Log.1 夏去り母来たり
本編にゃ
夏もとっくに過ぎて、涼しい風が心地よい、猫でも人間でもこの季節を嫌いな人はあま
りいないかも知れない。
その女性はあちこちをキョロキョロしながら歩いていた。何かを探しているようだった。
私のいる場所からはおよそ200mぐらい離れているだろう、が、私の勘が何か懐かしい
感覚を呼び覚まそうとしている。ありゃ、あの女性は藍の母親じゃないか、おかしいなあ
藍は昨日もかなり遅かったし、今日は土曜日なので朝寝を決め込んでたから、私はいまだ
に朝飯にもありつけないので、こうやって暇つぶしの散歩に出ているのだが、母親が来る
などとは一言も言ってなかったし、帰ってから連絡をした様子もなかったのに。
まあそんなことより藍の母親が迷子にならないようにするのが先決というものだ。私が
言うのもなんだが、あの母娘は本当にそっくりで、並んで見ればすぐに判ってしまうほど
良く似ている。それも外見だけでなく、方向音痴、慌て者、せっかち、そそかっしいなど
など、この二人は全く同じ遺伝子で出来上がってるじゃないかと思うほどだからな。
私は今いる場所からマンションを取り囲む高いスカイブルーの壁の上を、藍の母親の方
へと歩いていった。壁が途切れたところで、歩道へと飛び降りて、まるで鳥のように忙し
くあたりを見回している、女性の足元に近づいた。
『ミャーオゥ』
藍の母親は足を止めてこちらに振り向いた。
『あれ、ミューじゃないの、どこから来たの』
藍の母親、この言い回しは面倒だな、えっと母親の名前はと、そう、茜だった筈だ、で、
その茜は私を抱き上げて、この茜に抱っこされるのは心地よい、思わず喉がゴロゴロと鳴
ってしまう、猫を扱う勘所を知っている。
『あら、ちょっと痩せたかしら』
茜さん、やっぱり判るかい、私の苦労が、さすが伊達に年を取ってない。
『気のせいかしら』
あまりがっかりさせないでくれ、やっぱり母娘だ、血は争えない。
『そんな事より、藍の部屋はどっちなの、お前一緒に住んでるのでしょう?』
そんな事と言われては立つ瀬がない、やれやれ仕方が無い案内するか、もしここで見捨
てたりしたら、後で薄情なやつとか、恩知らずとか言われそうだからな。
茜が私を歩道へと降ろしたので、私はひとつ伸びをしてから、茜の顔を見て。
『ニャーゴ』
そして、ゆっくりとマンションの方へと2、3歩、歩いてから、振り返り、もう一度。
『ニャーゴ』
と、茜を呼んだ。
『ああ、そっちなんだね、藍の部屋は』
私の後を付いて来るようだ。さてと、では藍の部屋へと戻ることにしようか、私の朝飯
もついでに用意してもらおう。見慣れたスカイブルーの壁づたいに、マンションの入口へ
と向かいつつ。そういえば駅からここまでの道は大通りを真直ぐ西へ来て、3本目の道を
北へ入ってすぐだし、確か茜も一度来ている筈だ、それにこの辺りでは結構目立つ建物だ
が、一体どうやったら迷うことが出来るのだろう、などと考えながら歩いていた。
『ミュー、もう少し早く歩けないの』
出たな、せっかち一族。私はすこし急いでマンションの入口へと走りこんで行った。
『ミュー、ちょっと早いわよー』
一体、どっちだ。
『ああ、ここね、やっと思い出したわ、ミューありがとー』
私はマンションに付けられている、ペット(私はペットではなく同居人、もとい猫だ)
専用の入口がある、私の着けられているID首輪を自動認識してこのマンション内に住む
色々な動物が自由に出入り出来るようになっている。藍は私のためにわざわざこういった
所を選んでくれたらしい、まあそういう良いところもある。
一方人間に対してはかなり検査が厳しくなっている、昨今の犯罪情勢は凶悪化してるし
件数も増加の一途を辿っている、と、昨日藍が見ていた報道情報に流れていた。そのため
かどうか知らないが、このマンションでは以前から、声紋認識、瞳孔認識、などの厳しい
