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約束通り一番に会いに来た勇者は、王女の隣にいた

作者: 大和
掲載日:2026/01/07

村の鐘は、普段は葬列か収穫祭の合図にしか鳴らない。

それが今日は、朝から胸の奥を叩くように鳴り続けていた。


勇者が帰ってくる。


誰もが同じ言葉を口にして、同じ方向へ走っていく。道の石畳の隙間に落ちた麦殻までが浮き立って見えるほど、村は久しぶりに息をしていた。

私はその流れに乗り遅れたふりをして、窯の火を落とし、粉の付いた手を布で拭いた。


「行かないの?」


母が戸口から顔を出した。白髪が増えた。それでも声の張りは変わらない。

私は頷いて、籠を抱えた。焼き上がった小さな丸パンを数個、祝祭用に焼いておけと頼まれていたのだ。自分の役目を作っておかないと、私は今日という日に飲み込まれてしまう。


外へ出ると、冬の終わりの空気が冷たかった。麦畑はまだ土色で、遠くの丘に霧がかかっている。

その丘の向こうに、王都へ続く道がある。

あの日も、同じように霧が出ていた。



――彼が旅立った日。



村の門は古い木でできていて、鉄の留め具がいつも少し軋んだ。私はその音が好きだった。門が開くたび、外の世界がほんの少しだけ流れ込んでくる気がしたから。


その日、門は大勢の前で開き、村の空気ごと引き剥がされるように彼は出ていった。

聖剣に選ばれた、と村の神父が告げた瞬間から、彼は「彼」ではなくなった。


“勇者様”。

“救世主”。


そんな言葉が彼の肩に次々と積まれていき、村の誰もがそれを支えるように振る舞った。

私だけが、いつも通りの呼び方を喉に残したまま、言えずにいた。


前夜、彼は私の家の裏手の井戸に来た。昼間なら子どもたちが遊ぶ場所、夜なら月明かりに石が青く光る場所。

私は桶を置き、井戸の縁に腰をかけた。


「明日、出る」


当たり前のことを、当たり前じゃないみたいに彼は言った。

私は頷くことしかできなかった。頷き方が下手だったから、彼は笑った。


「そんな顔すんなよ。俺は帰ってくる」


“帰ってくる”。

その言葉が、私の胸に小さな灯りをともした。けれど、私はその灯りに手を伸ばすのが怖かった。近づけば火傷をするのを知っていたから。


「……死なないで」


私が言えたのは、それだけだった。

彼は眉をひそめ、すぐにいつもの顔で口元を歪めた。


「死ぬわけないだろ」


そして、笑いが途切れたほんの一瞬、彼は真面目な目をした。私の顔をまっすぐに見た。

その目に、私が知っている彼がいた。


「帰ったら、一番にお前に会いに行く」


“一番”。

その言葉は、祝福よりも、誓いよりも、私の心を縛った。

私は何も言わなかった。言ってしまったら、何かが変わってしまう気がした。変わった結果、失うものが増えるのが怖かった。

翌朝、村人たちは彼の周りを囲んだ。祈りを捧げる者、涙を流す者、肩を叩く者。

私はその輪の外にいて、彼のマントの留め具だけを直した。


布の縁に縫い付けられた古い金具。子どもの頃、私が壊してしまって、こっそり縫い直したことがある。

指が覚えていた。手の中で金属が冷たく光り、留め具が“かちり”と鳴った。


「ほら、しっかり留めて」


「母親みてぇだな、お前」


「うるさい」


言い合いながら、私は胸の奥で“好き”を噛み砕いて飲み込んだ。

門が軋み、彼は振り返って手を挙げた。私は挙げ返せなかった。挙げたら泣いてしまいそうだったから。



――そこから、季節はいくつも過ぎた。



最初の一年は手紙が届いた。

王都は石が白く、噴水の水がいつも澄んでいるとか。仲間に変なやつがいるとか。魔物が予想より硬かったとか。

最後に必ず、乱れた字で「元気か」と書かれていた。


二年目には、手紙は減った。


三年目には、途切れた。


途切れた理由を私は誰にも聞かなかった。聞けなかった。


もし彼が死んでいたら?

もし彼が忙しすぎて書けなくなっていたら?

もし――別の場所に、書く相手ができていたら?


