第九十一話 死者の王たちの思惑
その沈黙は、夜明け前の空気に似ていた。動くことも、壊れることもなく、ただ全てのものを押し潰すような、目に見えない圧が広間を満たしていた。だがそれは、やがて訪れる嵐の前触れにすぎなかった。リナリアの言葉――それは炎。真冬の石造りの聖堂に投げ込まれた火種。凍てつく静寂の奥底をじわじわと融かし、誰もが見ようとしなかった「生」という名の熱を、この死の王たちの庭に持ち込んだ。
セルトゥール・ガルナヴァン。獣の名を冠し、王の名を抱いた存在は、動かない。頭一つ抜けたその威容は、まるで黒曜石の巨像のように微動だにせず、ただ黒いヴェールの向こうからルミナを見据えていた。彼の視線は、見えぬ手のように空間を支配した。沈黙のなか、ただ視たのだ。どれほどの時間が流れたか、誰にも分からなかった。そして、その静寂を縫うように――言葉が落ちた。
「死と生の境が揺らげば、世界は軋む」
それは風のない空間に響いた雷鳴。
「お前が何者であろうと、娘、お前の存在が試練となるだろう」
低く、磨かれた金属のような声。音というより質感として響くその声には、怒りも、疑念も含まれていない。ただ、「視た者」の口が、その未来の輪郭を、言葉として刻印したのだ。ルミナは何も言わなかった。肩を強張らせることもなく、ただ静かに、リナリアの背へと目を移した。何かを訴えるような、あるいは、それすら許されぬような――諦念にも似たまなざしだった。その時。空間の均衡が音を立てて崩れる。重く鈍い衝撃。心臓を強く圧迫するような冷気が、広間の隅々にまで拡がった。
「くだらん」
刃のようなその一言が、黒のヴェールを揺らした。声の主――カエルミン・ローダンが息を吐いた。その空気に、魔力の波が走った。呪いと呼ばれるほどに深く染み込んだ存在の威容が、空間に裂け目を生む。彼の周囲には微かに白い霜のような魔素の痕が浮かび上がっていた。
「フェリオラの罪は免れぬ。……まして、娘までもが理を曲げるというのか」
語調に揺らぎはない。ただ、それだけに怖ろしい。焚火ではなく、氷柱のような言葉。刺すような冷たさのなかに、熱情ではなく否定の絶対値が宿っていた。ノクティスがわずかに身を動かした。眉の端に、一瞬だが苦渋が走った。
「カエルミン……」
その声は、呼びかけというよりも、長く連れ添った同士に向ける合図。しかし、黒き王は応じない。断ち切るように、背を向ける。
「幽閉が妥当だ。あの女の意思は、秩序の枠を焼き壊す。縛りつけろ、忘れられるまで」
その言葉に、広間の空気が再び重く沈んだ。死者の中にさえ、ざわめきが生まれる。だがそれは声にならない。すでに声を失った者たちの葛藤は、骨の軋みに、かすかな衣擦れに、空気の震えとして表れていた。
「ノクティス。あの女が――フェリオラが、死の精霊を歪めた時、何が起きた? 生者は滅び、秩序は崩壊した。……今さら感傷に流されて、何を守る?」
言葉に嘲りはなかった。ただ事実だけが並べられた。その淡々とした非情さが、誰よりも恐ろしかった。リナリアは息を止めていた。静かに、ゆっくりと、父を見た。ノクティスの眼差しは曇り、沈黙は続く――だが、それは怯えではない。迷いでもない。ただ、「選ばねばならない」者の沈黙。その静寂を――断ち割ったのは、リナリア。
「言わせて」
リナリアの声は、音というより光に近い。夜明け直前の東の空に、ひとすじ射し込む光芒のように、広間の濁った空気を切り裂く。明るく、澄んでいる。だが、軽くはない。その声の中核には、揺るがぬ意志があった。
「ママをこのまま捨て置くなら、それは違うって、私は言わなきゃいけない」
怒りも恐れもなく、初めて息をするように、彼女は言葉を差し出した。リナリアの眼差しが、正面からカエルミンに向けられる。その黒いヴェールの奥に何があろうと、怯まず、逸らさず、ただまっすぐに。まるで光の粒子が眼窩の奥へ入り込み、その魂に問いを突きつけるように。
「あなたは、混沌の時代に生たのでしょ? 自分で言ってたわ。理も通じない時代に、力だけで秩序を築いたって。なら、怖がらないで。……ルミナは、あたらしい秩序を創る子よ。ママがそう望んだように」
その言葉の裏には、声にされなかった無数の問いがひそんでいた。恐れることしかできないのなら、あなたは本当に王だったのか――と。カエルミンの右手がわずかに揺れた。風ひとつない広間のなかで、黒鉄の指が空気を裂くように滑る。その音なき軌跡が、リナリアの言葉を切ろうとするかのように。
「口が過ぎる、娘」
低い声。そのひとことに、何体かのスケルトンが身じろぎする。死者でありながら、身を守る本能が――いま、目覚めていた。リナリアは怯まない。むしろ一歩、踏み込むようにしてセルトゥールの方へと身体を寄せた。
「あなたは……違う。わかってくれてる。……ね?」
視線を向ける。頼るでもなく、懇願するでもない。ただ、「知っている者」同士の、まっすぐな確認。セルトゥールは、うなずかない。答えを与えることも拒絶することもせず、ただ――受け止めていた。全ての光と影を、その静かな骨の奥に沈めて。ノクティスの息が、かすかに震えた。
「私も、もう立場を選ばねばならないようだな」
その呟きに、広間の空気が再び揺れる。骨の王たちの空気が変わる。重みが増す。カエルミンがわずかに身を乗り出した。目に見えない怒りが、黒い布の奥から放射される。
「貴様が、解放を選ぶというのか……? 感傷で、秩序を棄てるのか?」
だがノクティスは、それを一蹴するように視線を逸らし、娘へと向き直る。その眼差しにあったのは――覚悟。遙かに長い死の時の果てでようやく届いた、痛みを伴う愛の輪郭。
「私は、フェリオラを愛している。……リナリアは、私の娘だ。……そしてルミナもまた、家族だ。希望だと、私は思う。だから私は――解放の道を、選ぶ」
広間に満ちていた霊圧が揺らいだ。幾体ものスケルトンが無言のまま後ずさる。誰も叫ばない。だが、その沈黙は悲鳴。ノクティスの宣言は、均衡という名の幻想を破壊した。
「秩序ではなく、解放を選ぶのか」
カエルミンの声が、深い井戸底から響くように広がった。だが、ノクティスはそれには応じない。ただ、リナリアを見て、かすかに――ほんのわずかに、笑った。
「いや。私たちは、始まりを選んだのだ」
その言葉は、広間に重く、そして温かく沈んでいった。決して鋭くはない。けれど、誰の武器も届かぬ場所で、確かに世界を変えていくような言葉。
――そして、それは誰にも否定できなかった。
空気は凪ぎ、だが凪いでいるのではなかった。その沈黙の底には、既に動き始めた何かの胎動があった。未来。再生。選択。そして、結び。その夜、死者の広間には確かに生者の声が響いた。それは、罪を糾す叫びではなく、過ちを抱いて進む赦し。




