第九十二話 断裂と咆哮
空気が震えるその刹那、呼吸よりも早く――カエルミンの右腕が、黒鉄の剣を掴んだ。古の王国が滅びゆく最中、最後の神殿に封じられた遺剣。刃文には神の呪語が沈黙のまま刻まれ、意志に逆らい、歴史の帳を裂く。鋼ではない、意思そのものが形をとった呪いの剣。その剣が、いつのまにかカエルミンの右腕にあった。
宣告もなく、威嚇もなく、ただ「自然」の動きとして――リナリアの首を断ち切るための斜線が、音よりも先に、テーブル越しに放たれた。一瞬。剣筋は気配を持たなかった。声も、叫びも届かない。父ノクティスの腕でさえ反応が遅れ、セルトゥールの黒き指も刃の余波に触れかけただけ。すべてが間に合わなかった。ただ一人、ルミナを除いて。
その動きは、覚醒という言葉では足りなかった。彼女の内部で、封印された「何か」が反応したのだ。呼吸のように、自然に剣を抜いた。その刀身は、見たことのない物質――いや、物質ですらない。半魔素、半構造体。現実と虚構の境界を縫い合わせたような刃。銘もない。世界にただひとつ、彼女という存在が生きている証明としてだけ具現された、名もなき剣。
──一閃、音が遅れた。
ドォンッッ――‼空気の壁が破られ、純度の極に達した剣同士が衝突する。重なった衝撃が一瞬にして周囲の重力をねじ曲げ、剣撃が生み出した超圧縮の魔素波が爆発するように炸裂する。空間が裂け、耳を貫く爆鳴が広間を呑み込む。天井の石彫は砕け、フレスコ画は粉塵に変わった。魔素がねじ切れ、空間の骨が叫びをあげる――世界の断裂音だ。
ファルム・コラティナの天井が軋み、黒曜石の柱が断末魔のように亀裂を広げていく。空間の骨が悲鳴をあげていた。魔素の音が、耳ではなく脳を殴るように響き渡り、死者すら身をすくめる余波を生む。あらゆる物理と魔法の境界線が崩れたその中心、ルミナとカエルミンの間には、幾重にも折れた魔素の断裂線が網目のように残されていた。
ルミナは、寸分のずれなくその場に立っている。風も髪も動かない。その瞳には、拒絶以外の感情がなかった。まるで彼女の中で、すべての許しが消えていた。カエルミンが、僅かに、だが確かに一歩、後退する。威圧や警戒ではない。予期していなかった、未知の何かへの応答として。黒いヴェールの下、彼の口が、ゆっくりと、噛みしめるようにして開いた――。
「すべての死は、秩序の中でこそ眠れる。理なき生は、死すら意味を持たない」
その声は氷よりも冷たく、灰よりも軽く、ただ空気を裂いた。私情の欠片すらない。断罪でも咎めでもなく、ただ「原理」として口から滑り落ちた響き。死とは在るべきもの、秩序とはそれを受け入れる檻であると、まるで神の代弁者のように告げられたその言葉に、死者たちがわずかに揺れた。
かすかな衣擦れの音。鉄と骨と布が擦れあうような鈍いざわめきが、広間全体に染み込むように広がる。スケルトンたちの幾体かが、すうっと、ほとんど浮遊するような気配で、カエルミンの背へと寄る。正面を向いていなくとも、彼に従うというよりは、その「理」に磁力のように引き寄せられていく。
リナリアは、口を開かなかった。声を出さなかった。ただ見つめていた。その目は、理解と抗いの狭間で何かを探していた。ノクティスもセルトゥールも、動かない。否、動けなかった。理性が足止めされるほどの緊張。今、この場にあるのは、秩序か、希望か、それとも――破壊か。世界が、わずかな揺れに軋んでいる。カエルミンが剣を持ち直す。今度ははっきりと、ルミナに向けて。刃は呼吸の間に微かに震え、まるで意思そのものが剣に宿っているかのように、斬る前から拒絶の輪郭を描いていた。
「次は、逃さぬ」
重低音のような足音が、床を、空間を、聴覚の奥を震わせる。刃のような殺意ではない。激情もない。そこにあるのは、凍結した宇宙の法則そのものが歩いてくるという恐怖。死という名の意思が、二足歩行の姿で此処に近づいている。逃れられない。理解する前に、魂の深部がそれを察知する。逃げるという選択肢すら、削がれる圧。
ルミナは何も言わない。声も視線も、交えない。ただ、剣を下ろしたまま、リナリアの前へと出た。動きに無駄はなく、意志に迷いはない。構えた剣は決して高くも低くもなく、ただ守るという一点にのみ最適化された意志の延長。防御ではなく、拒絶でもない。抗いではない。選択だ。
命は、死を否定するためにある。その意志を体現する者が、今ここにいる。空気が、あらゆる音を吸い取って沈黙を濃縮していく。誰もが思っていた。声にはできないまま、ただ直感として――
──この次の瞬間、この広間が終わるかもしれない。




