なあんとなく
「安奈ちゃんにしか頼めないんだ」
なんてズルイ言い方なのだろう。一人暮らしのアパートの狭い玄関先で、私は白いプラスチック製の大きな籠を両手で受け取っていた。思わず落っことしてしまいそうになる程の重み。中には、毛むくじゃらの生命が入っている。
彼は、大学のサークルの先輩で、昨年卒業したばかりだ。卒業後も時折サークルの飲み会に参加しては、後輩と交流してくれる気さくな人。
今日の先輩はきっちりとスーツを着込んでいる。その背後には大きなスーツケースがあって、彼と恋人のように寄り添っているように見えた。
「また帰ってきてくれるんですか?」
彼は首を横に振る。
「もう、戻らないと思う」
この足で外国へ向かうそうだ。
先輩は、私の憧れだった。私と彼が入っていたのは、ゲームのサークル。と言っても、パソコンだとかテレビだとかでするゲームではない。アナログなボードゲームやカードゲームを専門としている。
彼はとても頭の切れる人で、ゲームの勝率は常に高かったし、複雑なゲームのルールの教え方もかなりうまかった。私は新歓の飲み会で彼に魅力を感じ、サークルへの入部を決めたと言っても過言ではない。
けれども、ある日、私の中でメラメラと燃えていたゲームとサークルへの情熱が、突如として消え失せる事件があった。事件と言えば大袈裟か。でも、私にとっては大きなこと。
先輩の彼女と名乗る女が現れたのだ。
「私、荒殿 剛と付き合ってるの」
先輩がいない日、彼女はサークルの部室にやってきた。部屋の中央にあった炬燵のところまでズカズカと侵入してくると、丁寧に揃えてあったトランプのカードの束を持ち上げて、その場でくるりと一回り。シフォンスカートはふわりと広がった。彼女の手からは、トランプカードが三百六十度全方向に向けてサラサラと散っていく。それらは白い花弁のようで、得意げに口角を上げた彼女を引き立てる一種の演出となっていた。
唖然として声も出なかったのは、私だけではない。炬燵を一緒に囲んでいた他のサークルメンバーも、少し離れたところでお茶菓子を棚から取り出していた人も、ゲームのルールブックを読みふけっていた人も、みんな。
「こんな今時流行らないようなことで、彼を縛らないで。私たちは忙しいんだから」
でも、このサークルを立ち上げたのは剛先輩だ。彼女はそんなことも知らなかったのだろう。それに、流行っていないということはない。こうして、楽しんでいる人もたくさんいる。それも世界中に。
女がコツコツとヒール音を響かせてその場を去っていった後、私は散らばったトランプを拾って掻き集めた。次第にふつふつと怒りが湧いてきて、悲しくなった。
あんな女に剛先輩をとられるなんて。けれど、本当に彼女は先輩と付き合っているのだろうかと、認めたくない気持ちでいっぱいになり、カードの端をうっかり折り曲げそうになった。
でも、その怒りはすぐに萎んで、私はサークルと距離を置くことになる。
なぜなら、彼女は綺麗な人だったから。
所謂『勝ち組』的なオーラを纏っていた。着ていた服も、私なんかには絶対に似合わないような赤系の派手なもので、女としてあらゆるところにお金をかけていそうな様子だった。あぁ、別の世界の人なんだ。そして、先輩も別の世界に行ってしまったんだな、と。私はそう理解した。
あれから二年余り。悲しみは恥ずかしさに変化して、さらに、惨めさへと進化していった。
私の中では既に『今更』な存在である剛先輩。彼が急に私の部屋を訪れたのには、理由がある。私がペット飼育可の物件に住んでいたからだ。
「動物、好きだって聞いたから」
確かに、好き。生まれ変わったら、動物園のペンギンになるのが夢なのだ。
「こいつ、元々捨て猫だったから、大事にしてやりたいんだ。もし飼えないなら、他の人に託してくれてもいいよ」
大事にしたいならば、なぜ手放そうとするのだろう。
「ミューズのこと、よろしく頼む」
先輩はそう言うと、急にスマホでどこかへ電話をかけた。
「やっと見つかった」
先輩の声は、掠れていた。
すぐに、先輩の友人らしき男性が二人やってきて、次々と猫グッズを私の部屋の中に運び始める。元々生活感のありすぎるごみごみした部屋は、さらなるカオスへとレベルアップした。使いこまれた感のあるキャットタワーにお手洗いのセット。猫用のおもちゃやキャットフードの袋。他にも様々な雑貨が床をどんどん占拠していき、もはやそこは私の部屋ではなくなってしまった。
「さよなら」
先輩は短く呟くと、白い籠の隙間からこちらを覗いている黒飴みたいな瞳に顔を近づけた。しばらくは、動かなかった。
