第八十九話 かぞくの形骸
父の胸に触れたとき、それまで張りつめていた何もかもが、ひとつずつ剥がれていった。空っぽだった部分。誰にも触れられなかった部分。ずっと、触れてほしかった。
叔母のエリオーネは、私をよくしてくれた。母のように世話を焼き、誰よりも優しく接してくれた。でも、それでも。心の奥では、何度も家を飛び出したかった衝動があった。ただ、たったひとつでいい。「私だけを見ていてくれる誰かがいる」と、そう感じたかった。エリオーネの優しさは本物だった。それでも私は、彼女の視線が常に「母の代わり」であることに気づいていた。彼女が見ていたのは私ではなく、母の面影。
でも、いま、それを感じる。血の温度も通わない、干からびた皮膚。膠着した筋肉。私だけを迎えてくれる腕が、胸が、今ここにあった。ただ――ふっと、胸元で呼吸がつまる。私は、顔を離した。父の顔を見た。動かない筋肉。剥がれ落ちかけた頬の奥で、なにかがこみ上げようとしているのがわかった。けれど、それでも。視線の揺れ方、肩の揺れ、指先のかすかな震え。すべてが、私を慈しむしるしだった。
「ママは?」
たったひとつ、たどり着けない名前。その一言が、世界の縁を裂いた。ぞわり、と空気が反転する。ささやきが渦を巻くように湧き上がった。広間のあちこちで、アンデッドたちの口が動き出す。今度は、はっきりと聞こえた。
「魔女だ」「ノクティスを惑わせた」「一族の誇りを台無しにした」「ウィンスレットの血が我らを崩した」「あの女は呪われている」
吐き捨てるような罵声。冷たい怒声。言葉の刃が、私の母に向けて次々に放たれていく。私の胸が、ぎゅっと縮まる。その時、父はなにも言わなかった。背を向けたまま。
「……どうして?」
その問いかけに、スケルトンたちの中から二体が、静かに歩み出る。骨のきしむ音はなく、衣擦れのようにわずかな気配だけが前に出てきた。どこか、見覚えがあった。記憶の底に沈んでいた。光も音も届かない幼い記憶のなかで、確かに何度か抱き上げられたことのある腕。
「おじい様?」
声に出すと、そのスケルトンは穏やかに頷いた。顎の骨が小さく動く。
「まさか孫娘の成長した姿を、こうして目にすることになろうとはな。……奇妙なことだが、嬉しいよ」
私は自然に、歩み寄っていた。その骨に触れる。冷たく、硬いはずなのに、包まれるような感覚があった。
「私も、こうしてお話できて、うれしいです」
そのまま、後ろに佇むもうひとりに目をやる。背丈と仕草で、なぜか確信があった。
「おばあ様ね?」
答えを待たずに、私はその骨の胸元に腕を回した。涙は出なかった。ただ、静かに心の中でなにかが満ちていく音がした。だが。問いは、まだそこにあった。私は祖父に向き直った。
「ねえ、おじい様。どうして、ママはいないの?」
答えたのは祖母。声は静かで、震えていなかった。
「私たちはね、リナリア。皆、彼女の犠牲者なのよ」
私は、目を見開いた。祖母は続けた。
「あなたにこうして会えたことは、たしかに嬉しい。けれど……それでも、これは本来あってはならないこと。わかるでしょ?ノクティスも、あなたも、もっと一緒に暮らせたはずなの。……でも、それを引き裂いたのは、あの女。あなたのお母様なのよ」
その言葉の棘が、胸に突き刺さる前に、祖父が手を上げて制した。
「やめなさい。私たちはまだ……ただ受け入れられていないだけなのだよ。天才のすることは、しばしば理解を超える。時間が必要なこともある。……ウィンスレットはその責任を、たったひとりで引き受けたんだ」
ウィンスレット。それは、母の姓。母が背負わされたもの。この場から排除されたような呪いのような名前。私は、父を見た。まだ背を向けたまま。
「パパ……それで、ママはどうしてるの?」
長い沈黙ののち、父がゆっくりと振り返った。潤みのない瞳の奥に、たしかな悲しみがにじんでいた。
