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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第六章 死の王

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第九十三話 星砕きの一撃《The Starpiercer》

 空間がねじれた。視界が傾ぎ、重力の軸がわずかに捻じれる。目には映らぬほどの変位が、脊椎の奥にまでひびき、全ての存在が一瞬、遅れる。息の仕方を忘れたように、世界がその鼓動を止めた。カエルミンの殺気が物理の境界を凌駕し、空間そのものを折り曲げていた。空気が見えない悲鳴をあげ、死者の広間が深く、緩やかにたわむ。あらゆる物質が、彼の意思によって膨張と収縮の端を行き来していた。

 誰よりも早くそれを感じたのはリナリア。脳が理解するより先に、身体(からだ)が跳ねた。ほんの一歩、前へと踏み出す。だがその一歩でさえ、何百もの斬撃を受けるような圧が全身を切り裂く。早すぎる殺気。遅すぎる抵抗。間に合わないと分かっていた。勘でも魔術でもない、経験に刻まれた理解。――この男は、(ことわり)ごと、命を消してきたのだ。

 カエルミンの姿が、空間から溶け落ちる。質量の残響だけを残し、すでに斬撃が――そこにあった。存在の痕跡が剣筋と等価となって現れた刹那、リナリアの目の前に、すでに死の風が振り下ろされていた。これは速度ではない。概念の斬撃。因果律そのものを断ち切るような、(ことわり)による粛清。


 ――再び、風が逆転した。


 広間の魔素(まそ)が中心から外へと炸裂的に反転し、重力が後方に転倒する。空間が軋み、次元の継ぎ目が引き裂かれ、万象の因果がばらけていく。その中心にいたのは――ルミナ。否、もはやその存在を「ルミナ」として視認することができた(もの)は、広間に一人としていなかった。

 背中からは、淡い光を含んだ白金の羽が開き、繊細でありながら神聖な幾何を描いて広がる。頭部には、光でできた帯のような(つの)が二本、頭頂を貫いて伸びる。右腕が、大きく変容していた。銀黒の魔素(まそ)が結晶化し、鋼の芯を抱くようにして骨組みが構築され、腕は巨大な魔力加速機構へと変貌を遂げていた。ただ祈りの形をとった破壊の器。矛であり、翼であり、赦されざる希望の象徴。物質と概念の境界を断ち切るその右腕の存在自体が、周囲の魔素(まそ)法則をねじ曲げ、空間の意味を上書きしていく。あまりの異様さに誰も言葉を失っていた。ついに、セルトゥールが身を乗り出して、その名を唸るようにして吐いた。


 「龍奏の子(アンギュラ・カエリ)……天を裂くもの」


 その瞬間、ルミナの足元が裂けた。床が、魔力の膨張に耐えきれず粉砕し、大地が悲鳴のような音を立てて軋む。右腕が、変化を完了する。幾重にも重なる構造が展開し、砲身が姿を現す。銃身が自己展開し、内部に形成された魔力の螺旋が回転を始める。中心部には、見たことのない構文式の魔紋が浮かび、空間そのものの座標が乱反射するように揺らぎ出す。何かが、もうこの次元の外へ行こうとしていた。


 ――そして、世界が悲鳴をあげた。


 発射音は、存在しなかった。振動もなければ、衝撃もなかった。あったのは、存在しないという事象そのもの。そこにあった広間の床や壁や天井が、(つぎ)の瞬間、丸ごと消滅した。白熱の閃光が、一直線に突き破り、瞬く間にファルム・コラティナ上層を吹き飛ばす。空を裂いた閃光の柱が、遠くヴェルンハイム山系の峰々を貫通する。世界の核が、一線上に抜き取られるように断絶した。音はなかった。そこにいたものは皆、圧倒的な消失を感じ取っていた。