想像のどれもが胸に棘を残した。だから、私は窯の火を守り、パンを焼き、井戸の水を汲み、村の暮らしを続けた。

続けているうちに、私は“待つ”ことに慣れてしまった。


村は変わった。

子どもたちは背が伸び、門の外の世界を夢見るようになった。

畑の区画は売り買いされ、老人たちは土に戻った。

私の母の髪は白くなり、笑い皺が深くなった。

私も変わったはずなのに、私は変わりきれなかった。

夜、窯の火が落ちると、私は無意識に門の方向を見てしまう。


“一番に会いに行く”。

その約束だけが、胸の奥で燃え続けていた。


そして今日。

鐘が鳴る。

私は籠を抱え、村の中心の広場へ向かった。道の両側には旗が立ち、子どもたちは走り回り、男たちは樽を運び、女たちは花を撒いている。

笑い声は風に乗り、土の匂いの中に甘い酒の香りが混じっていた。


広場の端――人だかりから少し外れた場所に私は立った。

視界の先で、門の向こうがざわめく。金属の響き。蹄の音。甲冑が擦れる音。


「来たぞ!」


誰かが叫んだ。

人の波が一斉にうねり、私は押されないように一歩引いた。

門が開く。鉄が軋む。

まず、騎士たちが入ってきた。王都の旗を掲げ、整然と歩く。その後ろに、光のような白い馬車が続く。

そして――彼がいた。


あの頃より背が高く見えた。肩幅が広くなり、頬の線が少しだけ鋭くなっていた。

でも、歩き方は変わっていない。どこか不器用で、まっすぐで、地面を確かめるように踏みしめる。

私の喉に、ずっと言えなかった名前が上がってきた。

けれど、声にはならなかった。


彼の隣には、王女がいた。

金の髪は光をまとい、白い衣は雪のように揺れる。顔立ちは整っていて、笑みは穏やかで、怖いほど自然にその場に馴染んでいた。

その隣に彼がいるのが、当たり前のように見えた。


胸の灯りが、ふっと消えるのを感じた。

でも同時に、彼の視線が群衆を越えて私を捉えた。

一瞬、驚いたように目が見開かれ――次に、子どもの頃のような笑い方で口元が緩んだ。


「……おい」


彼は隊列から半歩外れ、周囲に何か言って、こちらへ歩いてきた。

騎士たちが止めようとするのを、王女が軽く手を上げて制した。

王女は、私を見て、小さく頷いた。敵意のない目だった。むしろ、知っているような目。


彼が近づく。人の壁が割れ、私はそこに立ったまま、籠を抱え直した。

彼の顔が、はっきり見える距離になった。


「……久しぶりだな」


声も、変わっていない。

私の喉は乾き、言葉が粉のように崩れそうだった。


「……おかえりなさい」


“おかえり”。

言えた。

それだけで胸が痛かった。

彼は笑った。けれど、その笑いは、私が知っている笑いと少し違っていた。

背負うものが増えた笑いだ。


「帰ってきた」

そう言って、彼は視線を私の籠に落とした。


「それ、パンか?」


「ええ。……祝祭用に」


「お前のパン、好きだった」


その言葉が、嬉しくて、苦しかった。

私は笑うふりをした。表情筋が固くなっているのが自分で分かった。


背後から、王女の側近が小さく咳払いをした。

彼は一瞬だけ振り返り、それから私に目を戻した。


「少し、話せるか?」


私は頷いた。頷くしかなかった。

彼は私を広場の裏手――石壁の影に連れて行った。子どもたちの声が少し遠のき、祝祭の音が布越しのように柔らかくなる場所。


そこに来て初めて、私は呼吸ができた。


「変わってねぇな、ここ」


彼は壁に背を預け、空を見上げた。

私は彼の視線の先を追い、青白い空を見た。鳥が一羽、ゆっくりと旋回している。


「村は……少し変わったよ」


「お前は?」


「……どうだろう」


彼は笑って、私を見た。


「相変わらずだな」


“相変わらず”。

それは褒め言葉のようで、私には檻みたいに聞こえた。

私は彼のマントの留め具が緩んでいるのに気づいた。

指が勝手に動いた。私は彼に近づき、留め具に手を伸ばした。


「動かないで」


「命令すんなよ」


昔みたいな言い合い。

でも、胸の奥は凍っていた。

留め具を外し、紐を締め直し、金具を噛み合わせる。

“かちり”。

その音は、旅立ちの日と同じだった。


「……お前、そういうの上手いよな」


彼が言った。

私は手を引っ込めながら、目を伏せた。


「昔から、あなたはすぐ緩めるから」


「戦いのせいだ」


「言い訳……ね」


彼が小さく笑い、私はそれに合わせて笑うふりをした。

沈黙が落ちた。

