囲気なんだけど、洋介さんは何か誰かからの連絡を待ってるみたい
で、中々話も弾まなくて....。それで、仕方無いから、まあどうでもいい、流行の話
とか、ファッションの話とか私がずっと喋ってたの..』
『あー、そうなんだ。で、その後はどうしたの』
『うーん、でぇ、一時間くらいしてから、PITが鳴って、誰かからの連絡が入って。
そしたら、急に、「ちょっと急ぎの用事ができた、済まない」って言われて、結局すごすご
帰ってきちゃった、って訳』
『ありゃー、そりゃ残念だったわねぇ』
藍はその理由を知っているが、一ノ瀬から念押しされているので、和美にはまだ何も言
ってない。
『あれ、きっと女からの連絡待ちだったのよ、私はただの代打だったというわけね』
『そんなことないってば、ちゃんと素直に言えば良かったのにぃ』
『だって、いつもと全然違って冗談も言ってくれなかったのよぉ、はあーっ、どうしよ
っかなぁー』
藍はこれ以上は何も言えないという顔をして、和美をしきりに慰めているが、和美の落
胆ぶりは隠しようもなく、私も驚いている。
『それはそうと、兵頭さんの突然の退職にもびっくりしたわよねぇ。だってこの前あん
なに元気にみんなと騒いでたのに、なんで辞めちゃったんだろぅ。藍、何か知ってる?』
『和美が知らないのに、私が知ってる訳ないでしょ。私だってびっくりしたんだから』
『そうよねぇ、洋介さんに聞いても、何か個人的な都合だとしか聞いていないって、言
うし。部長や課長もそのことについてはなんか冷たい感じだし』
『そうねぇ、私もそう思う』
『でしょう、何か変よねぇ』
和美は薄々何かを感じているらしいが具体的なことは判らないようだ。兵頭の逮捕と解
雇について会社側は表向きは自主退職を装っているらしく、報道もされていないので、ま
だ、事の真相については当事者以外は知らないようだ。
『まっ、いつまでもしょげてないでさ、何か美味しいものでも食べに行こうよ、ねっ』
『うん、そうだね、とにかくもう一度だけ、洋介さんに聞いてみよっと。じゃ、何処へ
行く?ああ、この前の約束果たさなきゃねぇ』
『その言葉、待ってたよー』
『やっぱり?』
アハハハッ、っと二人で笑っている。どうやらお出かけのようだな。和美が近寄って来
て。
『ミュー君、大丈夫かな? 車にぶつかったんだって? 気を付けなきゃダメだよぉ』
余計なお世話だ、これは名誉の傷だからな。
『藍ーっ、ミュー君の傷はどれくらいで治るの』
『先生が言うには結構悪いみたいで、あと3週間くらいは必要だって』
『3週間って、それすごい大怪我じゃない、大丈夫なのかな、死んじゃったりしない?』
こらこら、勝手に殺すんじゃない。
『それは大丈夫みたいだけど、かなり痛いらしくて、あまり動けないみたい』
『そっかー、可愛そうだねぇ。じゃ、藍が会社に行ってる間はどうしてるの』
『タイマー式の給餌機があるから、一応自動的に餌はあげてるけど。お医者さんにあま
り連れていけないのがちょっと気がかりなの』
『大変ねぇ、早く治るといいね。ミュー君』
『うん、ありがとね』
和美、見舞いの時は何か好物を持って来るのが常識だからな。
『ミュー、ちょっと出かけて来るから、いい子にしててね』
『ミュー君、お大事に』
二人は連れ添って出かけて行った。
あれから、かなり時間が経っているが、痛みはあまり変わらない。痛みは回復のためだ
から仕方がないが、歩行することがあれ以来徐々に困難になってきている。見た目よりは
ダメージの量が大きかったようだ。一日のほとんどを横になって生活している。
自分の身体のことだから良く判るが、一向に運動機能が回復しないところをみると、か
なり身体の奥の方で障害が発生している。少しずつ機能ダウンしている部分が増大してい
るところをみると、回復機能と神経機能があまり働いていないようだ。
やはりこの辺りの医者では無理なのかも知れない。
藍の父親ならなんとかできるかも知れないが、連絡する方法も無い状況ではいかんとも
しがたいところだ。藍が騒いで実家に助けを求めるまで、待つ以外に私に残された手段は
何も無いと思う。
藍.......お前の優しさだけが唯一の頼みの綱だ。ふぅっ、暫く眠ろう。
3時間ほど眠っただろうか。どうやら藍が帰ってきたようだ。
『ただいま、ミュー』
横になったままの私を心配そうに覗く。
『なんか、あまり良くなってないわねぇ、大丈夫かしらあのお医者さんで』
室内ターミナルが鳴りだした。誰か来客らしい。藍はターミナルのスイッチを入れて来
訪者を確認している。あの日以来、以前より神経質になってるようだ。
