第八十八話 不浄の肖像
左指の関節が、砕けた氷のように音を立てた。次に肘。肩。膝。背骨。ひとつひとつ、忘れ去られた存在が、自分を思い出すように戻ってくる――そんな目覚め。目を開ける。視界が一瞬、蒼く霞んだ。乾ききった眼球の膜が、ようやく液体の感触を思い出していく。そのまま、白く、染みもない天井を見つめていた。
私はそっと左手を上げる。指は細く、皮膚はまるで蝋のように滑らかで、熱がなかった。弾力も血の色もないが、それでも確かに自分の意志で動かせる。爪の根元に薄く青い血管が浮いていた気がしたが、それはおそらく幻想。
──どれくらい、眠っていたのだろう。
ベッドの端に目をやると、花瓶に生花が挿されていた。淡い色のラナンキュラスとユリ。茎はまっすぐ水を吸い上げ、葉も萎れていない。水は澄んでいた。誰かが、つい昨日、あるいは今朝入れ替えたのだろう。
部屋は清掃が行き届き、埃ひとつ見当たらない。カーテンは結ばれ、床の敷物はわずかに香を含んでいた。私の眠りを守るために、誰かが働いていたのだ。
私は、ゆっくりと上体を起こす。背骨がきしみ、骨盤が鳴る。頚椎から腰椎へと、ひとつひとつが、石のように凝り固まっていた。思わず吐息が洩れる。肉が膠着している。娘に会えば、この肉体への未練も消える。ようやく、この姿を手放す時が来たのだと、胸の奥が静かにささやいた。
「怒られるかな」
声は思ったより掠れていた。けれど、確かに出た。言ってしまってから、自分の口元に笑みが走るのが分かった。ああ、そうか。ずっと心の底に残っていたのは、「彼女に何も告げられなかったこと」なのかもしれない。父親失格だと、自嘲した。
扉が音もなく開いた。滑らかな動きで、数体のスケルトンのメイドたちが室内へと入ってくる。それぞれが身に纏うのは、洗い立ての黒と白のメイド服。皺ひとつなく整えられた襟元と袖口は、装飾よりも規律を語っていた。白のエプロンは清潔そのもので、骨の関節がまるで布地に仕立てられた部位のように、規則正しく機能していた。無機と有機の境が曖昧になっていた。手には仕立てのよい着替えを抱え、それぞれの動きは無駄がなく、所作には静謐な気品があった。彼女たちの骨格はよく磨かれ、骨の節々には彫刻のような繊細な文様が施されていた。蝶の翅のように連なる骨の透かし彫り。その精緻さに思わず、目を細める。
「しばらく寝てる間に、美しくなったものだ」
私は呟く。メイドの一体が、かすかに頷いた。返答の言葉はなかったが、その沈黙すら礼儀に見えた。部屋の扉をくぐる前に、私は背を向けて命じた。
「皆を起こして、広間に集めてくれ」
メイドたちは音を立てずに、別々の方向へと動いていった。命令の意味を、言葉の前に受け取っていたような気がした。私は廊下に出る。静謐な長い廊下。そこに、大きな姿見が据えられている。通り過ぎようとして、ふと立ち止まった。
鏡のなかに、私が映る。目元の皮膚は剥がれかけ、口元の肉は乾いて縮み、頬は落ちくぼんでいる。まるで、泥から引き上げた彫像のようだ。私は一歩、鏡に近づいた。見つめて、しばらく、黙っていた。
「お顔が、どうされましたか?」
一体のメイドが、まだそこに残っていた。背後のメイドの姿も、鏡の端にかすかに映っていた。白いレースの縁が、黒い生地に奇妙なほどよく馴染んでいた。生身ではないのに、ずっと整っている。私は鏡から視線を逸らさずに答える。
「これで、娘が私だと分かるかどうか、それが心配でな」
メイドは一歩だけ近づいて、問う。
「では、わたくしのことは、分かりますか?」
私はふっと笑った。
「君たちはよく入れ替わるからな。正直、わからないな」
メイドは骨の音を立てずに微笑んだ気配をまとい、言った。
「だから、残しているのでしょう?」
「……まぁ、そうだがな」
私は鏡から目を離した。広間へ向かうため、再び歩き出す。石畳の床に、足音だけが淡く響いていた。
広間はすでに整えられていた。長テーブル。その周囲に集まる、静かな影たち。スケルトンたちが壁際に整列し、その中央には三つの影があった。
ひとつは、目に表情を浮かべることなく座っている、人間の少女。ひとつは、獣人の耳をぴくりと動かす、白い毛並みの少女。ひとつは、強靭な体つきの、竜の血を引く青年。
私は歩を進めた。誰も口を開かないまま、その中心へと。肉が引き攣る。唇の端が、乾いた皮膚に引っかかり、しばし動きを妨げる。それでも笑ったつもりで、私は進む。
──娘よ、覚えていてくれているか?
