第八十六話 境界を喰むものたち
草原をわたる風が、昼のぬるさを運んでいた。熱を孕みながらもどこか乾いていて、遠くから流れてくる音の粒を細かく砕いていく。リナリアたちは、ゆるやかな起伏の続く丘陵を歩いていた。ここはファルム・コラティナへと続く南麓の道。見渡すかぎり、背の低い灌木と、淡い黄緑の草が一面に広がっている。その草の海に、ところどころゆったりとした影が浮かんでいた。
白と茶の斑模様。乳牛たちだ。数頭ずつ群れをつくり、腹を地面に預けて寝そべったり、しずかに草を噛み潰していた。尾を左右に払い、虫を追いながら、のどを動かす動作がやけに静かに感じられる。生きている音だ。土の上に積み重なる糞の匂いが、風に乗って鼻腔をくすぐった。甘やかで、むせるほどあたたかい匂い。そのすべてが、確かに「生」の存在を証明している。
リナリアが、ふと足を止めた。視線の先で、牛のあいだを緩やかに巡る細身の影がひとつあった。
遠い丘の縁をゆっくり歩くそれは、骨だけの体を持ったスケルトン。背中を丸め、くたびれた帽子をかぶり、一本の枝のような鞭を手にしている。乳牛たちは、その動きに逆らわずに身を傾け、進路を変えていく。草と虫と糞にまみれた牧場に、死者の影がなじんでいた。不自然なのに、不自然でない。死んでいるはずの者が、生きているものの世話をしていた。
「……この先に、ほんとうに王様がいるのか?」
ジークの声は風に紛れるほど低かった。問いかけというよりも、独り言に近い。それはリナリアの足が止まった理由を、確かに見ていた者の言葉。リナリアは返事をしなかった。風を読むように鼻をひらき、空気の奥を感じ取っていた。
「のどかね」
ルミナがぽつりと言った。白銀の毛が陽光をうけてふわりと光を反射する。
「クラウスの家のミルク、あれもここから来てたのかもしれない。あの味……濃くて、甘くて、ほんの少しだけ草の香りがした。命の味がしてた」
少し考えるように間を置いて、ルミナは続ける。
「たった一杯のミルクなのに、あれを飲むと、私、生きてるって感じがした」
リナリアはそっと目を閉じた。クラウスの家で過ごしたあの時間が、胸の底に残っていた。温もりのかけらのような記憶。
「この死者の土地のほうが、よっぽど豊かに見える」
ジークが言った。その声に、少しだけ息を潜めたような響きがあった。
「まるで、何かに備えてるみたいだ」
「何に?」
リナリアの問いに、ジークはすぐには答えなかった。ゆるやかに顔を上げ、空を見た。濃すぎず、薄すぎない青が、雲の切れ間を縫って空を横切っていた。
「ドラゴンさ」
その言葉は、空の奥から引き寄せたように、まっすぐ落ちてきた。
「ドラゴンに、ミルクで?」
リナリアが笑った。軽口のように見せたが、内心ではどこか引っかかる響きを感じ取っていた。ジークの目は、冗談を受けとる様子はなかった。瞳の奥に、かすかに滲んだ影があった。
「考えすぎだと思う?」
ジークは問い返すように、すでに答えを持っている者の声で言った。
「危険なの?」
「ドラゴンは王だ。世界の上に立つ存在。誰の命令も受けず、すべてを自分のために創らせた。今は眠ってるが、それは均衡のために縛られてるだけだ。もし目を覚ましたら、また同じことを繰り返す。世界を喰い尽くすだろう」
風がひと筋、牛たちの間を縫って走り抜けた。しばらく何も言わず、三人は歩き続けた。その沈黙は、重さを帯びていた。
「ジーク」
リナリアが言った。歩を進めながら、彼の横顔を見つめた。
「ドラゴンのことより、ジーク自身のこと。家族のことは考えないの?」
その問いに、ジークは少しだけ目を伏せた。返答はなく、かわりに唇の端がわずかに吊り上がる。
「もう死んじまってるからな」
それは事実を述べる口調。感情の入らない声が、逆に痛みを残す。
「それでも……」
