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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第六章 死の王

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第九十一話 死者の王たちの思惑

 その沈黙は、夜明け前の空気に似ていた。動くことも、壊れることもなく、ただ全てのものを押し潰すような、()に見えない圧が広間を満たしていた。だがそれは、やがて訪れる嵐の前触れにすぎなかった。リナリアの言葉――それは炎。真冬の石造りの聖堂に投げ込まれた火種。凍てつく静寂の奥底をじわじわと融かし、誰もが見ようとしなかった「(せい)」という名の熱を、この死の王たちの庭に持ち込んだ。

 セルトゥール・ガルナヴァン。獣の名を冠し、王の名を抱いた存在は、動かない。頭一つ抜けたその威容は、まるで黒曜石の巨像のように微動だにせず、ただ黒いヴェールの向こうからルミナを見据えていた。彼の視線は、見えぬ手のように空間を支配した。沈黙のなか、ただ視たのだ。どれほどの時間が流れたか、誰にも分からなかった。そして、その静寂を縫うように――言葉が落ちた。


「死と生の境が揺らげば、世界は軋む」


 それは風のない空間に響いた雷鳴。


「お前が何者であろうと、娘、お前の存在が試練となるだろう」


 低く、磨かれた金属のような声。音というより質感として響くその声には、(いか)りも、疑念も含まれていない。ただ、「視た者」の口が、その未来の輪郭を、言葉として刻印したのだ。ルミナは何も言わなかった。肩を強張らせることもなく、ただ静かに、リナリアの背へと目を移した。何かを訴えるような、あるいは、それすら許されぬような――諦念にも似たまなざしだった。その時。空間の均衡が音を立てて崩れる。重く鈍い衝撃。心臓を強く圧迫するような冷気が、広間の隅々にまで拡がった。


「くだらん」


 刃のようなその一言が、黒のヴェールを揺らした。声の主――カエルミン・ローダンが息を吐いた。その空気に、魔力の波が走った。呪いと呼ばれるほどに深く染み込んだ存在の威容が、空間に裂け目を生む。彼の周囲には微かに白い霜のような魔素(まそ)の痕が浮かび上がっていた。


「フェリオラの罪は免れぬ。……まして、娘までもが理を曲げるというのか」


 語調に揺らぎはない。ただ、それだけに怖ろしい。焚火ではなく、氷柱のような言葉。刺すような冷たさのなかに、熱情ではなく否定の絶対値が宿っていた。ノクティスがわずかに身を動かした。眉の端に、一瞬だが苦渋が走った。


「カエルミン……」


 その声は、呼びかけというよりも、長く連れ添った同士に向ける合図。しかし、黒き王は応じない。断ち切るように、背を向ける。


「幽閉が妥当だ。あの女の意思は、秩序の枠を焼き壊す。縛りつけろ、忘れられるまで」


 その言葉に、広間の空気が再び重く沈んだ。死者の中にさえ、ざわめきが生まれる。だがそれは声にならない。すでに声を失った者たちの葛藤は、骨の軋みに、かすかな衣擦れに、空気の震えとして表れていた。


「ノクティス。あの女が――フェリオラが、死の精霊を歪めた時、何が起きた? 生者は滅び、秩序は崩壊した。……今さら感傷に流されて、何を守る?」


 言葉に嘲りはなかった。ただ事実だけが並べられた。その淡々とした非情さが、誰よりも恐ろしかった。リナリアは息を止めていた。静かに、ゆっくりと、父を見た。ノクティスの眼差しは曇り、沈黙は続く――だが、それは怯えではない。迷いでもない。ただ、「選ばねばならない」(もの)の沈黙。その静寂を――断ち割ったのは、リナリア。


「言わせて」


 リナリアの声は、音というより光に近い。夜明け直前の東の空に、ひとすじ射し込む光芒のように、広間の濁った空気を切り裂く。明るく、澄んでいる。だが、軽くはない。その声の中核には、揺るがぬ意志があった。


「ママをこのまま捨て置くなら、それは違うって、私は言わなきゃいけない」


 怒りも恐れもなく、初めて息をするように、彼女は言葉を差し出した。リナリアの眼差しが、正面からカエルミンに向けられる。その黒いヴェールの奥に何があろうと、怯まず、逸らさず、ただまっすぐに。まるで光の粒子が眼窩の奥へ入り込み、その魂に問いを突きつけるように。


「あなたは、混沌の時代に(いき)たのでしょ? 自分で言ってたわ。理も通じない時代に、力だけで秩序を築いたって。なら、怖がらないで。……ルミナは、あたらしい秩序を創る子よ。ママがそう望んだように」


 その言葉の裏には、声にされなかった無数の問いがひそんでいた。恐れることしかできないのなら、あなたは本当に王だったのか――と。カエルミンの右手がわずかに揺れた。風ひとつない広間のなかで、黒鉄の指が空気を裂くように滑る。その音なき軌跡が、リナリアの言葉を切ろうとするかのように。


「口が過ぎる、娘」


 低い声。そのひとことに、何体かのスケルトンが身じろぎする。死者でありながら、身を守る本能が――いま、目覚めていた。リナリアは怯まない。むしろ一歩、踏み込むようにしてセルトゥールの方へと身体(からだ)を寄せた。


「あなたは……違う。わかってくれてる。……ね?」


 視線を向ける。頼るでもなく、懇願するでもない。ただ、「知っている者」同士の、まっすぐな確認。セルトゥールは、うなずかない。答えを与えることも拒絶することもせず、ただ――受け止めていた。全ての光と影を、その静かな骨の奥に沈めて。ノクティスの息が、かすかに震えた。


「私も、もう立場を選ばねばならないようだな」


 その呟きに、広間の空気が再び揺れる。骨の王たちの空気が変わる。重みが増す。カエルミンがわずかに身を乗り出した。目に見えない怒りが、黒い布の奥から放射される。


「貴様が、解放を選ぶというのか……? 感傷で、秩序を棄てるのか?」


 だがノクティスは、それを一蹴するように視線を逸らし、娘へと向き直る。その眼差しにあったのは――覚悟。遙かに長い死の時の果てでようやく届いた、痛みを伴う愛の輪郭。


「私は、フェリオラを愛している。……リナリアは、私の娘だ。……そしてルミナもまた、家族だ。希望だと、私は思う。だから私は――解放の道を、選ぶ」


 広間に満ちていた霊圧が揺らいだ。幾体ものスケルトンが無言のまま後ずさる。誰も叫ばない。だが、その沈黙は悲鳴。ノクティスの宣言は、均衡という名の幻想を破壊した。


「秩序ではなく、解放を選ぶのか」


 カエルミンの声が、深い井戸底から響くように広がった。だが、ノクティスはそれには応じない。ただ、リナリアを見て、かすかに――ほんのわずかに、笑った。


「いや。私たちは、始まりを選んだのだ」


 その言葉は、広間に重く、そして温かく沈んでいった。決して鋭くはない。けれど、誰の武器も届かぬ場所で、確かに世界を変えていくような言葉。


 ――そして、それは誰にも否定できなかった。


 空気は凪ぎ、だが凪いでいるのではなかった。その沈黙の底には、既に動き始めた何かの胎動があった。未来。再生。選択。そして、結び。その夜、死者の広間には確かに生者の声が響いた。それは、罪を糾す叫びではなく、過ちを抱いて進む赦し。

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