『あっ、竜也さんだ』
一ノ瀬か、多分、例の報告書の件でやってきたのだろう。藍にはなによりの慰めになる
とは思うが、またその反面、あの事件を思い出すことにもなるが。
『藍さん、あの時お願いしていた書類にサインを頂きたいのですが』
一ノ瀬の柔らかな声が響いた。
『はい、今カード発行しますから.....。それじゃお待ちしてます』
室内ターミナルを切ってこちらに戻ってくる藍の顔は複雑な表情を浮かべている。仕方
あるまい、起きてしまった事はもう事実なのだから。
『ミャオ』
『うん、どうかしたのミュー、どこか痛い?』
呼び出し音が鳴った。
『はーい、今開けます』
藍は玄関へと急ぎ足で向かって行った。
『どうぞ、お上がりください』
『こんにちは、お邪魔します』
一ノ瀬が書類ケースを抱えて部屋に入ってきた。
『どうぞ、お座りください。今、お茶淹れますから』
『あっ、お構いなく。書類を確認して頂いて、サインを貰ったら帰りますから』
一ノ瀬は若干落ち着かない様子で、ソファに座っている。やがて藍が湯呑をテーブルに
置いて、一ノ瀬の向かい側に座った。
『済みません、この書類にちょっと目を通して頂けますか。藍さんのお部屋への侵入状
況についての報告になります。それでこの前、藍さんが仰ってた言葉を兵頭に伝えて来ま
した』
『そうですか、それで兵頭さんはなんて仰って見えます?』
『あいつ、随分と後悔してるようでした。社内機密の持ち出しについては、相変わらず
頑なに黙秘してますが、藍さんやミュー君に対して自分のした行動については、とても申
し訳ないことをしてしまったと、そう伝えて欲しいと、言ってました。それで藍さんから
の言葉を伝えた時は、あんなことをした自分にそんな優しい言葉を頂けるとは思っても見
なかったと、そして、お気持ちはありがたいですが、やはり罪は罪として償いたいと思う、
そう言ってました』
藍は涙ぐみながら。
『本当はとてもいい方なのに....』
『ええ、僕もそう思います、魔が差したとしか言いようがなくて...。それであいつ
の気持ちを罪を償うというその気持ち大事にしてやって下さいませんか。ですから、その
書類にサインをして頂きたいのです』
『判りました、ここでよろしいですか』
藍は震える手を堪えながら調書にサインをしている、さすがに人の運命を決めるとなる
といつものようにはいかないのだろう。
『はい、ありがとうございます。これで裁判の結審を早く進めることができます。それ
で、あいつが少しでも早く社会復帰できるように色々と申請をするつもりでいます』
一ノ瀬はふっと視線を私に移して...。
『ミュー君の加減はどうですか、あまり良くなっていないようですね』
『ええ、なかなか傷の治りが遅くて、ちょっと心配になってきたのです』
一ノ瀬はじっと私の顔、とくに眼の辺りをじっと見つめている。確かI.P.だと言っ
てたな、ひょっとして気付かれたかも知れない。
『ちょっとミュー君を見させて貰っていいですか?』
『はい、どうぞ。でも何か.....』
一ノ瀬は動きの取れない私の身体を抱き上げた。いつもなら逃げられるが仕方があるま
い、それにひょっとすると治療の見込みが立つかもしれないし...。
『ミュー君、一度事故か何かに遭われてませんか』
『ええ、2年程前に交通事故に遭いまして、その時も2週間ぐらい入院してます』
一ノ瀬は私の左眼をじっと覗き込んでいる、どうやら気付いたようだ、流石だな、エリ
ートI.P....。
『あのう、それで何か判りました?』
『失礼ですが、藍さんのお父さんはひょっとして「風見忠行」さんでは』
『はい、確かに父は忠行ですが、それが何か.....』
やはりばれたようだ、なら話は早いだろう、これで治療の目処が立ちそうだ。一ノ瀬は
何やらぶつぶつと独り言を言っている。
『あのう、竜也さん。どうかなさいました?』
『あはっ、いえ、僕が学生の時に何かの雑誌に風見先生の論文が掲載されていたことを
今思い出したのでつい、それよりもう少し様子を見て、まだ回復の見込みがないようでし
たら、僕の知ってる動物病院かなり腕がいいんですが、そこへミュー君を入院させてみま
せん?』
『はい、その時は是非、よろしくお願いします』
『じゃあ、僕はこれで帰りますが、あれから何かおかしいとか変なことはありませんか』
『はい、取り立てて異常を感じるようなことは何もありません』
一ノ瀬はにっこりと笑って。
『もし、何かあれば、この番号に連絡してください。僕がいつでも来ますから、では、
ありがとうございました、失礼します』
