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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第六章 死の王

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第九十話 黒いスケルトン

 その時、死者の広間に、乾いた音が響いた。カン……カン。指の関節が、金属を叩いたような鈍く透き通った音。誰かが、手を叩いた。広間の全ての存在が、呼吸を止めた。

 空気が、黒く揺らいだ。繊細な織物のような質感。極限まで薄く、風に溶けそうなほどに軽やかでありながら、その黒は、すべての光を吸い込んで返さなかった。その布が、まるで葬礼の祭壇から延びるように、その者の全身を包み込んでいた。中から響く声があった。


「いや、いい話だったな。胸が躍ったよ」


 歩み出たそれは、明らかに異質。まるで超硬質の鉱石がそのまま意思を持ったかのように、その骨格は漆黒の艶を宿していた。磨かれた刃物のように、光を(はじ)くのではなく、飲み込む。関節には一切の摩耗がなく、滑らかに、静かに、優雅に動いている。

 そして、その骨の形は――人ではない。脊椎はわずかに湾曲し、肩幅は異様に広く、肋骨の湾曲はむしろ前方へ突き出ていた。四肢の関節には明らかに跳躍の構造が含まれており、足の骨も、爪のように尖っていた。人の進化系とも、退化系とも言い難い、不気味な野性がそこにあった。ジークの呼吸が詰まる。ただ見ているだけで、胸が圧迫され、心臓が何か見えない手に握られているかのよう。冷や汗が滲む。横にいたルミナが、即座にハンカチを取り出し、彼の目を隠すようにかぶせた。


「見ないで、ジーク。あれは……見てはいけない」


 その声には、焦りがある。あの存在を見えてしまう者、そして見えてしまった者の心臓が停止するという事実を彼女は知っていた。黒いスケルトンは、それでもゆっくりと手を上げた。布の隙間から、骨の輪郭がわずかに見える。


「私は、フェリオラに召喚された者。……セルトゥール・ガルナヴァン。獣人の王だ」


 声は涸れていた。音ではなく、鼓膜を通さず、脳の中に流れ込むような――死者の声。


「今では純潔の血は混ざりきって、伝承もないだろう。私もドラゴンの妃を娶りたかったものだ」


 ジークはその異様さに、うめき声ひとつすら出せなかった。

 その隣に、もうひとつの影が現れる。その姿もまた、黒いベールに全身を包まれていた。ひとたび足を前に出すと、広間全体がわずかに震えた。まるでこの地を、彼の足音だけが支配しているかのように。

 布の隙間から見えた骨格は、太く、頑健で、すべての関節が戦いのために最適化されていた。背筋はまっすぐに伸び、骨の軋みはなく、歩みは一分の狂いもない――まるで戦場を歩く不沈艦。骨の材質はセルトゥールと同じ、黒い超硬合金のようなもの。欠けることなく、重さをそのまま力に変える圧力を(まと)っていた。その者は、何かの記憶を噛むように、重たく口を開いた。


「カエルミン・ローダン。帝国がまだ小さいころ、混沌の時代にこの地を支配した」


 名乗っただけで、死者たちの空気が一変した。名も記録も滅びたはずの呪われた存在が、その言葉だけで場を支配する。


「秩序なき時代、理など語っても誰にも届かぬ。届くのはただ――力のみ」


 言葉に高ぶりはなかった。怒声でもなかった。ただ、真実として、そう語っただけ。まるで誰もが当然そうであるべきというように。


「呼び声が聞こえた。フェリオラとやらの手によって、私はまた、この地に戻ってきた」


 言い終えたその瞬間、彼の背後の空気が熱を持ったように震えた。黒いベールがわずかに揺れ、見えそうで見えない、その顔がこちらを向いたような錯覚が走った。今は亡き混沌の時代に、軍事(りょく)だけで王国を築き、滅びた男。自らを狂ったとは認めない王。

 ふたりの登場に、広間の空気がまた一度、静かに緊張を孕んだ。ノクティスは重たく腰を落とした。椅子がわずかに軋む。無言で、リナリアとジーク、ルミナを見やると、手を挙げて席につくように促した。

 席に着くと、空気が変わった。(とき)が収束し、結ばれるべき記憶が、今、この場に封じられた。まるで、それが初めから決まっていたかのように。(とき)の流れが変質する。記憶の座標が、何かに吸い寄せられるように収束していく。ノクティスが、口を開いた。


「君たちの言いたいことは、わかっている。私とフェリオラは、死の精霊の暴走を止めることができなかった。私たちは気づいたときには、もう死者になっていた。ただ、意識だけは残っていたんだ。それが、幸いだったのか、どうかは……わからない」


 リナリアの呼吸が、浅くなる。ノクティスは目を閉じることなく、語る。


「そこからが、本当の混乱だった。精霊が濃く満ちた地では、死んだ者たちの魂が復元されていく。それも、一瞬のうちにだ。コントロールできなかった。……数が、多すぎたんだ」