「ドラゴン王国では血統がすべてだ。俺みたいな半端な獣人は、最初から汚れってわけさ」
ジークは、笑った。それは笑いのかたちを借りた裂け目。乾いていて、割れた陶器のような音を立てていた。
「理由なんてねえんだ。そこにあるのは、ただ――存在してはならないって、それだけだ」
ジークの声は、まるで岩の裂け目をすべるように鈍かった。感情を切り離したふうでいて、その実、芯の奥で何かを砕いていた。リナリアは口を開いた。声は出ず、代わりに小さく喉が震える。唇を噛み、それでも一歩前へと進むように、やっと問いかけを吐き出した。
「でも、ドラゴン王国って……ドラゴンを祀ってる国なんでしょ? 神様みたいに、大切にしてる」
「だからこそ、だよ」
ジークの言葉には、乾いた棘があった。
「神が完全だから、不完全なものは許されない。そう信じてる。だから、汚れは徹底的に排除される。血筋も、生き方も、存在そのものさえ」
その「不完全」の中心に自分がいることを、ジークは語りながら再確認していた。しばらく沈黙が続いた。風が牛の尾をゆらし、空をかすめていく。そこに、ルミナがぽつりと呟いた。
「ドラゴンと精霊が戦争したって伝承……今なら、少しだけ信じられる気がする」
リナリアは言葉をつがなかった。そのまなざしが、ルミナの言葉の意味を受け止めていた。ジークもまた、否定の言葉を飲み込んでいた。ルミナは続けた。牛たちの咀嚼音の中に、透けるような声を重ねる。
「ジークの存在って、かつて争っていた獣人とドラゴンの間に生まれたんだよね。境界を越えた者の証だよ。だから私は、信じたいと思う。精霊も、ドラゴンも、きっと――一緒に生きられる日が来るって」
静かで、一点の濁りもない声。リナリアが受け継いだ血の物語が、風に乗ってその言葉に重なる。ジークはわずかに肩をすくめ笑った。けれど、音がなかった。吊り上がった唇に、笑いの温度は宿らない。
「……死者の王女さまが、そんなこと考えてるとはな」
「おかしい?」
リナリアが問い返す。表情にはわずかな緊張が滲んでいた。ジークは首を横に振る。
「いや。お前らしくてさ。……らしいって、いい意味でな」
その一言に、リナリアの表情が少しだけゆるんだ。だがすぐに、ジークの目が真顔に戻る。
「けど、本当に考えたほうがいいのは、ドラゴンよりもこっちだと思うぜ」
「こっち?」
「生者と死者の行く末さ。目の前のこと、ってやつ。お前が今その境界に立ってる。だからこそ、下手をすれば世界の均衡そのものが、崩れることだってある」
ルミナが歩みを緩めた。リナリアも同じように立ち止まる。ジークの言葉は誇張ではなかった。二人とも、自分たちが見えない刃の上に立っていることを理解していた。
「ドラゴンたちは、もし本気になれば、世界を灰に変える」
ジークは遠くを見るように言った。目線の先には、牛たちがいた。咀嚼をつづける乳牛の姿が、妙に静謐に見えた。
「この景色を見てるとな……ドラゴンのほうが、ずっと危険に思える。だからこそ、永遠に眠らせておくべきなんだ」
風が再び流れた。今度の風は、さっきよりも少しだけ冷たい。リナリアは、ゆっくりと空を仰いだ。丘の向こうに、ファルム・コラティナの雪冠が、ほのかにその存在を覗かせていた。雲の影が尾を引き、空の深さを際立たせている。その奥に、父がいる。母がいる。彼女が向かうべき場所。その答えを、まだ手にしていない。選ぶというより、選ばざるを得なくなっている。髪が風にそよぎ、視界の端でルミナが立ち止まる。
「その時は――私が止める。ドラゴンを。私が、なんとかする」
その声は強くはなかった。迷いの気配はどこにもなかった。言葉が内から発され、彼女の意志として形を成した瞬間。ジークは肩をすくめ、どこか誇らしげに笑った。
「期待してるぜ、王女さま」




