第一章
0章 青空の下で
――カキィィン!
甲高い音を立て、白球は雲一つない青空へ吸い込まれていく。
「オーライ、オーラーイ……」
勢いを無くした白球が、今度は地面へ向かい降下を始める。
その落下地点に立つのは、俺――鶯谷直希の平凡で普通の高校生活が大きく変わる出来事を起こした少女――北大路紗菜だ。
「無理はするなよー!」
「多分、大丈夫ー! わっとっと!」
青空から落ちてきた白球を、危なげながらもしっかりと捕る紗菜。
バシッという気持ちのいい音とともに、白球は見事にグローブに収まる。
「わぁぁ、やったよー! 捕れた捕れたっ!」
あまりの嬉しさに、その場で飛び跳ねて喜びを表す紗菜。
彼女のトレードマークである黒い大きなリボンが頭の上で揺れる。
「おぉ、やったじゃないか! さすが、女子ソフトボール部の部員だなー」
「おう、今のはナイスだった」
「さすがです、先輩!」
「うむ、なかなかいい動きだったぞ」
「えへへ、そんなことないよー」
周りの皆も紗菜を褒め称える。
それに対して照れ隠しをする紗菜。
「この調子なら、マジで俺ら野球部に勝てるんじゃね?」
「……そうかもしれない」
俺たち女子ソフトボール部は今、この高校の硬式野球部に対決して勝とうとしている。
そもそも、男子がいるのに女子ソフトボール部っておかしくないか?
そんな疑問が俺の中に生まれたのも、俺の平凡な高校生活が終わりを告げたのも、野球部と対決することになったのも――すべては、あのときの出会いから始まったんだ。
第一章 出会いと思い
六月も中旬になり、山に囲まれた関東の地方都市・美桜市では、すでに蝉が鳴き始めていた。
俺はいつも通りに市内に走る小さな電車に乗り、桜ヶ咲工科高校(通称、咲工)へ向かう。
この電車には、もう一年以上お世話になっている。
常に乗客は一人か二人で、切符の販売は行っていない。
駅に着いたとき、箱の中に乗車料金を入れるのだ。
十分ほどで電車を降り、駅からの道のりは徒歩で向かう。
が、そこでいつも俺が来るのを待っているやつがいる。
「よう、今日も暑いなー」
俺の高校一年生からの男友達である直江霞だ。
こいつとは結構気が合っているので、いろいろな場面で一緒に行動することが多い。運動神経に関しては、こいつの右に出るやつは今の所見たことがない。
まぁ、勉強のほうは少しあれなのだが……。
「あぁ、本当に暑いな」
眼鏡を外し、額ににじみ出た汗をシャツの袖で拭う。
ずっと、冷房の効いた電車の中だったので、外の暑さに少し驚いた。
「さて、ではいつも通り男だらけの俺らの高校へ向かいますかー」
「そうだな」
いつまでも駅の前でしゃべっているわけにもいかないので、学校に向かい歩き始める。
高校までは微妙な上り坂になっている道を五分ほど歩き続けなければならない。時間で言えば少しの距離に聞こえるが、実際は結構疲れる。
「昨日の俺カノ見た?」
「あぁ、見たよ」
坂を上り続けながらなんとなく会話をしていると、話はいつの間にか昨日やっていた深夜アニメ「俺のカノジョがこんなに可愛いわけがない」についての話題になっていた。俺は先週から見始めたので、初めのほうの内容は解らないが、見た感じでは良いアニメだった。高校生の男女、明夫と雪乃がひたすら愛を深めていく話という斬新な話で、咲工の生徒の中でも人気が結構高い。
「俺もあの雪乃ちゃんみたいな彼女になって欲しいよー、そして高校生活を満喫したいよー」
「アニメのキャラは、現実には出てこないよ」
霞はいつもこんな感じだ。アニメや漫画のことは、全然知らないわけではないが、霞ほどではない。
「知ってるよ、そんなこと! でも、ウグイスだってまったく興味がないわけじゃないだろ!?」
「そ、それは、そうだけど……。でも、咲工は男子が生徒の九割を占めている工科高校だぞ? 恐らく女子と会話することさえ、難しい」
「それを、改めて言うなよ~……。あーあ、こんなことなら普通校か商業校に通うんだったなー」
「もう手遅れだろう」
「ほんと、もう一度中学に戻って高校選択し直してー」