検査が自動的に行われている。来訪者は入口に備え付けのアクセスターミナルから入居者
を呼び出して、IDカードを発行してもらいそれを体に着けて、入口、エレベーター、入
居者の部屋へ繋がっているホールの3箇所で自動検査されて、やっと目的の部屋の入口迄
辿りつくことになる、最後に入居者の部屋の前に有るアクセスカメラにカードを差し込む
ことにより、入居者のインターホンが鳴る、という複雑な仕組みになっている。
私はペット専用通路を通って、これもまた専用のエレベータに乗り込む、すると首輪の
ID識別により自動的に藍の部屋がある17階へと到着する。このエレベータは私は少々
気に入らないところがある。それはある程度時間が経つと、自動的にペット排出動作を行
うようになっている。ペット排出動作、それは中にセットされたバルーン(車のエアバッ
グみたいなやつ)が膨張して、エレベータ内から押し出されるのである。こういう非動物
的装置を作ったやつの顔がみたいもんだ。
ここからはペット用通路が自動的に組み合わされていって、歩いていけば、藍の部屋に
勝手に入っていけるのである。が、しかし、無機質な金属製の通路は、景色が見えるわけ
でもなく、それに他の動物の匂いがして、あまり通りたくないところでもある。
などと、思いながら藍の部屋へと辿り着いた私は早速藍のベッドへと向かっていった。
やっぱりまだ寝てる、やれやれ起こしてやるか、私はベッドの上に飛び乗り、眠ってい
る藍のお腹あたりに移動していった、なんで人間の女はこうぷにょぷにょしてるんだろう
非常にバランスを取りにくい、そんなことを思いつつ、お腹の上で恒例の猫マッサージを
始める事にした。
猫マッサージ、それは猫が飼い主を起こす時につかう非常手段でもある、ひとつ間違え
れば寝ぼけ眼の飼い主に蹴飛ばされたり、投げられたり、挙句の果てにひどく怒られたり
して、猫にとってはあまりしたくない作業である。4つの足を使って藍のお腹をぐにょぐ
にょと揉んでみる。
『あはは、やめてよー』
あれっ、なーんだ寝言かよ、じゃもう一度、ぐにょぐにょっと。
『あはははっ、だめだってばー』
あちゃー、まだ寝言を言ってる。今度こそ、強めにぐにょぐにょ。
『きゃはははっ、ミューやめなさいっ』
なんだ、起きてるじゃないか、それならさっさと起きて欲しいものだ。
『まだ眠いのだからぁ、いい加減にしないと怒るわよっ』
そこで、部屋の呼出コール音が、危ないところだった。どうやら茜がアクセスターミナ
ルの使い方をようやく理解したのだろう。
『あれーっ、誰なんだろう、何も約束してないけどなぁ』
藍は大きく欠伸をひとつしてから、室内用のターミナルへと向かって行った。徐にター
ミナルのスイッチを入れている。映像が出たようだ。藍の反応が鈍い、まだ寝ぼけてるの
か。すると向こう側からの音声がターミナルスピーカーから流れた、茜の声だ。
『藍っ、ちゃんと起きてるのっ、母さんよっ、判らないのっ』
うへっ、アクセスターミナルでかなり梃子摺ったようだな、テンションが異様に高いよ
うだ。何しろあれは人工知能が搭載されてはいるが、通り一辺倒の答えしか返さないから
かなり評判が悪いらしい、とくにメカオンチには相当堪える代物らしいが。それにしても
茜の様子はそれを超えているようだ。藍はそれを見て、瞬時に悟ったらしい、ヤバイ母親
がキレかけてると。
『あぁ、母さん、どうしたのよ突然に来るなんて』
『どうしたも、こうしたもないから、さっさと入れるようにして頂戴っ』
ちょっと怖い。
『うーん、判ったわよぉ、今IDカード出すから、それを持って来てね』
『カードね、それなら、早くしてよ』
藍が室内ターミナルを操作してIDカードを発行している。
『そこにブルーのカードが出てる筈だけどぉ』
『ああ、これね、ところであなたの部屋は何階だったかしら』
『エレベータが勝手に止まってくれるから大丈夫よ』
