約束通り一番に会いに来た勇者は、王女の隣にいた
村の鐘は、普段は葬列か収穫祭の合図にしか鳴らない。
それが今日は、朝から胸の奥を叩くように鳴り続けていた。
勇者が帰ってくる。
誰もが同じ言葉を口にして、同じ方向へ走っていく。道の石畳の隙間に落ちた麦殻までが浮き立って見えるほど、村は久しぶりに息をしていた。
私はその流れに乗り遅れたふりをして、窯の火を落とし、粉の付いた手を布で拭いた。
「行かないの?」
母が戸口から顔を出した。白髪が増えた。それでも声の張りは変わらない。
私は頷いて、籠を抱えた。焼き上がった小さな丸パンを数個、祝祭用に焼いておけと頼まれていたのだ。自分の役目を作っておかないと、私は今日という日に飲み込まれてしまう。
外へ出ると、冬の終わりの空気が冷たかった。麦畑はまだ土色で、遠くの丘に霧がかかっている。
その丘の向こうに、王都へ続く道がある。
あの日も、同じように霧が出ていた。
――彼が旅立った日。
村の門は古い木でできていて、鉄の留め具がいつも少し軋んだ。私はその音が好きだった。門が開くたび、外の世界がほんの少しだけ流れ込んでくる気がしたから。
その日、門は大勢の前で開き、村の空気ごと引き剥がされるように彼は出ていった。
聖剣に選ばれた、と村の神父が告げた瞬間から、彼は「彼」ではなくなった。
“勇者様”。
“救世主”。
そんな言葉が彼の肩に次々と積まれていき、村の誰もがそれを支えるように振る舞った。
私だけが、いつも通りの呼び方を喉に残したまま、言えずにいた。
前夜、彼は私の家の裏手の井戸に来た。昼間なら子どもたちが遊ぶ場所、夜なら月明かりに石が青く光る場所。
私は桶を置き、井戸の縁に腰をかけた。
「明日、出る」
当たり前のことを、当たり前じゃないみたいに彼は言った。
私は頷くことしかできなかった。頷き方が下手だったから、彼は笑った。
「そんな顔すんなよ。俺は帰ってくる」
“帰ってくる”。
その言葉が、私の胸に小さな灯りをともした。けれど、私はその灯りに手を伸ばすのが怖かった。近づけば火傷をするのを知っていたから。
「……死なないで」
私が言えたのは、それだけだった。
彼は眉をひそめ、すぐにいつもの顔で口元を歪めた。
「死ぬわけないだろ」
そして、笑いが途切れたほんの一瞬、彼は真面目な目をした。私の顔をまっすぐに見た。
その目に、私が知っている彼がいた。
「帰ったら、一番にお前に会いに行く」
“一番”。
その言葉は、祝福よりも、誓いよりも、私の心を縛った。
私は何も言わなかった。言ってしまったら、何かが変わってしまう気がした。変わった結果、失うものが増えるのが怖かった。
翌朝、村人たちは彼の周りを囲んだ。祈りを捧げる者、涙を流す者、肩を叩く者。
私はその輪の外にいて、彼のマントの留め具だけを直した。
布の縁に縫い付けられた古い金具。子どもの頃、私が壊してしまって、こっそり縫い直したことがある。
指が覚えていた。手の中で金属が冷たく光り、留め具が“かちり”と鳴った。
「ほら、しっかり留めて」
「母親みてぇだな、お前」
「うるさい」
言い合いながら、私は胸の奥で“好き”を噛み砕いて飲み込んだ。
門が軋み、彼は振り返って手を挙げた。私は挙げ返せなかった。挙げたら泣いてしまいそうだったから。
――そこから、季節はいくつも過ぎた。
最初の一年は手紙が届いた。
王都は石が白く、噴水の水がいつも澄んでいるとか。仲間に変なやつがいるとか。魔物が予想より硬かったとか。
最後に必ず、乱れた字で「元気か」と書かれていた。
二年目には、手紙は減った。
三年目には、途切れた。
途切れた理由を私は誰にも聞かなかった。聞けなかった。
もし彼が死んでいたら?
もし彼が忙しすぎて書けなくなっていたら?
もし――別の場所に、書く相手ができていたら?