「……幽閉されている」
私は、世界の底に落ちていく感覚がした。父の声は震えてはいなかった。ただ、深くうなだれていた。祖父が、そっと父の肩に手を置く。
「ノクティスはな、今でも彼女のことを愛している。……だからこそ、いまも悲しんでいるんだ。リナリア、お前になら、わかってやれるだろう?」
私はゆっくりと、広間を見回した。亡者たちの視線。死者たちの論理。だれもが正義を語り、だれもが傷ついている。けれど、その中で、たったひとつだけ言えることがあった。
「私は、ウィンスレットよ」
声が、静かに空間を震わせる。
「私は、お父さんとお母さんに会いにきたの。お父さんだけじゃ、だめなのよ」
ひとつひとつ、言葉を噛むように言う。
「あなたたちがしていることは、間違ってる。どんな理由があっても……私たち家族を引き裂く権利は、誰にもないわ」
沈黙が落ちる。あれほど騒がしかったアンデッドたちが、誰ひとりとして声を出さない。死者の広間に、言葉の重みが残されていた。でも、私の中では、それだけでは足りない。まだ、伝えきれていない。まだ、なにひとつ終わっていない。心の奥底から、焼けるような衝動がこみ上げてくる。私は一歩、前へ出た。
「あなたたちがやってることは、ただの制裁じゃない。絆を引き裂くことよ」
声がわずかに震える。けれど、それは怖れではない。怒りでもない――ただ、哀しみ。
「ママが……ママがしてきた研究って、なにか知ってる?」
誰も答えない。骨だけの眼窩たちが、私のほうを見つめている。
「魂が離れたって、意識が遠くなっても、人と人はつながっていられるって証明するための研究なのよ。魔法の根幹は、結びよ。意識のつながり。……魂が呼びかけて、魂が応える、そういう世界を信じてた」
喉が熱い。涙が出るわけじゃない。でも、声が少しずつ高くなっていく。
「ママはね……たぶん、誰よりも死が怖かった人よ。死ぬことじゃなくて――死んで、結びが切れることが」
私は広間を見渡す。数えきれないスケルトンたち。骨の影。空虚な目。
「あなたたちは、死んでも、ここにいる。姿を失っても、繋がりがまだここに残ってる。だったら、なぜ切り離すの?」
空気が静かに震える。何かが音もなく軋む。私は、拳を握りしめた。
「ママが求めたのは、ただひとつ――結びを取り戻すこと。ただ、それだけ! 誰もが失ったと思い込んでいたものを、取り戻すために。……それを、あなたたちは呪いだと呼んだ。でも、ママがやったことと、あなたたちがしていることは――全く逆じゃない!」
声が割れた。けれど止まらなかった。私の中に積もった、誰にも言えなかった孤独が、いま、言葉という形をとった。
「家族を引き裂いて、それが正しさ? 誰かひとりに罪を押しつけて、それが納得? あなたたちはウィンスレットという名前を、まるで呪のように忌み嫌ってる。でも、その名前の重さを、私が背負ってここに立ってるの。私は、あなたたちと争いに来たんじゃない! 取り戻しに来たの。お父さんと、お母さんと、家族だった記憶を!」
声が、空間をつんざくように響いた。リナリアの言葉に応えるものはなかった。ただ、その場にいたすべての死者が、たしかに沈黙という形で聞いていた。やがて、ノクティスがゆっくりと動いた。振り返る背中が、重たかった。――だが、確かに動いた。
「まだ――終わったわけじゃない」
その声は、まるで長い冬を越えて、ようやく芽吹こうとする芽のように、脆く、それでもたしかな力を持っていた。私の胸の奥に、風が吹いた。涙が出なかったのは、たぶん、私はもう泣くことすら通り越していたからだ。私は、自分の名をはっきりと告げるように、最後に一度、言った。
「私は、ウィンスレット。……そして、ノクティスの娘。フェリオラの娘。リナリア・ウィンスレット」
その名は、かつて呪われた響き。けれど今、その名は、静かな祈りとなって広間に息づいた。