「なあーーーん」
白い籠はカタカタと揺れる。先輩は、俯いたまま、私の部屋を去っていった。どんな顔をしていたのかは分からない。
じんわりと涙が溢れてくる。きっと私の目は充血して、真っ赤になっているにちがいない。
「なあーーーん」
猫がこんなに切ない声で鳴くなんて、私は全く知らなかった。
白い籠の蓋をそっと開く。彼、ミューズの瞳には、玄関の橙色の灯りがぼんやりと映り込んでいた。まるまって、こちらを見上げている。
「ミューズ」
「なあーん」
先輩は、ミューズの引き取り手が見つかってほっとしただろうか。先輩なら、たくさんの友人、知人がいるだろう。なのに、その中から選ばれたのは、私。
ふと胸が熱くなったのに気づいて、自分が許せなくなった。先輩のこと、もう何とも思っていないはずなのに。
私は目を擦った。ヒリヒリした痛みが眼球に広がり、取り出して丸洗いしたい気持ちに駆られる。擦れば擦るほど、その違和感と痒みは強くなっていく。私を蝕んでいくのだ。
私は今、大学三年生。親からの仕送りもそこそこある上、週に二度ほど塾の講師のアルバイトも入れているので、毎月貯金もできている。つまり、猫一匹を養っていけるぐらいの余裕はあるのだ。もちろん住んでいる物件も、規約に反することもなく動物を飼育できるから、築年数が古くエレベーターが無いことを除けば、環境は整っていると言えるだろう。
だからと言って、私は一言も「飼う」とは言っていない。
だって私は、猫アレルギーなのだから。
「なあーん」
「分かってるよ。あんたは何も悪くない」
ついに、鼻までムズムズし始めた。くしゅんっと大きな音を立ててくしゃみをすると、ミューズは驚いたのか籠の中から飛び出して、半開きになっていた押し入れに向かって一目散に駆け出した。
* * *
剛先輩が猫を飼っていることは、前々から知っていた。
ある日、彼の実習先の福祉施設の子ども達が、近所で捨て猫を拾ってきたそうで。まだ生まれて間もない、片方の手のひらに乗ってしまうぐらいの小さな子猫。ところが、引き取り手が見つからない。先輩は、施設の職員さんに半ば押し付けられる形で猫を引き取った。
私は以前、飲み会の席で、その頃のミューズの姿を写真で見せてもらったことがある。くりくりした瞳は私に何かを訴えかけていた。マスカラやアイライナーがなくても、とてつもなく目力があるのだ。
ミューズが入っていた白い籠を確認すると、クリアファイルも入っていた。中に挟まれていたレポート用紙には、一面に走り書きがなされている。
まず、ミューズという名前は、音楽の女神の名前だそうだ。フェスなどのコンサートにも参加していた彼らしい名づけだと思う。けれど、できればボードゲームにちなんだ名前であってほしかった。私はまた少し裏切られた気持ちになった。
次に、去勢済みだということ。つい最近、毎年打っている注射を済ませたばかりだということ。ペット用の保険も更新しているそうで、後一年は保証されているということ。
ミューズはキャットフードが主なご飯で、高級な缶詰めやオヤツは好まないこと。家の外に出たことはほとんど無いので、これからも家猫として飼ってほしいということ。
こんな感じでつらつらとメモは続くのだが、最後はこう締めくくられていた。
『ミューズを家族として愛してやってほしい』
勝手な人だ。
回していた洗濯機が止まったのか、ピーと高い音が鳴った。私は目と鼻を洗うために、洗面所へ向かった。
* * *
「いい子だねー! いい子だねー! とーっても男前だねー!」
私はサークルで知り合った友達、梨花を家に呼んだ。彼女の実家は猫を飼っているので、梨花も猫の扱いには慣れている。あわよくば、ミューズを押し付けようかと思ったのだが、あいにく彼女はペット飼育不可の物件に住んでいた。
「梨花こそ、女前だね」
「それはないですよ、安奈さん! 梨花は、今日もいつも通りなのですよ!」
私の記憶が正しければ、梨花はボサボサの黒髪を飾り気のないヘアゴムで一纏めにし、太い黒縁の眼鏡がトレードマークの冴えない女だったはずだ。毎日黒っぽい服やジャージばかり着ていて、身体も若干ふっくらしている。化粧なんてもってのほかで、鼻の頭がテカテカになっていても気にすることは無い。
なのに、どうしたというのだ。今日の彼女は別人だ。心なしか痩せて、綺麗になっているように見える。爽やかな水色のワンピースの上に白いコートを羽織り、髪なんてクルクルと巻かれていた。良家のお嬢さんかと思うぐらい。もちろん眼鏡ではなく、コンタクトを装備している。