『勝手にねえ、何か心配だわ、まあいいわ、行ってみましょ』
『じゃあ、待ってるからね』
室内ターミナルをオフにしてから、藍はぐるりと自分の部屋を見回して....。
『いっけなーい、先週から忙しくて掃除してないーっ』
*1
ようやく本当に目が覚めたようだ。そこら中に散らかっているのは、読み終えたDBを
積み上げた山、お菓子の空容器、洗濯をしていないブラウス等々と多種多様である。必死
に着替をしている藍をボーっと見てるところへパジャマが飛んできた。今日の藍の服装は
濃いブルーとグレーの大きな横縞のTシャツと黒いジーンズである、色が白いから首とか
手が浮き上がって見える。髪は長めのストレートだが、無造作に束ねてある。
『えっと、これは洗濯機に入れて、これはクローゼットと、それから..』
凄まじい勢いで片付け始めたのはいいが、行き先は殆どクローゼットとトラッシュセッ
トという有様では、本当に片付いているのか疑わしいものである、が、見ている私の目ま
で回りそうである。
『ミギャーッ』
『ミューごめんっ、ちょっとそこ邪魔っ』
何も私の尻尾まで踏まなくても.....かなり痛い。仕方がない、いつものオーディ
オラックの下へと退散することにしよう。
目に見えるものはあらかた片付いたようだが、床の上にはまだ細かいゴミが散らかって
いる、私の抜けた毛もそこかしこにふわふわとしていて、藍が通る度にその風にまかれて
藍にくっついて移動する。
『よし、後はクリーナーで吸い取ればOKね』
室内クリーナーへとすっ飛んで行って、スイッチを入れた。甲高いモーター音が響いて
床の上の色々な残滓を吸い取って行く、むろん私の毛も吸い取られて行くのだが。それを
見ているうちに、またも私の本能が沸々とたぎって来る、じゃれたいという欲望を押えら
れなくなってオーディオラックの下から飛び出そうとしたその瞬間、クリーナーのノズル
が私の脇腹を直撃した。
『ウギャーッ』
『ミュー、そんなところで遊ばないのっ』
猫は遊ぶ以外に何かすることがあるのか、家事手伝いをする猫がいたら見たいものだ。
八つ当たりとはこのことだなと思いつつ、痛む脇腹を抱えながらソファーへと移動する。
その時、ドアのチャイムが鳴った。
『うわぁーっ、ギリギリセーフだわっ』
やっと部屋の掃除を終えた藍は玄関へと駆けて行った。扉が締まる音がした。
『おはよう母さん、どうしたの今日は』
『それより、少し休ませて頂戴、駅からここまで20分もかかったのよ、あなた毎日良
く通ってるわねぇ、こんなに遠いとこから』
『変ねぇ、そんなにかからないわよぉ、5分もあれば十分のはずよ、ちょっと待ってね
今、お茶を淹れるから』
自分がどんな道を辿ったかも忘れているようである、あほらしくて聞いていられない、
それよりお腹が空いたし、脇腹も尻尾もまだ痛いし。藍のジーンズのふくらはぎあたりに
擦り寄っていった。
『ミャーオゥ、ミャーオゥ』
『ミューちょっとうるさ....、あっ、ごめーん朝ご飯まだだっけ、ごめんねぇ』
やっと気付いたか。今朝はどうやらドライタイプのようだ。私はどちらか言うと食べや
すくて香りも良い缶詰の方が好きなのだが、時間もないことだし仕方がないか。
『はい、どうぞ遅くなりました』
解ればよろしい、さてと、頂きます。どうもこのバリバリするところが気に入らないが、
でも、お腹空いてるから美味しい.......。
『母さん、ハイ、お茶ぁ』
『ああ、済まないね、きちんと部屋も掃除してるようだし、昔のあなたとの部屋ときた
ら本当にもう.....』
『もういつまでも昔の話は止めて欲しいなぁ...』
『そうは言うけどね....』
どうやら思い出話に火がついたようだ、こうなると30分はこのままだな。これ食べた
らミルクが欲しいところだが、果たして気付いてくれるかどうか。
*1.DB(DigitalBook)はディジタルメディアセットで読む本。
つづく