第九十八話 王の望み、娘の祈り
私は火のぬくもりを感じていた。まだ夜が明けきる前の、湿った闇と朝靄の境目で、ひとり焚き火の前に座している。リナリアは静かに眠っていた。ジークは鱗を陽に光らせながら、野営の外れに背を預け、目を閉じている。ルミナは、ただ獣のように身を丸め、揺れる草陰で夢のなかにある。誰も起きてはいない。この時間を選んだのは、誰に向けるでもない私の思念を、声にしても誰の耳にも届かぬと信じたからだ。だが、私自身には届いてしまう。それが、恐ろしいのだ。
火の熱は、生の温度を帯びている。かつて私は死の王であった。陽のぬくもりなど、気にも留めぬ存在だった。けれど今、私はこの熱に……安らぎすら感じている。いや、滑稽というよりも、恐ろしい。この手が、命に飢えている。そんな感覚を覚えたのは、いったいいつ以来だったか。
右手が、戻ってきたのだ。正確には、かつて私のものであったそれが、ようやく再び、私の支配に服した。あの右手は私から離れた。私自身の欲望が、具現化したようなかたちで。私はその存在を止めなかった。いや――正確には、呼んでしまったのだ。
フェリオラがいなくなった日、私は壊れた。真に壊れた。肉体が崩れたのではない。意思が、芯から溶けたのだ。娘だけは守らねばならぬ。そう思った。そう、自らに言い聞かせた。しかし、それは偽りだった。私はただ、リナリアを自分のそばに置きたかった。呼び寄せたのだ。私の手元へ。言葉では守ると謳いながら、魂の底では、ただその存在を掌に収めようと――奪おうとしていた。
私の願望が凝縮した右手は、偶然のようにルミナの意思を捕らえた。少女の精神を眠らせ、その身体に宿った力を、すべてリナリアへ向けた。守護という名の呪縛。愛という名の征服。私は、自らを誤魔化していた。
そして今、右手が戻ってきた。私の肉体に、応えるように。まるで何事もなかったかのように、静かに、そして脈打つように。
私は、驚いている。この右手の飢えが、これほどまでに激しいとは。この渇きが、魂の奥底をひび割れさせるほど、深く、凶暴なものだったとは。
私は骨の器を望んでいたはずだ。死者の王としての完全性を。あらゆる終焉にふさわしい、無機質で冷たき完全体を。だが今、それが遠い過去の残像にしか見えない。まるで、別人の望みのように思えるのだ。
――私は、どうしてしまったのだろう。
ああ、フェリオラ。おまえがいないことが、これほどまでに私を壊すとは、思っていなかった。あの声が、聞きたい。あの微笑みを、もう一度この手で。共に語らずとも、沈黙の中で息を交わすだけでよかった。そう、ただそこに、いてくれさえすれば。それなのに、おまえを失った私は、狂った。
――リナリアの声を、再び聞ける日が来るとは思っていなかった。
あの子の言葉が、胸を裂くように痛く、それでいてどうしようもなく――温かかった。あれほど過酷な別れを重ねてきたのに。死の精霊に呑まれたその日から、私はもう、二度と父に戻ることはないと信じていた。それなのに、再び父として名を呼ばれる日が来るなどと。
ただの夢ではない。確かに、彼女はそこにいた。声を放ち、私を裁き、そして……赦した。それでも、私の乾きは、癒えない。喜びも、愛も、赦しも――この胸の渇きを、満たしはしない。
満たされない。
満たされない。
満たされない……。
どれほど抱きしめても。どれほど言葉を交わしても。どれほどの未来を夢見ても。私の内側には、死とともにある欠けた何かが、絶えず渇いている。与えられることを拒まれ、奪えば空虚が残るだけの、途方もない飢え。それは、誰にも与えられない。誰にも満たすことができない。私は……そういう存在になってしまったのだ。
リナリアよ、おまえの中にある命の輝きは、私が何よりも望んだものだった。叶わなかった理想の果てに、それを見届けることができたことだけが、唯一……私を許す理由になるかもしれない。
この右手が、かつての罪を思い出すたび。ルミナの意志を覆い、娘を守るという名目で、その心を封じ、従わせたこの右手が、再び世界に手を伸ばそうとするたび。私は、おまえの声を思い出そう。あの、痛ましい祈りを。私は――父として、生き続けよう。決して満たされないままの存在として。それが、私に許された唯一の贖罪なのだから。
まだ夜の帳が残る頃。空の色は蒼白く、星の名残がしずかに薄れていく。焚き火の残り火が、ぱちぱちと小さな音を立てていた。リナリアも、ルミナも、眠りの内にいる。私は、ひとりきりだった。
ふと、手のひらを見つめた。戻った右手が、わずかに熱を持っていた。渇きは、疼きとなって皮膚の内側を這いまわる。私はその感触に耐えかねて、ゆっくりと立ち上がった。このままでは、乾きに呑まれてしまう。そのとき、寝返りの音。ジークが焚き火のそばで目を細め、まだ眠気の残る顔でこちらを見た。鱗のある肩が、月光をはじく。
「……おい、王様。眠れねぇ顔してんな」
私は小さく、笑いそうになった。ほんのわずか、口の端が動いた気がする。ジークに向き直ると、ためらいもなく言葉を投げた。
「水を浴びに行かないか。冷たいが、ちょうどいい」
ジークが片眉を上げる。
「……目でも覚ましたいのか?」
「そう。渇きが、ひどいんだ」
私はそう言った。我ながら、滑稽だった。王が。死者が。乾きに苦しみ、泉に救いを求めるなど――けれど、それが今の私だった。ジークは、立ち上がった。体を伸ばしながら、肩をすくめて笑う。
「わかったよ。付き合ってやる。……そういうのはな、ひとりでやるより、馬鹿が二人の方がマシってもんさ」
ふたり、言葉少なに歩き出す。空気は冷たく、吐息が白んでいた。森を抜けた先、滝のように流れ落ちる湧水の音が聞こえる。夜が、静かに明けようとしていた。私は渇きを抱えたまま、それでも生きる者のように歩いていた。死の王であった私が、ただの父として、ひとりの友として――水へと歩む。それだけのことが、私のような者にも、なお届く贈り物であるのだと、信じたくなった。
— 第六章終 —