「さすがにそんなの信じないよ。で、何があったの? 梨花にもついに彼氏ができたとか?!」
元気がない時は、とりあえず空元気で盛り上げてみるに限る。梨花は、へへっと無邪気に笑いながら、ミューズの身体をくすぐった。
「これ、お兄ちゃんの趣味。実家に帰ったら変身させられちゃったのです」
こんなの、私の知っている梨花じゃない。梨花と言えば、一人暮らしも長くなってきたのに、ろくに料理もしないでコンビニ弁当で食いつなぎ、漫画と小説と酒の空き瓶やゴミの山に埋れてニヤニヤしている女だったはずだ。
ふっと鼻をくすぐる香水の甘い香り。こんな洒落たことするなんて似合わない。もしかすると彼女まで……
「梨花も私を捨てるんだ」
私は、ようやく片付きつつある部屋の片隅で、ハンディ掃除機をかけていた。掃除機の騒音で聞こえなかったのか、梨花はニコニコしたままだ。
「いいよ、別に。捨てられたのは私だけじゃない」
三年前、私が先輩に捨てられた気分になったことは確かだし、今も梨花との間に溝ができた気がして寂しかった。でもこの時点では、本気で『捨てられる側』になったとは、まだ思っていない。
「もしかして、ミューズのこと、捨て猫だって憐れんでいるのです?」
なんだ、聞こえていたのか。床に落ちている猫の毛が随分少なくなったので、私は掃除機のスイッチをオフにした。
「だって、生まれた時から捨て猫だもん。で、また捨てられたんだよ? どう考えても、この子は可哀想だよ」
「そうかなあ? 私はこう思います。ミューズは、より良い生活を求めて渡り歩いているのです。だから、捨てたのはミューズなんです。こんな飼い主、こんな生活、もう嫌だ!って。ミューズは自分の運命を切り開きながら生きているだけなのです。だから、可哀想じゃないのです」
それは楽天的すぎる考え方だと思った。これまで動物を飼ったことがない私でも、年間十数万頭の犬猫が殺処分されていることを知っている。彼らは、運命を切り開いて死を迎えているわけではない。
「安奈さんが考えていることは分かります。でも、この子に限って言えば、『生きる力』を持っています。ちゃんと生きる道を自ら切り開いて、今、ここにいるんです。だから、ちゃんと天寿を全うできるように、この『力』を最大限引き出してあげることが、安奈さんに与えられたお役目なのです」
「猫アレルギーなのに?」
私は今、鼻の上まですっぽりとマスクでカバーした上に、水泳用のゴーグルまでかけている。完全に変質者だ。
「安奈さんのアレルギーは軽度なので、症状が酷くならないうちに里親様を探しましょう。梨花は協力するのです!」
こうして、私はミューズの里親探しをスタートさせた。
その後、梨花は私に一通りの猫飼育について語った後、また近々来ると言って帰っていった。彼女も忙しいのだ。二次元を中心として、友達や彼氏がたくさんいるし、もしかしたら彼女もいるかもしれない。
梨花が帰ると、ミューズは押し入れの上段に入り込み、こちらの様子を窺っていた。
「とにかく! あんたは今日からうちの子だよ。せっかくだから、仲良くしよう」
「なあー」
ミューズは押し入れの奥に入り込み、姿が見えなくなった。どうやら、彼もやる気がないようだ。
その時、スマホからメッセージ受信のアラートが鳴った。
* * *
私は、泣き虫な方ではない。泣いたら負けだからだ。泣くと癒されると聞いたことはあるけれど、そんなの見せつけられる方は反応に困ってしまう。泣き顔で男を見上げるあざとい女は、特に大嫌いだ。だから、私は泣かない。
……というのが持論のはずだった。
「ミューズ」
キリッとした顔つきの居候は、一瞬こちらを振り返ったが、すぐにソファの上へジャンプした。
「私、ふられちゃった」
涙が出るのは、猫アレルギーのせいに違いない。全てはこの猫に狂わされているのだ。
「ミューズ」
ミューズは、ソファの上で自分の毛をつくろっていた。自分のことを『誇り高き孤高の獣』とでも思っているのだろうか。私のことなんて見向きもしない。
「ねぇ、こっち向いてよ」
今度は、ソファからひらりと降りて、テーブルの上へダイブした。
「ねぇ、ってば!」
ミューズは、テーブルの上に置きっぱなしにしてあった醤油の小瓶に猫パンチを繰り出した。
「何やってんのよ?!」
当然小瓶はひっくり返り、醤油はテーブルを伝って薄茶の絨毯に滴り落ちる。またたく間にじんわりと黒い染みが広がっていった。ミューズは私の大声に驚いて、身体をピクンとさせたが、あっという間に出窓のカーテンの影へ逃げていった。