 広間の闇が、まるでそのときの混沌を再現するように震えた。


「私たちは、考えた。いっそ、偉大な指導者たちを呼び戻し、統治させるしかないのではないかと。だが……古代の魂を復元するには、それを呼び戻すための魂の痕跡が要る。失われた過去を見つけることは難しかった」


 リナリアは、目を見開いた。


「まさか、古代の遺物(アーティファクト)を使ったの?」


 ノクティスは頷く。


「そうだ。古代の遺物(アーティファクト)に刻まれた魔力は、(とき)を越えて残り続ける。その痕跡を辿って……我々は彼らを呼んだ。セルトゥールと、カエルミン、君たちは、応じてくれた」


 カエルミンが静かにうなずく。


「まだ私は結ばれていたようだ。これは意思を超越した執着があったのかもしれない」


 セルトゥールは骨の腕を広げて言う。


「俺は生きてることが好きだったのだろう。いまも楽しくてしょうがない」


 その声が少し落ちる。


「ひとつだけ、俺からも聞いてみたかった。……なぜ、フェリオラが幽閉されている?」


 リナリアが、父を見た。その瞳の奥が震える。


「ママは……なぜ?」


 口を開いたのは祖父。


「我々はな、誰かに縛られて動いてるわけじゃない。それぞれが、自分の意思でここにいる。そして、誰もここにいることを歓迎しているわけではないんだ」


 視線を伏せる。


「ある者は、国を奪おうとした。ある者は、時を戻そうとした。ある者は、支配を目論んだ。……そして、生者を傷つけた。ヴェルンハイム共和国から、生者をすべて排除したとき……その責任を、フェリオラが負うことになったんだ」


 リナリアは、息を飲んだ。理解は、すぐにできなかった。ただ、胸の奥で何かがひどく冷えていくのを感じた。父は再び、黙っていた。この沈黙に、何を返せばいいのか。ノクティスが重い口を開く。


「生者を死者に変えたことで、我々の間に亀裂がおこった。そして悟ったんだ。死者から生者は生まれない。すべての人間が死者になった時、それで人類の歩みは止まってしまう。それは我々が望む未来ではなかった」


 ノクティスの言葉が落ちたあと、広間に響くのはただ、衣擦れと骨のかすかな音だけ。誰もが語る言葉を持たず、そして誰もが心の奥底で、その真実に触れていた。


 ――死者からは、生者は生まれない。


 そのひとことが、呪いのように広間を沈黙で満たしていく。生者がいなくなれば、未来は消える。死者だけの世界は、永遠ではなく、無限の停止。意識があっても、言葉があっても、そこに(せい)がなければ――それは、過去の断片でしかなかった。

 セルトゥールも、カエルミンも、誰も言葉を継がない。死者の王たちは、かつての野心を手放していたわけではない。だが、この場所に(つど)った今、全員がそれを――理解していた。沈黙の海を裂いたのは、リナリアの声。


「私ね、ずっとわからなかったの。死って、何を失うことなのか。でもある日、私は……生んだの」


 リナリアは、立った。ルミナがわずかに肩をすくめ、ジークが目隠しをしたまま声の方に顔を向ける。


「私は、ルミナを生んだの。死者から生者が生まれないって……本当にそうだったの? 本当に、そう言い切れるの?」


 ルミナはゆっくりと目を伏せた。その髪がわずかに揺れ、死者たちの空気をまるで拒むように――いや、受け入れたように、溶け込んでいた。


「ルミナはね、ママが最後に残した魔法で生まれたの。死の魔法のなかから、命が生まれたの。この子は、死から生まれたのよ。そうでしょパパ」


 スケルトンたちの肩の骨が、わずかに揺れた。頷いたのか、震えたのか、判別がつかない。骨の摩擦音が、静かな雨音のように広がっていた。それは動揺。死の魔法――すなわち、断絶の魔法だと思われていたもの。それが、新たな連なりを生んだというのか?


 「ルミナは魔法生物。でも……意識があって、言葉があって、私と繋がってる。温度があって、私のことを覚えてる。そして、この子の中には、まだ知らない誰かが芽吹(めぶ)ける余白がある。それって、生きてるってことじゃないの?」


 誰も答えなかった。ノクティスの左手が、右手首を抑える。わずかに歯が噛み合い、音を立てた。それでも目は閉じず、言葉だけを選ぶように、ゆっくりと口を開いた。


「……それが……本当だとしたら……」


 リナリアは、まっすぐに見返した。


「パパ、ママが罰を受ける理由って、まだあるの?」


 その問いは、論理ではなく、祈り。全てを赦せと言っているのではない。ただ――考え直してほしいと、娘が父に、死者たちに、そして世界に問いかけたのだ。死から生は生まれないという理を覆す、唯一の存在――それがルミナ。それは、フェリオラが人知れず残した反証であり、希望であり、証明。沈黙のなか、誰かが小さくつぶやいた。


 「それは……神の奇跡か、それとも……(ひと)の可能性か」


 誰の(こえ)かは、分からなかった。だが確かに――その瞬間、広間にいた全ての死者の中に、一縷の光が灯った。

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