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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第六章 死の王

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第九十五話 右手の温度

 崩落した天蓋の残響が、岩壁を伝って返ってくる。ファルム・コラティナ――かつて死者の王が座したその地は、荘厳を失い、いまや記憶の残骸として静かに崩れていた。刻まれた石壁も、語られぬ誓いも、幾千の咎も、今はただ、黄昏に溶けていくだけ。

 リナリアは塔から少し離れた草原に立っていた。肩にまだ瓦礫の細かな塵が降り積もっていたが、彼女の目は、風の行方を追っていた。涼やかな眼差しの奥に、遠い空を映すような静けさがあった。

 隣にはノクティス。再生された右手を胸元で軽く握り、黙って空を仰いでいる。言葉はなかったが、その沈黙には疲弊でも虚無でもなく、むしろ満ち足りたような余韻が漂っていた。彼の背後にはスケルトンたちが整然と佇んでいたが、やがてその中の数体が音もなく歩き出し、帰る場所などないはずの彼方へとゆっくり消えていった。何の号令もないまま、彼らは一体また一体と静かに歩き出す。名もなき帰路をたどるように、ただ風に溶けていった。秩序も号令もない、解散のような風景。

 セルトゥールの姿はすでにそこになかった。あの獣の王は、すべてが終わるより一足先に姿を消していた。ジークには不思議な確信があった――いつか自分が命尽きたとき、どこかで彼と再び会うことになる気がしていた。

 ルミナはというと、ジークの肩にぺたりと凭れかかっていた。少女の身体(からだ)はすっかり縮み、まるで歳月を逆行したように、幼い子供の姿へと還っていた。ジークはそんな彼女を肩車したまま、やや困惑したように苦笑を浮かべていた。ルミナの頬は彼の頭頂にぴたりと貼りつき、反応こそ薄いが、それが精一杯の甘えだった。


「完全に力尽きたな……動かなくなった機械仕掛けの妖精って、こんな感じかもな」


 ルミナは返事もせず、ただジークの頭を小さくぺしぺしと叩きながら、崩れていくファルム・コラティナの塔をぼんやりと見つめていた。燃え尽きた余韻だけが風に舞っていた。ノクティスが静かに口を開いた。


「ここはもう、終わりだ。崩れるだけの場所に未練はない。移ろう。東の柱群を抜けたところに、まだ使える宮殿が残っている。かつてのミルゼンの塔の跡地だ」


 彼は踵を返し、ゆっくりと歩き始める。何かを受け入れた者だけが踏み出せる、揺るぎない一歩。リナリアはそれを追うようにして歩み寄り、彼の隣へと並んだ。ふたりの歩みに風が寄り添う。話すことはなくとも、音のない時間がすこしずつ織られていく。やがて、リナリアがちらりとノクティスの顔を見上げる。真っ直ぐな目。何かを確かめるような視線。彼女の口元が、ほんのわずかに動いた。


「……それにしても」


「?」


「やっぱり、お父さんって感じじゃないわね。どう見ても、お兄さんって雰囲気」


 ぽつりとしたリナリアの言葉に、ノクティスはわずかに歩を止めた。自分の右手を目の前に上げて、ゆっくりと指を開いてみせた。まるで再び生まれた肉体が、自らの存在をまだ確かめているかのように――彼自身も、そこにある手を信じ切れていない気配があった。


「やっと、肉体を捨てられると思っていたんだ。死者らしく、骨格だけの体にね」


 彼の表情は軽かった。


「だけど……逆戻りだ。思ってたより、居心地は悪くないけどね」


「ふぅん……?」


 リナリアはそっと目を細めた。風に髪が揺れて、足元の砂が小さく舞う。ノクティスの言葉の続きを待たずに、鋭さを帯びた声音で問いかけた。


「で、聞いていい?」


「……何を?」


「どうしてパパの右手が、星霧(せいむ)の森にあったの?」


 吹き抜ける風が、彼の髪をやさしくなでるように通り抜ける。だがその視線は逸れ、答える言葉を探すように、少しだけ口ごもった。


「ママがいなかったからね。君にもしものことがあったら困ると思ったんだ。ただ、それだけだよ。……代わりなんだ。ママの、ね」


 言葉を濁す父に、リナリアはただ横顔を見つめた。目に浮かんでいたのは、「それだけ?」という問いだけ。


「へぇー?」


 すべてを見透かしている目で、無言のままノクティスの横顔を見つめていた。


「ずっとね、誰の手なんだろうって思ってたの。最初に雪の中で見つけたときから、不思議と見覚えがあって。知ってる気がしたのに、思い出せなかった。ずっとそばにいたんだ」


 言葉の最後に、リナリアはふいにノクティスの右手を掴んだ。戸惑いも許さず、ぱしんと音が鳴るほどに指を重ねた。その手のひらは、小さくも力強かった。問答無用で気持ちをつなぐように、何の前触れもなく。


「ねえ、歩こ」


 声はあっさりとしていた。その手はあたたかかった。過去の埋め合わせをするわけでもなく、許しを乞うでもなく、ただ――確かめたかったのだ。いま、ここに、父と娘として握れる手があるということを。二人はそのまま並んで歩き出した。互いの影がゆるやかに揃い、瓦礫の残響が背後で静かに鳴り続ける。それは、終わりの音ではなかった。どこかで、まだ名前も与えられていない始まりが、そっと息をし始めていた。

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