「こんな汚れ、絶対に落ちないし」
元々薄汚れた絨毯だ。いつもの私なら、古くなったし買い換えればいいかと考える。もしくは、すっぱり諦めて使い続けることを決定し、こんなにも取り乱したりはしないだろう。でも今日の私に余裕はない。持っていたスマホを床に向かって投げつけた。スマホは床に当たらずに、近くにあった化粧ポーチへ直撃。不穏な音がした気がしてポーチを開いてみると、中にあったアイシャドウにヒビが入っていた。絨毯の汚れ以上に、心には黒い染みが広がっていった。
私が付き合っていたのは、隆二という名の男で、実家住まいの車好きだった。ドライブが好きだとかで、かなり遠くまで連れていってもらったこともある。夜景が美しい展望台とか、哀愁漂う白い砂浜だとか。
悪かったのは、私だ。そろそろ何か言ってくる頃だろうと予想はしていた。
私を近所のショッピングモールにあるフードコートへ呼び出した隆二は、これまで見た中で最も地味な格好をしていた。ちょっと目を離すと人混みに紛れて消えてしまいそうな感じ。後から考えると、別れを告げる相手のためにオシャレをしようなんて気が起こらなかったからかもしれない。
そんな彼は、プライドが高い人物でもある。どうやら、私に捨てられたとは思いたくなかったらしい。
「もっと面白い子と付き合うことにした」
もっと綺麗な子とか、もっと可愛い子とか、もっと気立てが良い子というのならば分かる。面白い子か。今はそういう時代なのだろうか。まさか面白さを求められているとは露とも知らなかったので、一瞬返す言葉に困った。
「新しい彼女なんて、いないでしょ」
そう言ってやりたかったけれど、もうどうでも良くなって何も答えなかった。彼は同じ学科の同級生なので、交友関係なんてお互い筒抜け。だから、彼にまだ彼女がいないのはほぼ確実だ。どちらかと言えば、新しい人ができたのは私の方である。
新しい人と言っても、彼氏というわけではない。バイト先が一緒で、同い年だけど他大学の人だ。互いの家が歩いて1分程度しか離れていないから、バイト帰りに一緒になることが多くて、仲良くなった。
彼、瑛は、ある夜うちにやってきた。洗濯機が壊れたと言う。うちの近所にはコインランドリーなんて無い。気付いたら、彼の服と私の服はべったりと抱きついて絡み合い、うちの洗濯機の中でぐるぐると回っていた。
それから、瑛は定期的にうちにやってきては洗濯をするようになった。なぜか、うちのベランダに干して乾かして帰ることもあった。二人で並んで、ハンガーに服をかける。互いの下着が同じ一つの細い竿に引っかかっていたりもする。ここに住んでいるのは私だけなのに、男物の洗濯物がぶら下がっているなんて恥ずかしい。外側の竿にバスタオルを何枚か干して、カモフラージュするのだ。
服が乾くまでの間は、私は瑛とゲームする。うちには、トランプとオセロとカタンしかない。彼はカタンが好きなのだが、やはり二人でするのはつまらない。今のところ、私の連勝が続いている。
他にすることと言えば、時々思い立ったようにキスをする。目の前にお互いが存在することを確認するためだけに、する。これはコミュニケーションのひとつで、それ以上でもそれ以下でもない。淡々と相手の唇を啄んで、時々5センチ以内の距離で目を合わせる。お互い、何も言わない。いつの間にか始まって、いつの間にか終わるのだ。
ハグすることもある。乾いた洗濯物を布袋に入れて、うちから帰っていく時に。玄関先で少し背伸びして、彼の肩に腕をまわす。「気をつけて」と言うと、「ありがと」と瑛は言う。
こんな生活がもう三ヶ月だ。瑛が新しい洗濯機を買う気配は、全くない。
ミューズは窓から外を見ていた。この辺りは二階建ての民家ばかりで、四階のここからは少し遠くまで見渡すことができる。
「ミューズ、諦めな。もう戻ってこないんだ」
鼻はムズムズするけれど、涙はすっかり乾いていた。
マスクをつけて、さらにゴーグルもつけるかどうか迷っていた時。玄関のチャイムが部屋に響いた。
* * *
「なあーーーん」
いつものように、瑛は突然やってきた。既に洗濯物は洗濯機の中だ。
「いつから?」
瑛はこちらを見もせずに尋ねてきた。
「昨日の朝から」
「アレルギー……だよね?」
「瑛、代わりに飼ってくれない?」
「僕には無理だよ」
初めからアテにはしていない。ミューズは、私以外の皆によく懐いている。今はあぐらをかいた瑛の足の上でまるまって微睡んでいる。
