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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第七章 死の精霊の魔法い

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第九十九話 深淵の独白

 闇が降りるたび、ウィンスレット邸は深い鐘のような静けさを抱く。

 高窓から射す黄昏の残光が廊の石壁を掠め、灰の粒子を浮かせる。わたしは書斎の奥、母屋と離れ棟を繋ぐ回廊の椅子に身を凭せかけ、指先で一本の銀糸を撚る。艶めく細紐は呼吸に合わせて脈動し、掌の中心で震えるたび、幽かに空気が粘る。魂の残滓という名の靄。

 十年前、死者の議会がわたしに下した裁定――「幽閉」――は、壁と門を固くするより先に人の声を遠ざけた。仕える者たちは一代で代替わりし、今ではわたしを名で呼ぶ者すら途絶える。屋敷そのものがわたしの檻となり、邸の空洞がわたしの声帯の延長に広がる。

 夜に至るたび、わたしは同じ問いを握りしめる。「会いたい」という呟きが銀糸へ滲むと、糸の先端で無風の羽音が生まれ、廊下に置かれた逆さ時計の振り子が頷き返す。短針は真上に立ったまま動かない。(とき)が流れても、時計は歩まない。回廊を渡るたび、その針がわたしの心臓へ等間隔の止息を刻む。呼応するように死の精霊の気配が邸内へ滲み、床の影を長く引き伸ばす。暴走から三百年――あの夜、三歳になったリナリアをエリオーネの元へ送り出してから、三世紀が過ぎた。

 精霊は今も飢えを覚えることなく、沈黙の底を選び続ける。暴走の炎上は短い。燃え尽きたあと、残るのは永遠の灰。それが精霊の本質。

 わたしは椅子を離れ、書斎の重い扉を押し開く。部屋中の棚に古びた写本と実験記録が積もり、頁が自重に耐えかねてわずかに撓む。墨で綴った魂可逆性理論の走り書きが、蝋燭の灯を浴びて褪せた琥珀色を帯びる。幼き日に胸へ芽生えた問い――「なぜ世界は別れを必然とするのか」――はやがてこの理論となり、わたしを精霊との邂逅へ導いた。

 理論の検証は私的な渇きの産物。父母を探すためだけに筆を折り、血を注いだ。頁へ触れる指先で脈が跳ね、銀糸が再び鼓動を伝える。糸の先、不可視の闇で精霊が(またた)き、無数の死者の声が寄り合う。わたしを召し、祈りを吸い取る囁き。

 邸の廊窓越(ろうまどご)し、庭園は露に濡れた青薔薇を揺らす。かつて宴や舞踏が繰り返されたテラスは今、苔が(ふち)を覆い、月光すら躊躇う。わたしは窓枠に手を置く。ガラスの向こうの夜気が頬を刺し、過去の映像が重なる。


 ――彼女は十八になっただろうか。


 あの夜のことを、わたしの掌は今も覚えている。泣き声が上がるより先に、わたしは娘を胸へ抱いた。小さな体は熱く、光を宿していた。銀糸のような髪を指に巻き、何度も名前を呼んだ。リナリア。世界のどこよりも大切な名。ノクティスもまたその隣で娘を抱き、目を細めてわたしを見た。無言のうちに、彼は「家族」という言葉をその腕で確かめていた。夜ごと彼女の寝台に寄り添い、わたしたちは夢を語り合った。声も、まなざしも、すべてが愛だった。

 書斎の中央机まで戻り、羽根ペンを取る。インク壺に浮く漆黒は夜そのもの。ペン先が羊皮紙に触れた瞬間、言葉が時の淀みに沈んでゆく。


「死者の女王は(ひつぎ)ではなく扉を望む」


 一行目を書き終えると、銀糸が突如鋭く震え、指から滑り落ちる。糸は床に届く前に霞へ砕け、重ねた書物の隙間へ溶け込む。気配が揺らぎ、室内の空気が圧縮される。精霊の囁きが直に鼓膜へ流れ込む。「(とき)を止めよ」と。

 拒絶すれば、糸は命を削る。受け入れれば、沈黙へ回帰する。どちらも贖いにならない。わたしは呼息(こきゅう)を整え、声を返す。


「わたしは扉を選ぶ。沈黙ではなく再会を選ぶ」


 囁きは砂煙のように散り、室内の重圧が弛む。代わりに、遠い記憶の匂いが立ち上る。古い煉瓦の塵、雨で湿った木箱、焦げたキャンドル。幼い頃、保護先の屋根裏で嗅いだ空気。意識が回想へ滑り込む。