想像のどれもが胸に棘を残した。だから、私は窯の火を守り、パンを焼き、井戸の水を汲み、村の暮らしを続けた。
続けているうちに、私は“待つ”ことに慣れてしまった。
村は変わった。
子どもたちは背が伸び、門の外の世界を夢見るようになった。
畑の区画は売り買いされ、老人たちは土に戻った。
私の母の髪は白くなり、笑い皺が深くなった。
私も変わったはずなのに、私は変わりきれなかった。
夜、窯の火が落ちると、私は無意識に門の方向を見てしまう。
“一番に会いに行く”。
その約束だけが、胸の奥で燃え続けていた。
そして今日。
鐘が鳴る。
私は籠を抱え、村の中心の広場へ向かった。道の両側には旗が立ち、子どもたちは走り回り、男たちは樽を運び、女たちは花を撒いている。
笑い声は風に乗り、土の匂いの中に甘い酒の香りが混じっていた。
広場の端――人だかりから少し外れた場所に私は立った。
視界の先で、門の向こうがざわめく。金属の響き。蹄の音。甲冑が擦れる音。
「来たぞ!」
誰かが叫んだ。
人の波が一斉にうねり、私は押されないように一歩引いた。
門が開く。鉄が軋む。
まず、騎士たちが入ってきた。王都の旗を掲げ、整然と歩く。その後ろに、光のような白い馬車が続く。
そして――彼がいた。
あの頃より背が高く見えた。肩幅が広くなり、頬の線が少しだけ鋭くなっていた。
でも、歩き方は変わっていない。どこか不器用で、まっすぐで、地面を確かめるように踏みしめる。
私の喉に、ずっと言えなかった名前が上がってきた。
けれど、声にはならなかった。
彼の隣には、王女がいた。
金の髪は光をまとい、白い衣は雪のように揺れる。顔立ちは整っていて、笑みは穏やかで、怖いほど自然にその場に馴染んでいた。
その隣に彼がいるのが、当たり前のように見えた。
胸の灯りが、ふっと消えるのを感じた。
でも同時に、彼の視線が群衆を越えて私を捉えた。
一瞬、驚いたように目が見開かれ――次に、子どもの頃のような笑い方で口元が緩んだ。
「……おい」
彼は隊列から半歩外れ、周囲に何か言って、こちらへ歩いてきた。
騎士たちが止めようとするのを、王女が軽く手を上げて制した。
王女は、私を見て、小さく頷いた。敵意のない目だった。むしろ、知っているような目。
彼が近づく。人の壁が割れ、私はそこに立ったまま、籠を抱え直した。
彼の顔が、はっきり見える距離になった。
「……久しぶりだな」
声も、変わっていない。
私の喉は乾き、言葉が粉のように崩れそうだった。
「……おかえりなさい」
“おかえり”。
言えた。
それだけで胸が痛かった。
彼は笑った。けれど、その笑いは、私が知っている笑いと少し違っていた。
背負うものが増えた笑いだ。
「帰ってきた」
そう言って、彼は視線を私の籠に落とした。
「それ、パンか?」
「ええ。……祝祭用に」
「お前のパン、好きだった」
その言葉が、嬉しくて、苦しかった。
私は笑うふりをした。表情筋が固くなっているのが自分で分かった。
背後から、王女の側近が小さく咳払いをした。
彼は一瞬だけ振り返り、それから私に目を戻した。
「少し、話せるか?」
私は頷いた。頷くしかなかった。
彼は私を広場の裏手――石壁の影に連れて行った。子どもたちの声が少し遠のき、祝祭の音が布越しのように柔らかくなる場所。
そこに来て初めて、私は呼吸ができた。
「変わってねぇな、ここ」
彼は壁に背を預け、空を見上げた。
私は彼の視線の先を追い、青白い空を見た。鳥が一羽、ゆっくりと旋回している。
「村は……少し変わったよ」
「お前は?」
「……どうだろう」
彼は笑って、私を見た。
「相変わらずだな」
“相変わらず”。
それは褒め言葉のようで、私には檻みたいに聞こえた。
私は彼のマントの留め具が緩んでいるのに気づいた。
指が勝手に動いた。私は彼に近づき、留め具に手を伸ばした。
「動かないで」
「命令すんなよ」
昔みたいな言い合い。
でも、胸の奥は凍っていた。
留め具を外し、紐を締め直し、金具を噛み合わせる。
“かちり”。
その音は、旅立ちの日と同じだった。
「……お前、そういうの上手いよな」
彼が言った。
私は手を引っ込めながら、目を伏せた。
「昔から、あなたはすぐ緩めるから」
「戦いのせいだ」
「言い訳……ね」
彼が小さく笑い、私はそれに合わせて笑うふりをした。