一ノ瀬が名刺を渡して部屋を出て行こうとした時、藍が走り寄って行った。何かを決心
したような表情をしている。
『あのっ、竜也さん?』
『はい、何か?』
『あの、あの...』
一ノ瀬は怪訝な表情を浮かべて、ちょっと困っている。
『どうかされましたか、何か不安な事でもあります?』
『いえっ、違うんです。あの、良ければまた来て下さいませんか、えっと、こんな形じ
ゃなくて、お友達として来て欲しいんです』
一ノ瀬はじっと藍の顔を見つめている、藍はもう下を向いてしまって、しきりに手を揉
んでいる。しばらくしてから一ノ瀬が微笑みながら答えた。
『僕で良ければ、喜んでお邪魔します。それに藍さんはもう僕の友達ですからね』
『あっ、ありがとうごさいますっ』
藍は頬を染めてはにかんだ表情をして何度もお礼を言っている。やりすぎだ。それに気
持ちが見え見えだし、仕方のない奴だな。でも、それが藍の良さだろう。
『では、これで失礼します。ああ、そうですね。また会社でお目にかかりましょう』
『はい、今日はありがとうございました』
扉を閉める音がして、藍が部屋に戻って来た。心なしかいつもの表情に戻ったようだ。
『へへっ、言っちゃった。でもなんかライバルは多そうだなぁ』
それくらいでしょげるなよ。
『ミャーオゥ』
『うん、ミュー、判ってるわよ。できることはちゃんとするから、ね』
良く判ってるじゃないか。藍が撫でてくれている。痛みが少し和らいだ気がする、この
まま眠るとするか、おやすみ、藍、ありがとう.........。
それから幾日か経ったが、一向に私の体調は回復の兆しが見えない、どうすればいいの
だろう、藍も何か府に落ちないような感じを抱いていることは、最近の態度から見れば良
く判る。おや、PITが鳴ってるぜ、藍はどこだ....。なんだシャワーだったのか。
『はいっ、風見ですっ。えっ、あっ一ノ瀬さん...。はい、はい、えっ、明日ですか
いえっ、何も予定は無いです、ええ。えっ、ほっ、本当に、あのっ、私でいいんですかぁ
あっ、はい、行きます、絶対行きますっ。それで時間は..。はい、はい10時にシネマ
タウンの入り口ですね。はいっ、はいっ、ええとっても嬉しいです。はい、じゃあよろし
くお願いします。はい、失礼します』
通話を切って藍は濡れたままの髪の毛を拭きもしないで、ボーッとしている。突然。
『うわーっ、やったー、ねぇ、ミュー聞いて聞いて、一ノ瀬さんがさぁ、明日、映画に
行こう、だって、だってぇ。あーん嬉しいよう』
藍は急にポロポロと涙を零して...。
『嬉しいよー、嬉しいよー、ミューっ』
良かったな、藍。で、嬉しいのは判るが、いつまですっぽんぽんでいるつもりだ、風邪
を引いたらデートどころじゃ無いだろうに。と、思っていると。
『ハックション、いっけなーい』
藍はダッシュで風呂場へ戻っていった、まったく気をつけろよ、本当に仕方のない奴。
翌々日、藍は気合を入れてめかし込んで、出かけていった。どじ踏むなよ、成功を祈っ
てる。
藍が出かけたので、ソファーに横たわったまま、しばらく眠っただろうか。
私の状況は見た目よりさらに悪化している。身体の奥で歪んだ音がしているのが判る。
どうすべきか、と言っても、私には連絡する方法も無い。猫が電話なぞしたら、茜はその
場でひっくり返るだろうし、下手をすれば誰かの悪戯と勘違いする可能性も否定できない。
しばらくして、タイマーセットした給餌機から、私の昼ご飯がトレーに乗って出てきた。
こういう情緒の無いものは嫌いなのだが、いかんせん私がどうにかできることではないし、
出されたものを黙って食べるしか仕方あるまい。そんなことを考えながら、給餌機の近く
に移動しようとした時、何かの電気器具の配線を踏んだようだ、配線に引き摺られるよう
にして、藍がさっきまで使っていた何かの美容器具が私めがけて落ちてきた。だめだ、避
られない。
鈍い音と共に私の背中付近を直撃したそれは私の背中がクッションとなったのか、壊れ
ることも無く、床にゆっくりと落ちた。
私はその衝撃でしばらく動けなくなっていた、どうやら事態はますます悪化したようだ、
身体がまったく言うことを聞かない、前足一つ動かせなくなったようだ、鳴き声も出ない。
まずい、視界もだんだんと狭くなって来た。藍、どうやら私はここまでのようだ、短い
間だったが、お前と暮らせて楽しかった。猫は飼い主には死んでいくことろは見せないも
のだから、藍がいないのは丁度良いのかも知れない。そんなことを薄れていく意識の中で
考えていた。藍......、さらばだ。
つづく