第九十六話 ウィンスレット
夜が深まり、草の上を渡る風が焚き火の炎を静かに揺らした。橙の光が周囲に柔らかな影を落とし、輪になった静寂を編み込んでいく。炎の周囲には、メイド姿のスケルトンが九体、執事が三体。乾いた藁束や薪を手にして、それぞれがまるで決められた譜面に従うように動いていた。誰一人声を発さないのに、不思議と調和があった。動作のすべてが流麗で、どこか失われた日常をなぞっているような、無言の優雅さがあった。
少し離れた位置では、ジークが小さな鍋に手をかけていた。湯気が立ちのぼり、野菜と干し肉の混ざる匂いが焚き火の熱気とともに空へ昇ってゆく。死の王とその従者たちに囲まれているというのに、この香りは、まるで普通の旅路の一夜を演出しているかのよう。
「まさか、アンデッドと一緒にキャンプを張ることになるとはな……」
ジークは苦笑しながら鍋をゆっくりとかき回した。鍋底をなぞる木匙が、小さく澄んだ音を立てる。とろりとしたシチューが鍋の中でうねり、夜気の中に生き物の熱を運んだ。その背後では、執事のひとりが木桶を両腕に抱えて戻ってくる。水面には月の光が映り込んでいた。
「ここは、かつて野営地として知られておりました。風通しが良く、水も澄んでおりまして。古の騎士団が巡察の折にしばしば幕を張った場所にございます……」
骨の響きが奏でる声は、静かで、詩を呟く。どこか遠い時代の記憶を引き寄せるその口調に、ジークはほんの少しだけ目を細めた。見渡せば、月明かりに照らされた草原が、静寂を敷き詰めるように広がっていた。一本の木もないその場所は、過去の喧噪が霧となって散っていったような、物語の抜け殻のような風景。
その焚き火の輪の端で、リナリアは膝の上に丸くなったルミナを抱いていた。すっかり縮んだ兎の姿は、眠りのなかで小さく呼吸していた。あまりにも穏やかに――まるで何もなかったように。ジークは椀にシチューをよそい、そっとリナリアへ差し出した。リナリアは一言、「ありがとう」と言って受け取り、手のひらで熱を確かめながらスプーンを取った。
少し離れた場所では、ノクティスが炎の揺れを静かに見つめていた。食べるでも話すでもなく、ただ焚き火と風のあわいに、身を置くようにして佇んでいた。その背には、スケルトンたちが整然と立ち並び、ときおりカタカタと音を立てながら、何かを懐かしむように身を揺らしていた。生前の記憶――あるいは、それに似た残響が、今夜の匂いに呼び起こされていたのかもしれない。
「ねえ、パパ」
焚き火越しの問いかけに、ノクティスは静かに顔を向けた。火がはぜ、枝の破裂音が闇を裂く。
「なんで、ママのウィンスレットを名乗ったの?」
一瞬、風が火を舐め、炎の輪郭が揺れた。ノクティスはすぐには返答せず、視線を炎に落とす。頬にちらつく影が、焚き火の明滅と重なって、表情の奥を深く沈めた。
「フェリオラはね、幼い頃に両親を亡くしていた。親戚の家に引き取られて、そのまま魔法学校の寮に入った。彼女の中には、家族の思い出がなかったんだ」
その声は火の音に重なるように、低く、柔らかかった。
「育ての親とも、距離があったらしい。だから、家族って呼べる存在が、本当にいなかったんだよ。だけど――ひとつだけ、失われなかったものがあった。ウィンスレットという名前。それだけが、両親とつなぐ絆だった」
リナリアは目を伏せ、膝の上のルミナの兎耳にそっと指先を沿わせる。ノクティスの言葉が、ふわりと火の向こうから届いた。
「彼女にとって、それはただの名前じゃない。存在を証明する唯一のものだった。僕には、それを奪えなかった。どれだけ彼女と近くにいても、それだけは譲れないものだった。……きっと、彼女も気づいてた。名前の重みを。記憶が風化しても、文字がそれをつなぎとめると」
ノクティスは火を見つめたまま、短く息を吸いこんだ。
「フェリオラが初めて家族って呼べたのは、君なんだよ。血がつながってて、同じ名前を持っていて。ウィンスレットとして、生まれた子ども」
リナリアは、かすかにうなずく。風がひとすじ、薪の煙を押し上げた。
「リナリア・ウィンスレット。君は、彼女が残した願いであり、僕がずっと守りたかった希望そのものなんだ」
リナリアの表情は、変わらないまま。けれど瞳の奥に、言葉にできない光がきらめいた。
「……私も、ウィンスレットの名前を変えたくないわ」
焚き火がぱちりと音を立て、火花が空へ舞い上がる。その光が一瞬、リナリアの横顔を照らした。
「なんでどちらかが姓を捨てなきゃいけないの? 暴力的な風習よね」
怒りの色はなかった。ただ、言葉の端々に、誰にも奪わせまいとする強い意志がにじんでいた。少女の声には、どこか大人びた静けさがあった。
「でも、パパと同じ名前で安心するの。……不思議ね、なんだか愛を感じるの。血じゃなくて、名前でつながってる気がする。不思議だけど」
ノクティスは、何も言わずに炎を見ていた。夜風が髪を撫でていく。焚き火の影が伸び、また縮む。
「名前を揃えるって……無理やり一つにまとめるような気もする。でもね、どうしてかな、それが愛の形だと思えるの。だって、誰かと同じものになるって、どこか、選ばれたみたいだから……」
リナリアの声が、かすかに震えた。
「だから……胸が痛いの。ほんの少しでも、名前を呼ばれるたびに……ああ、私にも帰る場所があったんだって、思えてしまうから……」
その瞬間、何かがこぼれた。頬に、ひとすじの涙が流れる。彼女は手で拭わなかった。次の雫がそのまま続いて頬を伝い、さらにもう一筋――そのうちに、両の目から涙があふれていた。止めようとしても止まらなかった。震えは喉に届き、声にならない呼吸が喉奥でつまる。
「ごめん……なんでもない。こんな、夜に……」
リナリアは笑おうとした。けれど、唇が引き結ばれたまま、声が震えて出てこなかった。火の音だけが、時間を繋いでいた。涙はまだ、止まらなかった。
「ただ……寂しかったのかも」
その言葉だけが、ぽつりと落ちた。兎のルミナが寝返りを打ち、小さな鼻先がリナリアの掌に触れた。温もりが、そこにあった。掌の下で感じる、微かな命の鼓動。リナリアは、その小さな体に頬を伏せた。まるで、自分の涙を誰にも見せたくないかのように。まるで、その温もりだけが、世界のすべてを赦してくれるかのように。