 薄明の屋根裏部屋。木板の隙間から射す光線が埃を金色に染め、幼いわたしの影を背後へ延ばす。両親の記憶は欠片も残らず、残ったのはただひとつ――ウィンスレットという名だけ。名ばかり貴族の残骸。育て親の手は温かだったが、血の温もりとは違った。わたしは箱に詰められた古い手紙を掘り返し、まだ読めぬ文字を撫でた。「なぜわたしには母がいないのか」。問いは夜歩きの獣となり、夢の(ふち)で牙を()いだ。

 やがて、問いはただの渇きではなくなった。魂は残るのか――それを証明したくて、帝国魔法学校で理論を組み()て始めた。教授たちは笑った。魂は不可逆、死は終焉、そう断言する彼らの声の隙間で、わたしは魔力残留の微粒子を集める実験に没頭した。老いた旅人の遺髪、戦士が握っていた剣の錆、病で逝った子供の玩具。そこに宿る魔の匂いを嗅ぎ分け、光学術式で波形を捉えた。粒子は脈を持ち、互いへ引き寄せられる。欠けた鍔と折れた刃が重なり合うように。わたしは痕跡の寄り集まりに、輪郭未満の顔を視た。実験が進むほど、夜空が近づく。星々のざわめきが胸骨に映り込み、死を境に散じた魂が、静かな合唱を奏でた。

 三百年前。ウィンスレット邸の大広間――深夜。色硝子の窓を抜けた月の光が床に淡い格子を落とし、中央だけが影となる。そこにわたしとノクティスは、エルフのドルイドの師、エリュシア・スィリュフェインから授けられた儀式で四方へ銀砂を敷く。幼いリナリアは三歳の身で呪円(じゅえん)の中央に立ち、わたしと同じ銀糸を握っていた。


「呼びかけに応じる者よ、名を告げよ」


 わたしの声が天井の梁に反響し、シャンデリアの上で羽音のない黒蝶(こくちょう)が形を結ぶ。蝶が翅を開閉するたび、逆さ時計の針が壁の奥で鳴り、空気が凍る。輪郭だけの存在が大理石の床に降り立ち、名も顔も持たず、ただ死を数える意思を放つ。


「再会の領域を望む」


 問いではなく宣言。重い静寂が広間を満たし、リナリアの掌からも銀糸が震える。蝶の視線はわたしと娘を同時に貫き、返答を迫る。


「望む」


 わたしの声にリナリアの微かな囁きが重なった瞬間、燭火が一斉に消え、時が止まる。契約が結ばれる。精霊は永劫の静止を望み、わたしたちは愛の回帰を願った。その矛盾を抱えたまま、闇はあの夜の暴走へ雪崩れ込んでゆく。

 回想が消える。書斎の蝋燭が揺れ、芯が爆ぜる。幽閉の十年、銀糸は毎夜わたしに問いを投げる。「凍結か、回帰か」。暴走の終息が短いのは、精霊が飽くまで止めるだけで満足するため。燃やすよりも凍らせる。世界が沈黙へ傾くまで、奴は息を潜め続ける。扉を開き、再会の場を作るまでは、わたし自身が鍵となる。

 椅子へ戻り、書きかけの羊皮紙へ視線を落とす。


(ひつぎ)は扉へ変わる」


 二行目を書き足す。ペン先から零れたインクが雪のように滲む。わたしは筆を置き、立ち上がる。今夜、邸を出る。十年の鎖を、自ら解く。リナリアへ触れるために。ノクティスの手に残る断章を、わたし自身の声で読み上げるために。

 窓を開けると、庭の青薔薇が月へ顔を向ける。花弁が白霧(はくぶ)を孕み、宙へ解ける。精霊の気配が門へ道を延ばし、銀糸がわたしの足首へ絡む。囁きが低く響く。「(とき)を止めよ」。

 わたしは囁きへ息を重ねる。「(とき)を進める。わたしたちの手で」。

 逆さ時計が微かに鳴り、短針が一度だけ震動する。止まったままの世界に、針が命の音を刻む。邸の重い扉が自動で開き、夜風(よかぜ)が頬を梳く。

 わたしは歩み出す。(ひつぎ)ではなく扉として、祈りの名を持って、沈黙の(ふち)から再会の光へ。銀糸が揺れ、蝶が空へ円を描く――それは、止まった時を解く円環(えんかん)

 十年の孤独が途切れ、物語の発端が再び脈動し始める。

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