俺だってそういうアニメの世界のような、女子との出会いや恋愛に興味がないわけではない。ただ、俺たちが通っているのは工科高校、つまり女子が極端に少ない。人の人生に一度しか訪れない高校生活という時間を、女子と付き合ったりすることは愚か、一回も会話をせずに終えてしまう可能性だってある。
でも、俺はそれでもよかった。確かに出来ることなら高校生活で女子の友達を作り、休み時間や放課後などの自由時間に楽しく会話をしたりして楽しい時間を過ごしてみたいが、だからと言って普通の高校や女子がいる高校に通っても、なにも取り柄がない俺はただそこでも無駄な時間を過ごしてしまうかもしれない。
そう、……怖いのだ。
ただ無駄な日々を過ごし、大した意味もない人生を送り、そのまま死んでいく――それがたまらなく怖い。自分の存在理由がよくわからない。
そんな怯える俺の前に、一人の人間が現れた。彼は恐怖に怯える俺を色々と支えてくれた。彼と話していくうちに俺は徐々に無意味な死に向かう恐怖を克服していった。彼がいたからこそ、今の俺がある。もし彼がいなければ、俺は多分ここに存在しない。恐らく、恐怖に押しつぶされて自殺かなにかで死んでしまっていただろう。彼には本当に感謝している。
「よっ、お前ら!」
ちょうど正門の前あたりで、後ろからいきなり声を掛けられる。しかし、俺は驚かない。だって、この声の主こそが――
「啓介!」
俺を支えてくれた彼――浅田啓介なのだから。
「うぉ! びっくりしたー!」
「驚かせたか? わりー、わりー」
啓介が片手を縦にして謝る。
啓介は俺たちより一学年上の三年生だ。身長がとても高く、ルックスもかなりいい。彼こそ、真のイケメンと呼ぶのに相応しいだろう。その上、スポーツ万能で文武両断、咲工の生徒会長も務めている、まさに完璧な人間。性格も明るく、ノリが良いため誰からも人気がある。いつも、全開に開けた学ランが特徴的だ。
「どうした? ウグイスー、元気ないじゃないか?」
「いや、何もないよ? いつも通りだよ」
「そうか? そりゃ、平和で何よりだ」
啓介はこうやって毎日、俺たちに会うと俺たちのことを築かってくれる。俺はそんな啓介に掛け替えのない信頼感を抱いていた。
因みに啓介も霞も、俺のことはウグイスと呼ぶ。理由はうぐいすだには言いにくいからだそうだ。
「じゃ、ちょっと急いでるんで先にいく」
「なにか、急ぎの用事があるの?」
「恒例の女口説きかー?」
霞がニヤニヤしながら啓介に言う。
「ちがう、生徒会の仕事だ。昨日サボって帰ったから結構溜まっててな」
「そうなんだ、生徒会頑張ってね」
「おう、じゃあな!」
学ラン裾をたなびかせて、啓介は急ぎ足で校舎に入って行った。
「俺らも行くか」
「そうだな」
俺と霞も校舎の中に入って行った。
・
午前中の暇な授業も終わり、昼休み。
俺は霞と一緒に食堂へ向かっていた。今日は朝食を抜いて来たせいか、やけに腹が減っていた。
「今日の昼飯どうする?」
「別に、まだ決まってないけど」
「じゃあ、あの伝説の激辛マーボー豆腐頼もうぜー」
「なにっ!?」
激辛マーボー豆腐とは咲工の食堂の伝説のメニューの一つである。食べた者は胃の中が焼けるように痛み、保健室のベッドの上へと運ばれる。
その恐ろしさゆえに、よく生徒の遊びの罰ゲームとして適用される。
その激辛マーボー豆腐を自ら食べるとは……!
「霞、今まで楽しかった。次の授業担当の井上先生には、ちゃんと言っておくよ」
「えっ! なに、ウグイスは食わないのか?」
「そんな無謀な挑戦をして死にたくない」
「死なないってー。あんなのただの噂だろ? 一回食ってみようぜー? 俺がおごるからー」
「お断りだ、先に飲み物買ってくる」
「食ったら意外と美味いかもしれないのに……。あ、俺ミネラルウォーター買って来てくれ」
「了解」
俺は霞から小銭を受け取ると、運動部の部室がある部室棟と呼ばれる建物の近くにある自販機へ向かった。
さて、何を飲もうか……。
小銭を片手に自販機の前で悩んでいると――
『調子こいてんじゃねぇぞ、オラァァァァー!!』
バァンッ!