祝祭の音が遠くで波のように揺れている。


私は、今なら言える気がした。

今なら、言ってしまってもいい気がした。


でも、言葉にした瞬間、私はここで終わってしまう。

言葉は、戻れない線を引く。

彼が先に口を開いた。


「約束、覚えてるか?」


心臓が跳ねた。


「帰ったら、一番にお前に会いに行くって」


彼は、少し得意げに言った。

まるで、宿題をちゃんと出した子どものように。


「守っただろ」


私は頷いた。

守った。確かに守った。

彼は、私を見つけて、一番に会いに来た。――隊列から外れてまで。

でも、“一番”は、そこまでだった。


私は視線を上げ、彼の向こう側の広場を見た。

人々の中心で、王女が微笑んでいる。彼女の白い衣は、光を吸って輝いていた。

彼の居場所は、あそこだ。

彼の歩く道は、私の足元の土ではなく、あの白い石畳の上にある。

彼は、私の視線の先を追って、ほんの少しだけ口元を硬くした。


「……色々あった」


それ以上は言わなかった。

私も聞かなかった。

聞いたら、答えが返ってくる。答えが返ってきたら、私はそれを抱えて生きていかなければならない。

私はまだ、そんな強さを持っていない。


「……お前、パン、まだ焼いてるんだな」


彼は話題を変えた。

私は頷いた。


「ええ。……それしかできないから」


「それでいい。お前は――」


言いかけて、彼は止めた。

止めた理由は分かった。止めた先の言葉が、誰かを傷つけるからだ。

私はその沈黙に、優しさと残酷さの両方を見た。

遠くで、王女の側近がまた咳払いをした。今度は急かすような音だった。


彼が顔を上げる。

そして、迷いが一瞬だけ瞳に浮かんだ。

その迷いは、すぐに消えた。


「……行かなきゃ」


私は微笑んだ。唇の形だけで。

これが“村人の役目”だと、私は知っていた。誰かを見送る役目。誰かの背中を押す役目。


「ええ」


「……また」


彼は言いかけた。

また、が続く言葉を探して、見つからなかった。


“また会おう”と言えば、嘘になる。

“また来る”と言えば、約束を増やす。


嘘も約束も、今の彼には重すぎるのだろう。

私は一歩下がり、膝を折って礼をした。王女にする礼ではなく、昔の彼にする礼でもなく。

ただ、彼が“勇者”であることを受け入れる礼。


「……お幸せに」


言葉は風に溶けた。

祝福のようで、別れのような言葉。

彼の喉が動いた。何かを飲み込む音がした。

そして彼は、私の顔を最後に一度だけ、じっと見た。

その目には、私が知っている彼が、少しだけ残っていた。


「……ありがとう」


彼はそう言って、背を向けた。

歩き出す背中。

その背中を、私は追いかけなかった。追いかける脚は、昔から持っていなかった。

王女のもとへ戻る彼の足取りは、迷いなく整っていく。隊列が再び動き出し、広場の中心へ吸い込まれる。


人々の歓声が大きくなり、祝祭の音が戻ってくる。

鐘が鳴り、酒の匂いが濃くなる。

私は籠を抱えたまま、石壁の影に立ち尽くした。

指先には、留め具の冷たさが残っていた。


彼のマントは、きっともう緩まない。

緩んだとしても、直す手は私ではない。

私は深く息を吸い、吐いた。

胸の奥にあった灯りは、消えた。消えたはずなのに、痛みだけが残った。

痛みは、熱ではなく、静かな重さだった。


私は広場へ戻った。

村人の役目に戻った。パンを配り、笑顔を作り、母の手伝いをした。

その間も、彼は英雄として祝福され、王女の隣で微笑み、遠い世界の言葉を交わしていた。


夕方、祝祭が少し落ち着いた頃、私は一人で門の方へ歩いた。

門の鉄の留め具は、いつも通り軋んでいた。

外の世界は、相変わらず霧の向こうにある。

私は門に触れた。冷たい鉄。

あの日、彼が出ていった鉄。


今日、彼が帰ってきて、そして――帰っていった鉄。

私は目を閉じた。

言えなかった言葉を数えようとして、やめた。数えたら、泣いてしまう。泣いたら、今日が終わってしまう。

だから私は、ただ、心の中で名前を呼んだ。

声にしないまま。

昔の呼び方のまま。


そして、最後に一つだけ、認めた。


それでも、あの人は私の勇者だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

少しでも心に残るものがありましたら、ブクマや評価をいただけると、今後の励みになります。

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