私はインターネットで里親探しのサイトに登録しまくっていた。ミューズの写真を撮影し、その他もろもろの情報を機械的に登録していく。私が見ていたサイトに掲載されているのは、器量の良い子猫ばかりで、ミューズのような中途半端な成猫は少なかった。勝ち目はないと思った。
早速、SNSや無料通信アプリを使い、最近疎遠になっていた友人にまで里親募集の連絡を入れてみる。面倒くさいけれど、やるしかない。私の健康が、平穏な生活がかかっているのだ。
スマホの画面に集中していると、隣に寝そべっていた瑛が、私の腰に腕をまわした。
「なあに?」
瑛は返事する代わりに、私の脇腹に額を擦り付ける。猫と変わらない。
「ほかに、僕が知らないことってある?」
「猫を飼い始めたことが嫌なの? 洗濯物に多少猫の毛がつくのは、もう仕方がないよ。嫌なら他をあたって」
「いいよ、そんなこと。もっと大事なこと」
「んー……そう言えば今日、彼氏と別れた」
「やっとか」
瑛は、ミューズを持ち上げると高い高いして、キャットタワーの上に乗せた。暴れていたミューズは澄ました顔になり、置物のように動かなくなった。気まぐれな奴だ。
「里親募集のちらし、作ってあげようか?」
* * *
翌日、瑛は完成したちらしを持ってきた。あれから半日しか経っていないのに、それはそれは立派なものだった。私は、パソコンが苦手だから、こんなの時間がいくらあっても作れそうにない。いつの間に撮影したのか、ミューズの可愛いショットがたくさん載っていて、とても魅力的な猫に見える。その上、里親を探しているという内容の切々と訴えかける文章まで添えられていた。
「ありがとう」
ミューズがうちにやってきて、二晩が過ぎた。特別な訓練もしていないのに、お手洗は決まった場所でするし、部屋に暖房を入れておけば数時間は大人しくお留守番もしてくれる。餌も普通に食べているし、鳴きっぱなしということもないので、それ程近所迷惑にもなっていないはずだ。まさしく優等生……じゃなくて、優等猫。
一方で、私の不安は少しずつ大きくなっていた。
ミューズは、あまり懐かないけれど、可愛い。たったの二晩でこんな気持ちにさせられてしまうなんて。でもこの可愛さには抗えない。
しなる柔らかい身体。抱くと、とても暖かい。あらゆることが気ままだけれど、キャットタワーのてっぺんに居るときだけは凛としていてカッコ良い。私が抱っこしようとしても、逃げられることも少なくなった。
けれど、ずっと一緒にいてあげることはできない。常時マスク&ゴーグルの生活は不便だし、つらい。それに就職して遠くの街に引っ越すことになった場合、またペット飼育可の物件がうまく見つかるとは限らないからだ。
「なあーーん」
ミューズの声まで不安げなものに感じる。
もし里親が見つからなかったら。
もし、
もし、
もし、
…………
「こんなので、本当に里親なんて見つかるのかな」
こう言ったのには、悪気なんて無かったのだ。
ちらしは素敵だし、猫アレルギーの私でも、うっかり猫を飼いたくなってしまいそうな程の良い出来。壁に貼れるように大きく印刷したポスタータイプと、知り合いなどに配りやすい小さめのちらしタイプの二種類が用意されていて、大変気遣いが行き届いている。ここまでしてくれるとは正直思っていなかったので、感激しているのだ。それなのに……
「やるしかないじゃん?! じゃあ、こんなの要らなかったの? 要らないなら、要らないって、初めから言ってよ! もう、手遅れなのに……」
瑛は、ちらしが入った紙袋をひっ掴むと、その足で部屋を出ていった。ドアが閉まる大きな音が、身体に重く響く。
ミューズは音もなく近づいてくると、立ち尽くしている私の足にじゃれついた。彼から近づいてきたのは、これが初めてのことだった。
* * *
翌日、梨花がうちにやってきた。ミューズとじゃれあっている。なぜか梨花は猫耳ヘアバンドをつけていて、妙に似合っているのが気に食わない。
「そんな日もありますよ」
あってたまるものか。彼氏にふられ、友達と喧嘩し、猫には常時泣かされている。こんなの普通じゃない。
「安奈さん。安奈さんも変身してみませんか?」
梨花は、鞄から紙の束を取り出した。そこには、可愛い猫のイラストと『里親募集』の大きな文字。猫は、ミューズと同じ黒字に白と茶色が混じった毛並みで、似ていると言えば似ている。そう言えば彼女、こういう絵を描くのが得意だったのだ。
「それ、どうするの?」
「安奈さんのために作ったのですよ! これから美容院に行ってもらいます。その後はドキドキワクワクな女の子のショッピングなのです! そして、行く先々でこの超絶可愛いちらしを配って回るのです!! 安奈さんは生まれかわるし、里親様は見つかるかもしれないし、一石二鳥ですよ!」