――凄まじい怒声と共に、ロッカーかなにかを蹴り飛ばす音が聞こえた。
「な、なんだ!?」
すぐさま音がした方に目を向ける。目に入ったのは部室棟のとある部室だった。
俺は飲み物を買うのを辞め、その部室へ向かった。
『……でも、まだ私たちがいます!』
『お前たち二人だけだろ! 二人でどうやってこの部活を続けていけるんだ!?』
『くうぅ……、そ、それはっ……!』
部室に近づくにつれ、声は徐々に大きくなっていく。
「……言い争いか?」
部室の中にいる人間は一人ではない。少なくとも二人、……いや、もっとたくさんいる。片方は男でもう片方は……女?
『オラッ! 何も言い返せねーじゃねえかよ!』
『先輩を苛めないで下さい!!』
『苛め? ハァ!? 俺はお前らのその無駄な練習時間を全国大会優勝経験ありの、俺ら野球部に譲って欲しいって言ってんじゃないか! なぁ、お前ら?』
中から下劣な男たちの笑い声が聞こえてくる。部室の前の札には女子ソフトボール部と書かれていた。
『とにかくだ! 今すぐこの部を辞めろ! そうすれば、この部は自動的に廃部になるし、俺らの練習時間は増える! 簡単なことじゃねぇかよ!』
『……そんなの、絶対にお断りよ!』
『ッンだと、ゴラァァァァァ!!』
『キャ――――!!』
バァン!
「――ッ!」
俺は何の考えもなしに、部室の扉を思いっきり開け放った。
中では大勢の坊主頭の咲工男子生徒たちが、壁際で身を寄せ合い怯えている咲工女子生徒二人に殴りかかろうとしていた。
……どうしよう
その景色を見て、思ったことがまずそれだった。
部屋の中の時間が止まる。お互いに沈黙状態。女子生徒たちも俺を見て、瞬きを何回もしていた。
「……お、オイ!」
先に沈黙を破ったのは坊主頭たちの一番力のありそうなやつだった。
「お前、誰だよ!」
「え、あ、えーと……」
……ヤばい、マジでどうしよう?
「お、お前ら、こんな所で何をしているんだ?」
俺は通りすがりの先生か!?
完全にパニックに陥り、自分に自分でツッコんでしまう。
「アぁ? ンなことお前に関係ねぇだろッ!!」
言葉を発するのと同時に、俺の顔めがけて拳が放たれる。
「うわっ!」
俺はその攻撃を、両腕をクロスにして受け止める。想像を絶する痛みが、右腕を襲う。――もしかして、折れたか!?
「――チッ!」
相手は流れるような動きで右にずれる。
「オラァァァ!」
すぐに後ろから、別のやつが蹴りを入れてくる。
「――っ!」
駄目だ! 防御が全然間に合わない!
「ラァァァー!」
「ぐふォッ!」
相手の蹴りが、腹部にえぐり込む。そのまま後方に飛ばされ、ロッカーに頭をぶつける。一瞬、気を失いそうになったが、辛うじて持ちこたえる。
「……痛ってー」
胃液が込み上げてくるほどの強烈な蹴り。ヤバい、本当に死ぬかも……
「だ、大丈夫!?」
誰かが、俺の体の近くに駆け寄って来て声を掛ける。誰だろう?
腹部の痛みを堪えながら、目を声のする方へと向ける。
視界に入ったのは、さっき部屋の隅で怯えていた女子生徒の一人だった。心配そうにしゃがみ込んで、俺の顔を覗き込んでいる。黒いリボンで一つに括られている長くて、薄い茶色の髪が地面に垂れている。
可愛い……。
もう、なんかこんな可愛い子を守ろうとして死ぬのならいいかなー、と思ってしまった。
「……いや、死んでしまったらまずいだろ」
我ながら、こんな状況で一目惚れ出来る自分の神経が凄いと思う。
「邪魔だ! どけ!」
「これ以上は止めてっ!」
「黙れー!!」
坊主頭は、拳を片手に大きく振りかぶる。
「――っ!」
まずい! このままじゃ、彼女が!