沈黙が落ちた。
祝祭の音が遠くで波のように揺れている。
私は、今なら言える気がした。
今なら、言ってしまってもいい気がした。
でも、言葉にした瞬間、私はここで終わってしまう。
言葉は、戻れない線を引く。
彼が先に口を開いた。
「約束、覚えてるか?」
心臓が跳ねた。
「帰ったら、一番にお前に会いに行くって」
彼は、少し得意げに言った。
まるで、宿題をちゃんと出した子どものように。
「守っただろ」
私は頷いた。
守った。確かに守った。
彼は、私を見つけて、一番に会いに来た。――隊列から外れてまで。
でも、“一番”は、そこまでだった。
私は視線を上げ、彼の向こう側の広場を見た。
人々の中心で、王女が微笑んでいる。彼女の白い衣は、光を吸って輝いていた。
彼の居場所は、あそこだ。
彼の歩く道は、私の足元の土ではなく、あの白い石畳の上にある。
彼は、私の視線の先を追って、ほんの少しだけ口元を硬くした。
「……色々あった」
それ以上は言わなかった。
私も聞かなかった。
聞いたら、答えが返ってくる。答えが返ってきたら、私はそれを抱えて生きていかなければならない。
私はまだ、そんな強さを持っていない。
「……お前、パン、まだ焼いてるんだな」
彼は話題を変えた。
私は頷いた。
「ええ。……それしかできないから」
「それでいい。お前は――」
言いかけて、彼は止めた。
止めた理由は分かった。止めた先の言葉が、誰かを傷つけるからだ。
私はその沈黙に、優しさと残酷さの両方を見た。
遠くで、王女の側近がまた咳払いをした。今度は急かすような音だった。
彼が顔を上げる。
そして、迷いが一瞬だけ瞳に浮かんだ。
その迷いは、すぐに消えた。
「……行かなきゃ」
私は微笑んだ。唇の形だけで。
これが“村人の役目”だと、私は知っていた。誰かを見送る役目。誰かの背中を押す役目。
「ええ」
「……また」
彼は言いかけた。
また、が続く言葉を探して、見つからなかった。
“また会おう”と言えば、嘘になる。
“また来る”と言えば、約束を増やす。
嘘も約束も、今の彼には重すぎるのだろう。
私は一歩下がり、膝を折って礼をした。王女にする礼ではなく、昔の彼にする礼でもなく。
ただ、彼が“勇者”であることを受け入れる礼。
「……お幸せに」
言葉は風に溶けた。
祝福のようで、別れのような言葉。
彼の喉が動いた。何かを飲み込む音がした。
そして彼は、私の顔を最後に一度だけ、じっと見た。
その目には、私が知っている彼が、少しだけ残っていた。
「……ありがとう」
彼はそう言って、背を向けた。
歩き出す背中。
その背中を、私は追いかけなかった。追いかける脚は、昔から持っていなかった。
王女のもとへ戻る彼の足取りは、迷いなく整っていく。隊列が再び動き出し、広場の中心へ吸い込まれる。
人々の歓声が大きくなり、祝祭の音が戻ってくる。
鐘が鳴り、酒の匂いが濃くなる。
私は籠を抱えたまま、石壁の影に立ち尽くした。
指先には、留め具の冷たさが残っていた。
彼のマントは、きっともう緩まない。
緩んだとしても、直す手は私ではない。
私は深く息を吸い、吐いた。
胸の奥にあった灯りは、消えた。消えたはずなのに、痛みだけが残った。
痛みは、熱ではなく、静かな重さだった。
私は広場へ戻った。
村人の役目に戻った。パンを配り、笑顔を作り、母の手伝いをした。
その間も、彼は英雄として祝福され、王女の隣で微笑み、遠い世界の言葉を交わしていた。
夕方、祝祭が少し落ち着いた頃、私は一人で門の方へ歩いた。
門の鉄の留め具は、いつも通り軋んでいた。
外の世界は、相変わらず霧の向こうにある。
私は門に触れた。冷たい鉄。
あの日、彼が出ていった鉄。
今日、彼が帰ってきて、そして――帰っていった鉄。
私は目を閉じた。
言えなかった言葉を数えようとして、やめた。数えたら、泣いてしまう。泣いたら、今日が終わってしまう。
だから私は、ただ、心の中で名前を呼んだ。
声にしないまま。
昔の呼び方のまま。
そして、最後に一つだけ、認めた。
それでも、あの人は私の勇者だった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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