私はもう、この姿を捨ててもいい気がしていた。
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小声が、波紋のように広がっていた。どれほど時間がたったのか、わからない。陽は高いままのはずなのに、広間のなかは時間そのものが滲んでいる。
ヴェルンハイム共和国の迎賓館ファルム・コラティナ――そう名づけられたこの宮殿の広間は、もともと外交官と高位の貴族たちのために用意された建築だったという。天井は高く、数えきれないほどのヴォールトが星を模して交差している。漆喰に塗られたその文様には金の粉が混ぜられており、燭台の灯りにかすかに反射しては瞬いていた。
壁面には、往年の共和国の名将たちが描かれたフレスコ画が並んでいたが、いまそのどれもがかすれ、時間の膜でおおわれている。床は、ひときわ磨きあげられていた。灰色の大理石が鏡のように足元を映し、足音ひとつ立たないほどに整っている。
中央には、長いオーク材のテーブル。その天板には花梨の縁飾りが施されていて、いまも昔もこの空間において唯一人間らしい温かさを保っていた。
そのテーブルのうえには、季節の果実が銀の皿に盛られている。葡萄、梨、リンゴ、干し無花果、そして透き通るような蜜柑。食器は丁寧に磨かれ、給仕係のスケルトンたちは無言のまま、グラスの水を三たび入れ替えていた。カップの縁から静かに溢れた雫が、白いクロスに円形のしみを描いていた。
私は、背をのばして座っていた。というより、うんざりしながら。四方の壁際から、アンデッドたちが次々に現れ、口元に手をあてて、私たちを見ながらひそひそと話していた。耳を澄ませば、声の輪郭は聞こえるのに、意味がつかめない。死の後に残るものは、すべてが反響のよう。ここは、死者のくせに妙に整いすぎている。果実は人のために、花瓶は見せるためにあるらしい。死者たちは口を持たぬくせに、形式だけは生者よりもきっちりしている。
「見世物にされてる気分だが……この待遇は悪くないな」
ジークが葡萄をひとつかみすると、粒をひとつずつ口に放り込みながら言った。薄皮ごと噛み砕く音が、やけに耳につく。
「……お父さん、貴族でも王族でも何でもなかったはずなんだけど。何を考えてるのかしら」
そうぼやいてみたが、ため息にもならなかった。私は、父のことをほとんど覚えていない。幼い日の面影は霧のように散っていて、記憶の奥にあるのは、いつも母の声ばかり。なのに、この場所にいると、なぜか父の気配だけが、どこかから私を見ているような気がした。
ルミナは黙ったまま、リンゴを手にしていた。ひとくち齧りながら、周囲の声に耳を澄ませている。耳が時おりぴくりと震えるのがわかる。彼女もまた落ち着かないらしかった。
四度目の水が注がれた。給仕のスケルトンが、音を立てないようにカップを置く。そのとき、広間の正面――黒曜石で縁取られた大扉が、ゆっくりと開いた。扉の先には、足音がないのに歩みがある気配があった。
やがて、その姿が現れる。他のアンデッドとは明らかに異なる。骨だけではない。皮膚は残っていた。けれど血の色はなかった。肉がところどころ乾き、裂け目を残している。それでも眼差しは空虚ではなく、何かを見つめていた。視線の焦点を持っていた。私は、とっさに悟った。
――お父さんだ。
そんなはずない、と一度は思った。けれど、足が勝手に反応していた。心よりも身体のほうが先に答えていた。あの背格好。歩き方。肩の傾き。頬骨の線。なにより、あの気配。あの沈黙の形。どれもが、遠い昔に包まれていた温もりと、重なった。
ジークが渋い顔をして、わずかにのけぞったのがわかった。だが、私は前のめりになっていた。気がつけば、身を乗り出していた。脚が勝手に動こうとしていた。ルミナは驚いたようにリンゴを手放し、テーブルの上でそれがころんと転がった。
ジークが姿勢を正す。彼にとっては、あまりに異様な光景だったのだろう。皮膚の剥がれた顔、筋肉の痙攣が残るような歩き方、腐肉をまとったまま、脚を引きずってこちらへと向かってくるその姿。けれど、なぜか私は怖くなかった。
彼がスケルトンにならなかった理由を、私は直感していた。肉と皮を残すのは、執着であり、愛着であり、誰かに「わかってほしい」という最後の願いだ。目元の奥に残ったもの。それが、私には届いていた。たとえその顔が、崩れかけた像でしかなくとも。
私は立ち上がった。椅子がきい、と音を立てた。アンデッドたちの囁きが止まる。私は駆け出した。スカートが膝にまとわりつく。空気ではなく、胸の奥で何かがほどけたのがわかった。考えるより先に、私はもう走っていた。
私は、父の胸に飛び込んだ。それは、温かくはなかった。けれど、確かにある。過去ではなく、幻でもなく、今ここにいる。私は父の腕に抱かれていた。