――そのときだった。
ガチャッ
「おーい。ここか、ウグイス?」
部室の扉が開き、外の光が入って来る。その光の中に見えたのは――
「……霞?」
痛みで視界がかなり霞んで見えているが、そこに立っているのは確かに霞だった。
「アぁ? また、邪魔かよ! ったく、付いてないぜ!」
「お、おいっ! ウグイス! お前……、一体どうしたんだよ!?」
霞は驚いた様子で、俺の元へ駆け寄ってくる。
「……か、霞か?」
「ここで何があった!?」
「まぁ、色々とな……」
「……こいつらか!」
霞は坊主頭たちのほうに目をやる。
「だったらなんだよ? お前が俺たちの相手をするのか、たった一人で?」
「――っ! コイツら!」
霞は怒りに震える拳を握りしめて、坊主頭たちのほうに向かい歩いていく。
「止めろ、霞! 俺は、お前に迷惑を掛けたくない!」
「……何言ってんだよ! こいつらがお前をこんな目に合わせたんだろ! だったらっ」
「お前があいつらを殴っても、何も解決しないんだよ!」
「っ! ……確かにそうだが」
「なんだよ! 結局、何もしねぇのかよ!」
「くっ!」
霞が悔しそうに坊主頭たちを睨む。
「そ、それより霞。このことを、先生たちに伝えに行ってくれ」
もし、彼女たちに被害が及んでしまったらまずい! それに、霞がこいつらを殴って停学にでもなったら……。先生がこの場に出てきたら、さすがにこいつらもおとなしくなるだろう。
「せ、先生にか? ……わかった! 待ってろよ、ウグイス!」
部室の扉に向かい霞は走り出す――
「チクらせるかよ!」
――とそこに坊主頭たちの一人が行く手を阻もうと、扉の前に立つ。
「――っ! クソっ!」
霞は再び拳を構える。
――あいつに迷惑をかける訳にはいかない!
俺は近くに転がっていたソフトボールを、扉の前に立っている坊主頭の顔めがけて放り投げる。
「――痛っ!」
さっき、拳を食らった右腕が悲鳴を上げる。俺はそれを必死に堪え、ボールを投げる。行けぇぇぇ!
「うぉっと!」
しかし、ボールは坊主頭に無残に避けられ、バァン! という空しい音を残し、壁に激突した。――クソっ!
「っとっと、うぉぉ!」
ボールを避けた坊主頭は床に転がっていた金属バットを踏み、バランスを崩した。ドスっ! という大きな音を立てて、しりもちをつく。
「ナイス! ウグイス!」
霞は俺に向かって親指を立てると、そのまま扉に向かって走って行った。
――頼んだぞ、霞!
俺はそんな霞の後ろ姿を、ぼやける視界で見送った。
「――コイツ! マジで殺してやる!!」
さっき、扉の前で転んだ坊主頭が床に転がっていた金属バットを片手に、力なく横たわる俺の元へとやって来る。
「そ、それはまずいんじゃないか!?」
近くの坊主頭が顔を青くして言う。
「ウルせェェ!! 黙ってろ!!」
忠告をした坊主頭の体が震えあがる。
「ハハハ、入って来る部屋を間違えたな。ま、運がよければあの世で会おうぜ!!」
坊主頭がバットを大きく振りかぶる。
――あぁ、今度こそ死んだかも。
……まぁ、でもこれで良かったのかもしれない。俺の無意味な人生も、彼女たちを守って死ぬという最期で、少しは意味のある人生になるような気がした。
霞、早く来てくれ。早く来てくれないと、俺だけでは殺り足りないこいつらは多分、彼女たちにも手を出すだろう。それだけは、……それだけは、避けたい。
「オラァァァ!」
バットが物凄い勢いで右のほうから迫ってくる。
ゴキィィン!!
頭の中が、脳が揺れる。強烈な吐き気や痛みを感じたが、それらに対して声を上げる暇もなく、意識が消えた。
「い、……嫌ァァぁァぁァー!!」
意識が消える直前に、俺を心配してくれた女子生徒の叫び声が聞こえた。
次回に続く