「……。ねぇ、服貸してあげるから、着替えてから出掛けよう」
「わ……私が安奈さんの服を……?!」
なぜか興奮している梨花。今日はいつも通りの冴えない女だ。見ていて落ち着く。でもそれは部屋の中だけのことで、さすがにこの格好のまま外へ出て買い物するのは不味い。くたびれたジャージのズボンに、色褪せた灰色のパーカー。極めつけは、猫耳ヘアバンド。隣を歩くには恥ずかしすぎる。
私たちは少しまともな服に着替えて、ミューズに餌を用意した後、まず美容院へ向かった。長く伸ばしていた髪は、ボブぐらいまで切った。切ってくれたお姉さんは、冗談めかして「失恋?」なんて聞いてくれたが、こういう時どうすれば良いのだろう。すかさず「ちがいます」って答えたのに、隣で同じく髪を短くしていた梨花にクスクス笑われて、台無しになってしまった。
イメチェンが完了し、お会計する時。梨花は手作りの里親募集ちらしを美容師さんに手渡していた。すぐに、店の目立つところに掲示してくれたので、先程の失言については不問にしようと心の中で呟いた。
その後夕方までブラブラして、服を何着か買った。梨花に勧められて、いつも買わないようなヒラヒラの服まで買ってしまった。でも問題なのは、新しい服が早速箪笥の肥やしになることではなく、無意識に講義をすっぽかしてしまったことだった。
* * *
深呼吸って、背筋が伸びる。
あれから二日。私は、自分のアパートから徒歩一分のところにいた。表札には『西川』と書かれている。瑛が住んでいる部屋だ。
彼が洗った洗濯物を持ち帰り忘れて、何度かここまで届けたことがある。でも、中に入ったことはまだない。建物の外見からして、うちとそう変わらない狭さのせいぜい一LDKだろう。
じっとしていても何も始まらない。寒さで足が悴んできたので、私は心を決めてインターホンを押した。
中からは、すぐにガタガタという物音が。在宅だと分かると、さらに緊張感が高まってくる。
「どうしたの?」
ようやくドアが開くと、少しやつれた様子の瑛がいた。
「そろそろ洗濯物がたまってきたんじゃないかと思って」
瑛は、私の姿をしげしげと観察した。
「似合ってるよ」
私は、洗濯屋さんではない。洗濯物のことはあくまで口実だ。私は今日、彼と話さなければならないことがある。だから、この前買ったヒラヒラの服を着て、気合いを入れてきたのだ。
瑛は、身振りで私を部屋の中へ促すと、ドアを閉めて鍵をかけた。ふっと、よその家の匂いが鼻をよぎる。そして、少なくともうちの家よりも片付いていた。くやしい。
瑛は、風呂場近くにあった籠からビニール袋へ洗濯物を詰め始めた。予想していたよりも、たまっている量は少ないようだ。風呂場横には、壊れているという洗濯機が鎮座していて、その上部にある棚には洗濯用の洗剤と柔軟剤が並んでいる。彼が部屋の隅で着替えている間、私はそこへ近づいていった。
洗濯機は、うちと同じメーカーのものだった。横を見ると製造年月のシールも貼られてある。古いものかと思いきや、まだ3年前のものだ。そしていつもの癖で、洗濯機の電源ボタンを押す。
「……ついた」
洗濯機は、ピと音を立てると、小さな黒いモニターに緑のランプを灯した。
洗濯機は、壊れていなかったのだ。
背後に、人気を感じた。振り向くと、瑛がこちらを無表情で見つめていた。
洗濯機が壊れていないと分かった今、洗濯物を持ち帰ることも、瑛を部屋に招くことも必要ない。予定外だが、私は早速本題を切り出すことにした。
「ねぇ、瑛。こういうの、もうやめよう」
私たちは仲の良い友達だった。だから、『別れる』という言葉は似合わないし、言いたくない。
瑛が私の部屋を飛び出して以来、買い物していても、ミューズの世話をしていても、ミューズの写真を撮っていても、ミューズをだっこしていても、ミューズと一緒にベッドで寝ていても、ずっと瑛のことを考え続けていた。
私は、もう我慢できなかった。
大切にしていたはずのものが次から次へと手から零れていく。いっそのこと、もう全てグシャグシャに潰してしまって、真っ平な土地にして、そこから新しく何かを建設してみたくなったのだ。
そのためには、彼との関係も見直さなければならない。
私は、新しい洗濯機を買うように、進言しにきたのだ。
「だって、私たち、ただの友達だもん」
私たちは別れるのではない。程よい距離感というものを学び、その距離を大切に守るだけだ。決していなくなるわけでもないし、二度と喋らないわけでもない。ほんの少し、ケジメをつけるだけのこと。そう念じておかないと、とてもこんなこと、言葉にならない。
