第三章 第十六話 加速する消滅と、夜の独白
◇ 帝都 外交賓客館 ——三日目 昼 ◇
外交協議は順調に進んでいた。
アリアが交渉の場で冷静に言葉を選び、ガルドスが後ろで睨みを効かせ、エルンが帝国側の文書の用語の細かいニュアンスを確認する。三人はそれぞれの役割を自然にこなしていた。
レンはその傍らで設定ボックスを読み続けていた。
帝国の設定は、法典体だ。変更に対する「抵抗」がある。それは比喩ではなく、ボックスを開こうとすると、王国では感じなかったわずかな重さがある。扉を押すときの、最初の一押しの感覚に似ていた。
(帝国の設定を改稿する場合、そのぶんコストが高い。……覚えておかないといけない)
協議が一時中断になり、茶が配られた。
エルンがレンの隣に滑り込んできた。「さっきの帝国式契約書の第七条、面白い書き方してましたね。『変更は原則として認めない』って普通書かないじゃないですか」
「そうだな」
「王国の文書って、変更可能前提で書かれてるんですよ。でも帝国は最初から変更を想定してない。設計思想が根本から違う。なんでだろうな〜って」
(なぜなら帝国の「設定」は、変更されることを恐れているから——でも、それは言えない)
「研究しがいがある街だな」とだけレンは言った。
エルンが嬉しそうに「そうなんですよ!」と声を上げ、帝国式書法の独自の分析を語り始めた。
◇ 帝都 外交賓客館 ——同日 夕刻 ◇
夕刻の光が窓から斜めに差し込む時間帯、協議の休憩中にレンは廊下の角を曲がった。
人が少なかった。
廊下の窓の外に、中庭の噴水が見えている。光が水面に反射して揺れていた。
レンはその場に立ち止まり、ふと自分の足元を見た。
影が——薄い。
窓から差し込む夕光の角度のせいかと思い、位置を変えた。もう一度見た。
やはり、薄い。
(……おかしい)
第二章で初めて気づいたときは、一瞬だった。アリアの聖剣召喚の瞬間に影が消え、それをガルドスが目撃した。でも今は、聖剣は使っていない。改稿実行もしていない。
なのに影が薄くなっている。
(帝国に入ってから、設定を「読む」回数が増えた。帝国式のボックスを開くのに、王国より力を使っている。それが……積み重なっている?)
右手の甲を見た。
紋が、ある。形は同じ。でも——色が、以前より一段階、白んでいる気がした。
(気のせいかもしれない。でも気のせいではないかもしれない。直接確認する方法が……)
【痕跡閲覧 ——改稿の紋 現状確認】
属性:世界改稿(改稿者固有加護)
状態:……通常比……約……(読み取り困難)
推定値:通常比 八分の五 〜 八分の六(誤差あり)
注記:読み取りに支障あり。情報の欠損が進行している可能性。
(八分の五——第二章で地下零層の記録が「八分の一」だった。それよりはずっとある。でも…… )
第二章では「通常の八分の一」という消滅直前の状態が記録されていた。前の改稿者の最後の記録だ。
今の俺は「八分の五か六」。
(半分以上は残っている。でも第二章から、また減っている。帝国に来てから、確実に加速している)
レンは壁に手をついた。
深呼吸を一つ。
廊下に人が来る気配があり、レンは姿勢を戻した。
◇ 帝都 外交賓客館 ——深夜 ◇
夜が深くなってから、レンは一人で起きていた。
部屋に燭台を一本だけつけて、床に座っている。ラディウスから渡された冊子をもう一度読んでいた。
前の改稿者は、消滅が近づいてから改稿を止めた。一年か二年、遅らせることができた。でも最終的には削除された。
(……改稿を止めれば、少し時間が稼げる。でも結局は消える)
「改稿を続ければ、もっと早く消える。止めれば少し遅れる。——どちらにせよ、結末は変わらない」
声に出してみると、思っていた以上に冷静な言葉になった。
(俺は、いつの間にかこれを整理していたんだ)
前世で編集者だったときのことを、レンは思い出した。
締め切りを過ぎた原稿を抱えた作家が、よく言っていた。「もう少し時間があれば」「もう一章だけ書かせてほしい」。
自分は、そういう人たちに何と言っていたか。
(「今あるもので、できることをやりましょう」——そう言っていた)
いつも、そう言っていた。
レンは膝の上で手を組んだ。
窓の外は静かだった。帝都の夜は管理されていて、余計な音がしない。
「消える前に、やれることをやる」
声が、静かに部屋の中に沈んでいった。
誰にも聞かせるつもりはなかった。ただ、言葉にしないと整理できないような気がした。
(ガルドスには言えない。アリアには、もっと言えない。エルンには——いつか、言うべきタイミングが来るかもしれないけど)
今は、まだいい。
今はまだ、仕事が残っている。
ラディウスの文書庫への案内は、三日後だ。
そこに何が書かれているのか。前の改稿者について、帝国が何を知っているのか。
(それを知った上で、決める)
燭台の炎が、静かに揺れていた。
影が、壁の上で薄く伸びていた。
── 第十六話 了 ──




