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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第六章 死の王

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第八十七話 言葉になるまえに

 草に顔をくしゃくしゃにしながら、娘はしゃがみこんでいた。地面にぽっかりあいた蟻の巣をのぞきこみ、何かを囁いている。言葉ではない。音ですらない。けれど確かに、そこには意志のようなものがあった。「おいで」と呼ぶような、あるいは「どうして」と問うような――いや、そのどちらでもない。私にも解けない、かたちのない呼び声。それはまだ輪郭を持たぬ、何か古いもののささやきだった。

 彼女は三歳。話せる言葉は、まだ指折り数えられるほど。なのに、知らないまま何かを知っているような、不思議な目をして、ただそこにいた。

 私は、棺のそばに立っていた。亡き父を見送る儀式の前日。母は数年前に先立ち、この娘には祖父母の記憶も、きっと影のようにしか残らないだろう。けれど、()を知らぬ何者かに、娘は確かに通じようとしていた。


 ――ただの遊びだと思っていた。


 幼い子にありがちな想像ごっこ。だが、その小さな手がそっと草の先にかざされたとき、私は思わず息を呑んでいた。見えない何かに、娘は話しかけられていた。いや、聞くというより訴えかけられていた。そこには感情の起伏でも論理の導きでもない、もっと根源的な交信があった。


 ――精霊、なのか。


 空気に、目に映るはずのない輪郭が、ふいにその指先の周囲で立ちのぼる。あれは錯覚ではなかった。目に見えなくても、そこに何かがいると、肌が知っていた。魂とは、概念でも力の残滓でもなく、誰かがそう「感じ取った」瞬間に確かになるもの。精霊たちは、終焉の中にもなお棲みつく。輪郭を持たず、言葉にならないままに、呼びかけてくる。娘は穏やかに目を閉じ、体をかすかに揺らしていた。風にあやされる草のように。


 ――風が、吹いていた。


 私は娘のとなりに腰をおろす。遠くで葬儀の準備をする親族のざわめきが、かすかな音として流れてくる。陽は傾き、地面の色がゆるやかに橙へと染まりはじめていた。


「どんな声だった?」


 私の問いに、娘は草を一本抜いた。それを左右に、ゆっくりと揺らす。その動きが、彼女のこたえだった。


 ――ゆれ、たゆたう。


 それは、言葉が生まれる、もっと前の感覚。世界がまだ呼吸で語られていた頃のような、古い魔法。娘はもう一度、何かに手を差し出した。私には、空気がふっと、そこだけわずかに揺れたように見えた。


「……それ、なにをしてるんだ?」


 娘は振り返らなかった。だが、小さな背中が、確かに答えていた。なにかを渡している。なにかを返している。なにかを、交わしている。私は咄嗟に術式を思い描いた。だが、そこには魔法陣はなかった。発動の詠唱もなかった。媒介も、構成も、象徴も、ない。


 ――それは、非文字むえんしょうの魔法。


「かえすの」


 娘が、ぽつりと呟いた。草の音よりも小さく、風の中に沈んでいくような声。その響きに、私は思わず背筋をこわばらせる。娘は、まだ名を知らぬものと、静かに息を合わせていた。それがどこから来て、どこへ行くのかも知らずに。


 ――彼女は、契約している。


 それはもはや、想像遊びではなかった。娘は精霊に何かを返していた。あるいは、託していた。何千年も前から無数の魔法使いたちが夢見ながらも叶えられなかったその瞬間。言葉の媒介を経ずに、魂が魂と結び合う光景が、目の前で起きていた。


 ――まさか。できるのか。


 記憶の底から、ある声がよみがえる。娘の母。そして、彼と並んで死を研究した者。


『意識とは、魂の現れではない。魂と世界をつなぐ扉のこと』

『魔法とは、その扉がわずかに開いたときに現れる現象』

『文字のない言語、それが最初に精霊が交わしたかたち』


 娘が振り返る。その小さな瞳が、私をまっすぐ射抜く。その奥には、どこかで見たはずのない、森の葉脈が網のように流れていた。記憶の線。感情の水脈。風のうねり。名づけようのないものたちが、そこにあった。


「……しってるよ」


 私は瞬きした。喉が、音にならない震えを生む。


「……何を?」


 娘は、それ以上は答えなかった。ただまた、小さく身をかがめ、蟻の巣穴をのぞきこんだ。


 ――もう、いないと分かっている?


 そこにいるけれど、もういないということを。目の前の棺に、身体(からだ)があっても、それがもう戻らないということを。言葉より先に、その空白を「知覚」していた。私は膝を折る。そのまま力が抜けるように、地に座り込んだ。


「君は……なにを……?」


 声は震えていた。問いはもはや、言葉の形をとるのがやっとだった。娘は答えなかった。答える必要がないかのように、ただ囁きつづけていた。彼女の言葉は、言葉ではなかった。彼女の声は、風とともに土へと還っていった。私はそれを、ただ風の音として聴いていた。意味もなく、でも忘れられない音として。

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