だって、本当は……。
瑛は、すっと息を吸い込んだ。
「僕は……」
私と瑛は目が合った。ミューズは部屋にお留守番させていて、近くにいないはずなのに、目がどんどん潤んで視界が霞み始める。
「僕は、安奈と付き合ってるつもりだったよ」
瑛は素早く私を引き寄せると、洗面所からベッドへと拉致した。
彼は、泣いていた。
その後は、涙と涎とその他でベチャベチャになった。
* * *
それ以降、瑛は自分の家で洗濯は済ませるようになったけれど、私の部屋には足繁く通い続けていた。
「だめ! やめて!」
「なんで?」
瑛のキスは上手くなった。私はそれだけで酔えるようになった。でも、ミューズにじっと見られているところでいちゃつくのは、性に合わない。
「猫なのに、気になる?」
「ミューズは、家族だもん。やっぱり恥ずかしいよ」
ミューズの里親探しは難航している。インターネット上の掲示板や里親探しのサイトで、何度か里親候補が現れたことはあった。しかし、ミューズの鳴き声が気に入らないだとか、やっぱり子猫が良いだとかの理由で、未だに引き取り手は見つからないのだ。
私は、多少身体が慣れてきたのか、アレルギー症状がやや緩和していた。瑛は、いつも目が潤んでいて可愛いと言う。だが、こちらはそんな悠長なことを言っていられる程の余裕は無い。
このまま見つからなければ、飼っていられるのにと感じる日もあれば、アレルギー症状が酷く、思わずミューズに強くあたってしまいそうになる日もあるし、なぜミューズはこんなに可愛いのに誰も欲しがらないんだと怒りが込み上げてくる日もある。
* * *
私は瑛と昼ごはんを食べた後、大学の講義に出て、アルバイトに向かった。私は塾で小学生に算数を教えている。
授業の後で、事務のおばさんに里親募集のちらしを見せてみた。
「どこかに貼らせていただけませんか?」
コピー機の使い方から日誌の書き方まで、いつも細かいことまで煩く言ってくるおばさん。駄目だと言われるかとばかり思っていたが、意外にも快諾してくれて、塾の校長にもすぐに話を通してくれた。
「見つかるといいわねぇ。でも、見つからなかった時はどうするの? まぁその時は保健所連れてくしかないんだろうけどねぇ」
おなかがチクリと痛んだ。
今、私、その手があるだなんて思わなかっただろうか? 私はそんな人でなしの人間にはなりたくない。保健所に連れていくなんて言葉面は綺麗だが、実際は『殺処分』ということだ。殺人犯ならぬ、殺猫犯になってしまう。
ミューズは、すっかりうちの猫になっていた。家に帰ると、「なあーーん」と鳴いて出迎えてくれる。私の膝の上で昼寝することもでてきた。もっている服はもちろん、家中が毛だらけだし、物もたくさん壊されたり傷つけられたりしている。それでも、ミューズは私の大切な猫だ。
「なんとか……します。あの、シフト増やしたいんですけど」
もし、里親が見つからなかった場合。かなり大きなお金がかかるけれど、ミューズが天寿を全うするまで面倒を見てくれる施設があることを最近知った。手持ちの貯金では足りないので、もっと働いてお金を貯めておきたいのだ。
「そうねぇ。他の先生との兼ね合いもあるし、ちょっと校長と相談して調整を考えてみるわ」
「よろしくお願いします」
私はおばさんに頭を下げた。
* * *
それは、瑛と私とミューズとで、近くの大きな川の河川敷を散歩していた時だった。
ミューズは猫なので、犬のように首輪などをつけたりはしない。私たちが抱える白い籠の中から、外の景色をキョロキョロと見回している。
「安奈、電話鳴ってる」
私がスマホの画面を見ると、知らない番号からの着信だった。
「はい」
私は、どんな顔をしたら良いのか分からなかった。
いつだって、別れというものは突然訪れるものなのだ。
* * *
ミューズは、先日行った美容院の常連さんに引き取られることになった。
新しい飼い主さんは私よりも少し年上のOLさんで、実家暮らし。ペット飼育可のマンションに住んでいるそうだ。一年ほど前に、長い間飼っていた猫が亡くなってしまい、また猫を飼いたいと思っていたところ、ちらしに目を留めてくださったとのこと。
既に猫に慣れている人だし、私みたいな一人暮らしじゃなくて家族もいるご家庭。きっとミューズも寂しくなったりはしないだろう。猫関連のグッズも既に揃っているとのことで、早速お試しでミューズを連れていくことになった。
私は、ミューズと二人になりたいと思った。
