第九十四話 選ばれし破壊
崩壊した空間には、なお崩落の音が燻っていた。石の層がゆっくりとずれ、焼けた粉塵が渦を巻き、瓦礫の隙間を縫って、風がひとすじ、音もなく通り過ぎる。その風のなかを、ジークが駆け抜けた。裂けた黒曜石を跳び越え、魔素の残響が痺れるように満ちる空気を押し分けながら、破壊の中心へと身を投じるようにして、リナリアとルミナのもとへとたどり着いた。
「ルミナ!」
名を呼ぶ声に、少女のまぶたが震えた。炭のような睫毛がわずかに動き、焼けた光の余熱を湛えた眼差しが、ジークの輪郭を映す。彼は一切のためらいもなく、その手を取った。割れた床の破片が音を立てるなかで、ただその小さな手を、熱の残るままに、しっかりと握った。
「よかった……帰ってきてくれて」
ジークの指に、ルミナの指先が、わずかに絡む。返事はなかったが、言葉よりも確かな意志がそこにあった。だがその瞬間、背後の空気が――折れた。ひとつの存在が、まだ終わっていなかった。
カエルミン・ローダン。焼け焦げ、粉砕された骨の衣を纏い、すでに両腕は肘から先が崩れ、片脚も跡形もない。だが彼の眼窩だけが、リナリアを、確かに睨んでいた。全身を構成していた魔印が燃え上がり、その胸骨の奥、心核と呼ばれる魂の核へと、呪詠が凝縮される。もはや声を発する器官も残ってはいない。魔法という形を借りた、呪いそのもの。心臓から捧げられる、終焉の矢――それが放たれようとしていた。
黒い光が、骨の奥から溢れるように凝縮する。粛清のための終着点。世界に対する、彼自身の遺言。そしてそれが放たれようとした瞬間。
「その矢は放たれない。今ここで、私が命ずる」
その声が、砕けた空気を貫いて、真下に落ちた。それは刃ではなく、静かな封印の文。その言葉が届くよりも早く、カエルミンを包んでいた黒い魔素が一斉に霧散する。まるで、すべてを吸い込むように――強制的に、否応なく、命を奪われるよりも、魔法という選択肢そのものを剥奪されるように。
ノクティス・ウィンスレット。かつて死の王と呼ばれた者が、いまそこにいた。右手は再生し、灰の中から蘇ったような若き体は、王の風格と同時に父としての威厳を湛えていた。剣でも、呪文でもない。静かに放たれた命が、すべての空気を支配していた。彼が否と告げたことで、呪いは成立しなかった。カエルミンは――ただ、その場に崩れ落ちた。音もなく、否応なく、敗北というより終息として。
「我々は……選ばれし存在などではない」
ノクティスの声が、まるで世界そのものに語りかけるように広がった。魔素が沈黙し、風が止まり、死者たちの気配が重力のように床へ沈む。
「選ばれる時代は、終わった。我々は今――自ら選ばねばならぬ。生者も、死者も。過去に縋るために生きるのではない。選ぶ責を負う者として、この世界に在る」
死者の広間が静まり返った。抗う者はいなかった。王の宣言ではなかった。それは、あまりにも人間的な決断だったからだ。王としてではなく、父として、夫として、そしてひとりの存在として。ノクティスは選んだ。誰よりも深い死を知りながら、誰よりも生の重みを認めた男が。
そして、もうひとりの王が立ち上がる。セルトゥール。黒き獣の王は、その巨体を持って前へ出た。威圧ではない。確認だった。確かにこの瞬間が、選ばれたのではなく、選ばれたくない者たちによって選ばれたことを――彼は見届けようとしていた。
「ならば、見届けよう。死の王が、選んだということを」
その言葉が、告げた。ひとつの時代の終わりを。長きにわたり縛られていた封印が、いま、解かれる。
ノクティスがゆっくりと振り返る。その目はリナリアを映す。かつて世界を守るため、そして破滅から遠ざけるために、自らの妻を封じた男。いま、その娘がここにいる。妻の遺志を継ぎ、未来を変えようとする少女が、目の前にいる。
「フェリオラを――開放する」
その声に、広間のすべてが沈黙した。空気は深く沈み、世界が息を吐いた。瓦礫のなか、魔素の中、誰も動かない。ただ、その一言だけが、歴史を変えた。




