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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第六章 死の王

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第九十七話 兎の耳の少女

 朝の陽が、静かに草原の端から立ち上がっていた。淡い光が、夜露を撫でながら空を染めていく。夢と現実のあいだを、静かに切り替えていくように。焚き火は、命の残り香のようにかすかな紅を灯し、灰の中でまだ息をしていた。夜のあいだ、火が途切れることはなかった。誰にも命じられずとも、メイドたちは絶え間なく薪をくべ続けていた。その身を骸と化してなお、主の静寂を守る手が止むことはなかった。

 リナリアは静かに目を開けた。まだ夢の感触が指先に残る。そっと身体(からだ)を丸めると、探すように腕を動かした。けれど、いつもそこにいたはずの柔らかな体は、今朝はどこにもいない。胸の鼓動がひとつ、無音に跳ねた。


「……ルミナ?」


 その声は無意識にこぼれた。名を呼ぶというより、夢の余韻に紛れて吐き出された息のよう。瞼をこすり、ぼんやりと視線をあげる。焚き火の向こう、赤く染まる朝の光の中に立つ白い影――それが視界の中にじわりと現れた。

 リナリアは毛布の中から身を起こした。空気が肌に触れるたび、現実がじわじわと染みてくる。手をついて座り直し、焚き火の先を見つめた。火のぬくもりを後ろに感じながら、リナリアはゆっくりと立ち上がった。視線の先にある白い影へ、草を踏んで進む。焚き火の輪を越え、手を胸の前で軽く握りしめたまま、その影へと近づいた。

 その姿は……見知らぬはずなのに、あまりに見覚えがある。白銀の毛が全身を覆い、長い耳が朝風に揺れている。深紅の瞳、丸みを帯びた爪、軽く揺れる尻尾。人ではない。でも、遠く離れているわけでもない。すぐそこにいて、まるで、ずっと前からこうだったように、当然のように、立っている。


「ルミナだよね?」


 焚き火を背に、そう問いかけた。名を確かめるというより、その距離が夢か現実かを測ろうとするように。ルミナは、ふわりと笑った。その口元に宿るやわらかな光は、昨日までのあどけなさと、どこか重ならなかった。


「うん。おはよう、リナリア」


 声は、やはりルミナのものだった。幾度も名を呼び、甘え、頼ってきた声。けれど、どこか深い場所に、一夜で生まれ変わった静けさがあった。


「変わったね」


 リナリアは息を呑んだ。目の前の少女を、あらためて見つめる。言葉の端に、驚きでも、戸惑いでもなく、ただ静かな敬意のような感情が滲んでいた。ルミナはそっと焚き火のそばに腰を下ろした。草に触れる足先に朝露が溶け、白い毛がほのかに銀を纏う。昨夜の言葉がまだ空気の中に残っているように、火は静かに、名残をゆらめかせていた。その揺らぎの向こうで、ルミナの声が小さくこぼれた。


「ねえ、私……なんだか不思議な気持ちなの」


 語尾に揺らぎはない。けれど、言葉の奥にあるものは、まだ言葉になりきれない。リナリアは静かに傍らに座り、肩が触れないほどの距離で寄り添った。ルミナの毛並みに陽光がかすかに差し込む。リナリアには、ルミナの肩越しに差す光が――まるで彼女を、少女ではなく、大人へと引き寄せているように見えた。


「昨日までは、ずっと……当たり前だったの。リナリアの後ろをついていくこと。それが私の道なんだって思ってた。エリオーネからもそう言われてたし。あなたのそばにいて、守る。それだけが、私」


 言葉を区切るたび、ルミナの耳がかすかに揺れた。声は澄んでいたが、その響きには戸惑いが宿っていた。


「今朝、目が覚めたらね、胸の奥に知らない感覚があったの。なんて言えばいいのかな……自分で考えて、自分で動きたくてたまらないの。自分で生きてみたいって、自然に、強く、そう感じるの」