瑛を部屋から追い出して、ミューズと対面する。ミューズは、人の言葉なんて分からないだろうけれど、それでも私は言って聞かせてみる。
「ミューズ、あのね。ミューズに新しい飼い主さんが見つかったんだよ」
「なあーーん」
お試しとは言え、ミューズが無事に先方様へ気に入られてしまえば、そのまま私とはサヨナラだ。
私はミューズを猫用のコームでブラッシングして、爪も丁寧に切ってやった。ミューズは男の子なので、お婿入り準備と言ったところか。いつも嫌がって「なあーなあーー」と鳴く癖に、今日のミューズはどこか殊勝な顔つきで大人しくしていた。
ミューズがお気に入りのおもちゃを紙袋に詰め込み、時計を見る。先方様との待ち合わせは、美容院前ですることになっているが、もう少し時間がある。
私は、瑛に言われて書類を作成していたので、それも紙袋の中に入れた。
おそらく、先方様はとても良い人だ。でも世の中には、稀に酷い人がいる。ミューズを託した途端、ミューズに何かがあっては取り返しがつかない。それに、こういった個人的なやり取りには何かとトラブルもつき物だ。私は、インターネットで調べ物をしながら、誓約書のようなものを用意した。大雑把に言えば、ミューズを一生大切にしてください!という内容である。
ふと部屋を見渡すと、ミューズの姿が見えない。私が押し入れをそっと開けると、上段の積み上げた布団の上に、ミューズはうずくまって小さくなっていた。
「ミューズ」
「なあーーーん」
「今まで、ありがとうね」
「なあん」
「ちゃんと、大事にしてもらうんだよ」
私は、マスクをはずした。最近、ゴーグルはしていない。
「ミューズ、ごめんね」
私はミューズを抱き上げると胸元でぎゅっと抱いた。
「私は、ミューズが大好きだからね」
「なあーーん」
「幸せに、なるんだよ」
「なあーーーん。なあーーーーん」
ミューズの声は、切なく響いた。
私のこと、忘れないで、なんて言えない。私は良い飼い主ではなかったから。でも、私は一生忘れない。この生命の重さを。輝きを。温もりを。決して決して忘れない。
私は、白い籠にミューズを入れた。ミューズは一層悲しそうにないたし、私も涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったけれど、そろそろ時間だったので、籠の蓋をパチンと閉じた。
* * *
ミューズを新しい飼い主さんへ託した夜、私は食欲もなくて、暗い部屋でひっそりと三角座りしていた。まだミューズの匂いが、気配が、この部屋には確かに残っている。今にも「なあーーーん」という独特の鳴き声が聞こえてきそうだ。
「良い人でよかったね」
そこへやってきたのが、瑛だ。
「うん。あの人になら、ミューズをあげてもいいかなって思えた」
「じゃあ、なんで泣いてるの」
新しい飼い主さんは、ミューズのことをいたく気に入り、すぐに用意していた書類にサインしてくれて、正式な譲渡が決定した。ここまで来るのに、とても時間がかかったし、本当に本当に大変だった。とても喜ばしいことのはずなのに、なぜこんなにも虚しいのだろうか。
「梨花が言ってたの、本当かもしれない」
「安奈の友達?」
「うん。梨花がね、ミューズは『生きる力』をもった猫で、自ら運命を切り開いているんだって」
「ミューズって、凛々しいオス猫だもんね」
「だからね、私はミューズに捨てられちゃったんだ。もっと大きなお家だとか、もっとたくん構ってくれる飼い主がいいだとか思ってたんだよ、きっと」
「でも、それだって、拾ってくれる人がいてこその話だ」
「私も、猫に生まれたかった」
「僕は、安奈が人間で良かったと思うよ」
「本気?」
「本気。だから、今度は僕が、安奈を拾ってあげる」
窓から差し込む月明かりで、彼の横顔には美しい陰影がついている。狭い部屋で二人ぼっち。残されたキャットタワーは、青みがかった灰色に染まって、別の何かみたいに見えた。
これ以上、不安になりたくないし、させたくない。言うならもう、今しかないと思った。
「瑛、私と付き合って」
ミューズがいなくなって、ぽっかりと空いた心の穴。それを瑛に埋めてほしいと頼むのは、自分のことながらとてもズルイ。
けれど、私はもう、瑛を手放す事はないし、瑛も一生私を飼ってくれる気がするのだ。
瑛は、ふと真顔になった。
「いいよ」
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
昔書いたのを出しなおしてみました。
気に入ってくれる人が現れますように……