 カエルミンの背後にいたスケルトンたちが、一瞬にして消滅した。魂が逃れる間すらなく、解体され、分解され、誰かの思い出に還っていく。

 そして――その爆心地にあったはずの男が、まだ、そこにいた。カエルミン・ローダン。ヴェールは完全に無くなり、両腕は肘から砕け、肋骨のほとんどが崩落していた。右脚の関節は半ば焼失し、頭蓋にはひびが走っている。それでも彼は、膝をつきながらも、存在していた。まだここにいる。死の定義を超えた、執念の存在。その眼窩――もはや魔力の残滓で視認するしかないその視線だけが、ルミナを捉えていた。見下すでもなく、怒るでもない。ただ、認識している。そこに越えてはならぬ存在がいるという、王の眼差し。奇跡ではない。これは、意思の結晶。生存ではなく、残存。世界が絶滅を言い渡しても、なおそこに立ち会う者の、最終存在証明。


「見事だ……だが……(われ)は滅せぬ……」


 それは声ではなかった。喉を通る空気でも、肺の震えでもない。存在という奇跡が、残響のかたちで空気を震わせた。砕けた骨の間から漏れたのは、敗北ではなく継続という意志。カエルミンは半身を失いながらも、まだこちらを見ていた。命を拒絶する者が、ただその眼窩にルミナを否定せず焼き付けていた。

 ルミナが、再び構えた。第二射。意識ではない。反射でもない。己の存在がそうすべきと告げるままに、無音の防衛本能が発動を開始する。身体(からだ)が光を放つ。骨が軋む。皮膚の割れ目から、過剰な魔素(まそ)光素(こうそ)として噴き出し、毛髪が一筋ずつ風に融けていく。(つの)がひび割れ、発光と共に砕け、背の羽根が灰のようにほどけてゆく。変異の限界――肉体の終端。


「やめてぇぇぇぇっ‼」


 空間を裂くような叫び。リナリアの声が世界に突き刺さる。その叫びは届かない。魔素(まそ)が空気を満たし、音すら屈折させる奔流が耳を塞ぐ。悲鳴は届かない。その瞳に映るのは、もう世界ではない。ルミナの目は、ただ一つ――カエルミンの存在を定点として、発光を続けていた。見ていたのではない。定めていた。発動すべき義務として、彼女の本能が最後の意志を読み上げている。


「そこまでだ」


 深く沈黙していた王が、(から)の右腕をまっすぐに、空間の中心へと差し出した。すべての声を黙らせる一語を紡ぐ。その言葉は統治の言葉でも、否定でもない。ただ、父としての――終止符。彼の右腕に、風が渦を巻く。ルミナの身体(からだ)から零れ落ちていた光素(こうそ)が、ゆっくりと引力に導かれるように、その腕先に吸い込まれていく。細胞の記憶が、意志の残響が、粒子の一つひとつに染み込んだ帰還が始まる。骨が編まれ、血管の軌道が光の糸として織り込まれ、魔素(まそ)が融合し――ノクティスの右手が、再び形を取り戻す。指が一本ずつ閉じられていく様は、まるでこの世界が失った一篇の記憶が、静かに頁を繕っていくよう。

 それは、雪に埋もれていた手。まだ何者でもなかったリナリアがその存在に触れた最初の記憶。ルミナが生まれた夜に、闇から落ちてきた意思の塊。それは彼女を構成する最後のピースであり、彼女に受け継がれた死から生まれた証。

 光が収まる。砲が消える。変質した右腕が引き戻され、最後の輝きを残して光素(こうそ)が霧散する。ルミナが、崩れ落ちるように膝をつく。魔素(まそ)の残光が揺れ、彼女の形が、少女の姿へと還る。静かに、穏やかに、まるで何事もなかったように。羽根は消え、(つの)も消え、右腕も人の形に戻る。魔素(まそ)の胎動が止み、空間に再び重力が戻る。

 リナリアが、駆け寄る。何も問わず、何も叫ばず、ただ両腕を広げて、彼女を受け止めた。ルミナの瞳が、ぼんやりと瞬きをする。目を合わせる。それは、命を識別する一瞬。


「おかえり」


 リナリアの声は、(かぜ)に攫われるよりも静かで、ルミナの耳に届いた。広間は崩壊寸前(すんぜん)だった。誰も動かない。誰も言葉を持たなかった。死者の王たちが見守るなか、ふたりの少女だけが――ただ、息をしていた。

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