 ルミナの目が遠くを見ていた。焚き火ではなく、草原でもなく、その先のまだ見ぬ景色へ。朝日を受けた彼女の瞳は、まるで光の方角を探しているよう。リナリアはその横顔をじっと見つめていた。答えのない問いが、静かに胸の奥で形を持つ。やがて、そっと言葉にした。


「それって、パパの右手の……影響?」


 言いながら、少しだけためらいが混ざった。それは願いのようでもあり、恐れでもあった。ルミナは目を逸らさず、はっきりと頷いた。赤い瞳の奥に、迷いはなかった。


「きっと……影響はあると思う」


 ルミナはゆっくりと、胸元に手を当てた。毛に覆われた指先が、心臓の鼓動を確かめるように静かに沈む。


「なんていうのかな。感覚が……少し鈍くなった気がする。前みたいに、思いつくままに動いたりできない。昨日のことも――今思えば、すごく過敏になってた。自分でも制御できなかった。まるで感情に全部を飲み込まれてたみたいで」


 リナリアは黙って耳を傾けていた。風が二人の髪をそよがせる。まだ朝露の冷たさが残る空気のなかで、ルミナの言葉はあたたかさを持っていた。


「でも、今は違う。自分で考えて、自分で選んで、自分で動かさなきゃって思うの。それがね、ただの責任とか義務じゃなくて……やりたいって思う。自分で、自分の世界を歩いてみたいって」


 火が、胸のどこかに共鳴するように小さく鳴いた。リナリアはゆっくりと身体(からだ)を寄せた。そっとルミナの手を握った。毛並みのやわらかさが、じんわりと伝わる。


「それはきっとね、これまでの誰にも教えてもらえなかった、本当のあなたの声なのよ。今あなたが聞いてるのは、誰かの指示でも、与えられた使命でもない。ただ、あなた自身の言葉」


 静かに言いながら、リナリアの瞳に涙が滲んでいた。その涙は、哀しみではなかった。胸がじんわりと熱を持ち、何かがこみ上げる。そんな涙。


「これからはね、誰の背中も追わなくていい。どこに行ってもいいの。誰を選んでも、何を望んでも、それは全部あなたのもの。生まれた意味にしばられなくていい。……あなたの人生を、あなたのものとして歩んでほしい。あなたが選んだ道が、たとえ私の知らない世界だとしても、そこに咲く花を、私は想像するの」


 腕のなかのルミナが、わずかに震えた。リナリアは、すこし顔を離し、ふふ、と涙混じりに笑った。そして声をひそめ、焚き火の向こうをちらりと見た。


「……ねえ、ここだけの話なんだけど」


 ルミナが小さく首を傾ける。


「ジークのこと、どう思ってる?」


 問いかけに、ルミナは目を丸くしてから、あたりをぐるりと見渡した。ノクティスの姿はなかった。焚き火の周りには、片づけを始めたスケルトンのメイドたちが音もなく動いている。一体の執事のスケルトンが、手を胸に当てて一礼した。


「ノクティス様とジーク様は、湧水のところでお体を清めておられます」


 リナリアは軽く頷くと、再びルミナに視線を戻し、目で――促した。問いかけの続きを、表情ひとつで伝える。言葉よりも、ぬくもりのなかで。ルミナはほんのすこし、うつむいた。そして身を揺らすと、小さく、けれど確かにうなずいた。


「ジークといるとね、わたし、わたしじゃなくなるみたいなの。でもそれが、こわくない。むしろ……あの人のそばで、わたしの時間が始まる気がするの。だから……一緒にいたい」


 その一言は、朝の陽光のように、静かに、澄んでいた。誇らしげでもなく、恋の情熱に揺れるでもなく、ただ真っ直ぐに。自分の意志として、選び取った言葉。リナリアはすぐに返事をしなかった。胸の奥に流れたあたたかさが、涙となって目のふちに集まる。声が震えないように、ひとつ深く呼吸してから、ようやく言葉を返した。


「私は大丈夫よ」


 それは、少しだけ苦しく、けれど満ち足りた笑顔。


「そうよ、あなたは私の娘。ルミナ・ウィンスレット。誰かのものじゃなく、あなた自身の名を持った、ね」

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