『名も無き騎士の記録』
四月三日
今日も訓練は厳しかった。
剣を振るうたびに腕が軋む。
それでも続けられる理由がある。
公爵家のご令嬢、
エレノア様がいるからだ。
世間では悪徳令嬢だの、腹黒いだのと好き勝手に言う。
だが私は知っている。
彼女が夜遅くまで机に向かい、
難しい書物と格闘していることを。
数字が苦手で、何度もため息をつきながらも、
諦めなかったことを。
そして――
誰もいない広間で、
一人きりでダンスの練習をしていることを。
音もない夜に、
裾を揺らしながら何度も何度もステップを踏む。
あの姿を、悪徳などと呼べるものか。
私はただの騎士だ。
家柄もなく、功績もない。
それでも、剣を握る理由がある。
エレノア様の未来が、穏やかであるように。
それだけだ。
五月九日
今日は、公爵家主催の小さな茶会があった。
私は護衛として壁際に立っていただけだ。
だが、エレノア様は相変わらず評判が悪い。
「冷たい」「計算高い」「笑わない」
好き勝手に囁かれている。
確かに、彼女は表情をあまり変えない。
だがそれは――
感情を押し殺しているからだ。
視線を感じたのか、
一瞬だけこちらを見た。
ほんのわずか、唇が緩んだ。
誰にも気づかれないほどの、小さな微笑み。
それだけで、今日の訓練の疲れは消えた。
単純だと、自分でも思う。
だが私は、それでいい。
五月二十八日
夜の見回りの途中、広間に灯りがついていた。
まただ。
扉の隙間から、静かに覗く。
エレノア様が、一人で踊っていた。
音楽はない。
それでも、足運びは正確で美しい。
何度も何度も、同じ旋回を繰り返す。
躓いて、裾を踏み、
小さく舌打ちをする。
そして、深呼吸。
もう一度。
誰に見せるわけでもない努力。
私は、入ることも声をかけることもできない。
ただ見守るだけだ。
騎士とは、こういうものだろう。
守るが、触れない。
支えるが、並ばない。
それでも――
あの方が舞踏会で笑う日を、
私は密かに夢見ている。
その日まで、剣を磨こう。
六月十七日
平和は、あまりにも突然に崩れた。
隣国が侵攻した。
城門は破られ、
炎が夜空を焦がす。
旦那様は静かに命じた。
「エレノアを連れて行け」
私は頷いた。
考える暇などなかった。
ただ、剣を振るった。
血の匂い。怒号。
視界が赤く滲む。
何度も斬り、何度も受けた。
痛みは、もう分からない。
ただ道を開いた。
エレノア様の手を引く。
細い指。震えている。
「あなたはどうするの」
その声が、胸を裂く。
「私は騎士です」
それだけを、置いてきた。
森の入り口。
馬に乗せる。
月明かりが白い。
涙が、光っていた。
遠ざかる背中。
呼び止めたかった。
名を、呼びたかった。
けれど――
見届けた。
闇に溶けるまで。
……足の力が抜ける。
城が燃えている。
赤い。
熱い。
それでも、少し寒い。
六月十七日 夜
血が、止まらない。
寒い。
指先の感覚がない。
空が、きれいだ。
星が、近い。
エレノア様。
どうか――
生きて。
笑って。
踊って。
それで、
……
……
……
(ここで日記は途切れている)




